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那珂川にも走っていた川蒸気

過去ログ「那珂湊には…」以下のシリーズでも紹介した、那珂川河口の港町・那珂湊。ここにも川蒸気が大活躍した時代があったことを、最近出会った雑誌がきっかけで知ることができ、嬉しくなりました。

以下、古い絵葉書とともに、有名河川航路とは一味違った那珂川の川蒸気について、覚え書きを兼ねて紹介できればと思います。

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だいぶ前のことになるのですが、「常陸 那珂川の夕照」と題した、美しい彩色絵葉書を手に入れました。大正7年以降の発行で、裏面には「NISSHINSHYA TOKYO」の銘があります。

ご覧のとおり、ひょろ長い煙突を持つ曳船らしい船が、川面を遠ざかってゆく姿を映したもの。那珂川といえば河口にある那珂湊が、江戸期から明治にかけては商港として栄えた土地柄ですから、入手した当初は、曳船ぐらいいても不思議はなかろう…くらいの感想しかなかったのですが、ある雑誌と出会ったことで、その認識を改めることになりました。

その雑誌とは、「常陽藝文」。常陽銀行の設立した財団、常陽藝文センターの発行する、地元茨木に関する歴史や芸術などを発信する月刊誌で、昭和58(1983)年に創刊されたものです。

ふとしたことから、この雑誌に、ご当地の水運史を特集した号がいくつかあったことを知り、まとめて入手した中の一冊が写真の27号、「藝文風土記・蒸気船、那珂川を行く」特集号でした。

「もしかして、絵葉書の曳船の謎が解けるかも」と思って本誌を開くと、期待にたがわず、見返しに、絵葉書とほぼ同じ角度から眺めた曳船の大きな写真が! 手前には長々と曳索が伸びており、曳船に曳かれる艀から撮ったものだということがわかりました。上の絵葉書ももしかしたら、手前に曳索が写っていたのを、修正で消したのかもしれません。那珂川の川蒸気は、艀を曳く曳船式だったのです。

嬉しくなって読み進むと、蒸気船就航からその終焉に至るまでが詳しく書かれており、もう興奮状態。那珂川にも川蒸気航路があったなんて! 一度訪ねた土地ということもあり、ますます嬉しくなりました。以下「常陽藝文」の記事から、かいつまんでまとめてみましょう。

那珂川に川蒸気が初めて走ったのは明治11(1878)年のこと。地元大洗の事業家・石井藤助が、湊村(那珂湊市)~杉山下(水戸市)間約13kmに那珂川丸を就航させたのが、その始まりなのだそうです。

石井藤助は、ご当地で盛業中の旅館・金波楼(現在は『金波楼本邸・里海邸』と改称)の創業者であり、同館サイトによると多数の漁船を擁し、漁業や海産物加工までも手掛けた実業家だったようで、進取の気風に富んだ人物だったのでしょう。

その後は競合船社の登場による競争時代と中断を経て、明治30年新たに那珂川汽船交通会社が設立、これも3年後には那珂川汽船組合向運舎と汽船商社に分裂、ふたたびの激しい競争時代を迎えた後、周囲の調停もあって合併、同34年に那珂川汽船株式会社として再出発したとのこと。

那珂川の川蒸気は、大正12年に終焉を迎えるのですが、この間大正5年に、並行路線である湊鉄道(後の茨木交通湊線、現在のひたちなか海浜鉄道湊線)会社に吸収合併され、同社の汽船部門となっていたことが興味深いですね。

記事によると、汽船は汽車にくらべて運賃が安いのが魅力で、通学などで末期もそれなりの需要があったようです。湊線と違って、乗り換えなしで水戸まで行ける便利さも、あるいは買われていたのではないでしょうか。


「常陸名所 那珂川の汽船」と題した絵葉書。発行は大正7年以降と推定。客用艀の船尾に、操舵室と舵を結ぶ曲がった舵柄が見える。「常陽藝文」の記事によると、艀の船首側は畳敷きの船室で、中央部は座席の船室だったという。

船舶史的なくだりも、いくつか抜き書きしてみましょう。最初期の那珂川丸はわかりませんが、ほとんどは上の絵葉書のように、もっぱら曳船が客用艀を曳く運航形態を採ったようです。隅田川の一銭蒸気と同じですね。
明治39年時点での所属汽船は5隻、いずれも船体は木造で、全長10~13m、機関出力は9.64~14.9馬力だったとのこと。

曳船船隊の船名については、特に記載はありませんでしたが、先に触れた見返し写真の船尾を見ると、「第参向運丸」という船名が読めました。船名から考えて、向運舎時代に就航した曳船でしょうが、合併後もそのままの名前で使われたのかもしれません。

どういう理由で、曳船方式が定着したのかは書いてありませんでしたが、客用艀だけでなく、荷舟も3隻程度なら一緒に曳く「混合列車」もあったことを考えると、普通の船室を持つ川蒸気より、柔軟な運用ができたあたりが好まれたのかもしれませんね。

また、やはり浅瀬は多かったそうですから、大型船の通航が難しく、ために小型にまとまる曳船+艀方式が定着した、ということも考えられます。

ちなみに、船着場は湊町(那珂湊)を振り出しに、関戸、三反田、勝倉、下市、そして終点の水戸は水府橋下流・大杉山(杉山下)で、所要時間は上航約2時間、下航1時間~1時間30分だったとのこと。

最盛期は1日22往復の便があり、さらに明治時代には、水戸よりさらに上流の渡里や、那珂川だけでなく、涸沼川の大貫までも航路を伸ばした時期もあったようですが、いずれも短命に終わったようです。
回米輸送路としても古い歴史があり、「勘十郎堀」開鑿が成功していたら、メインラインになり得たかもしれない、あの涸沼川にも川蒸気が走っていたなんて。考えるだけで楽しくなってしまいます。

あまり長々と拾い書きをすると、差し障りがあるのでそろそろ止めにしますが、最後にひとつだけそそられた下りを。特集記事の最後の5行、「湊鉄道汽船部の蒸気船は、水戸・大杉山に住む実業家の弓削徳充らに買い取られたのち、関東大震災後の東京・隅田川で、“第二の人生”を送ったと伝えられている」。

う~ん、同じ曳船+客用艀方式だった、大川の一銭蒸気で二度のご奉公をしたとは! 一銭蒸気を写した古い絵葉書は、今でも比較的多く出てくるので、あるいは那珂川船隊の晩年の姿を、それとは知らず、すでに目にしていた可能性もありますね。

そうそう、那珂湊に関連した件で一つ、忘れていたものがあったのだった…。

4年前に那珂湊を訪ねたときには、うかつにも右の写真しか撮っておらず後悔したのですが、この古そうなRC橋の下を流れる川、「萬右衛門川」という、江戸時代から明治時代にかけて開鑿された運河だったのです。

矢野剛の「運河論」にも記事があるほどで、もともとは徳川家の籾蔵に舟運の便を図るための入堀だったのですが、明治45年に茨城県が拡幅と延長を行い、那珂川河口を経ずとも直接外海より出入りできる、延長約1.9kmの船溜兼漁船用運河として完成したもの。

現在は、北側の海に通じる区間が埋め立てられ、魚市場前交差点のあたりから開渠が始まり、栄町T字路付近で那珂川に注ぐ排水路となっていて、可航水路としては機能していません。
撮影地点のMapion地図

しかし、江戸時代以来の運河が街を貫き、短距離とはいえ、明治の初めに川蒸気を就航させた那珂湊! 水運趣味の目で見ても、実に魅力的な街であることが実感できました。ぜひまた訪ねてみたいものです。


(写真は20年5月6日撮影)

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タグ : 那珂川萬右衛門川川蒸気船常陽藝文絵葉書・古写真

コメント

有難うございます。

金波楼創業者の蒸気船事業の話題をご紹介して下さり、誠に有難うございます。
差し支えなければ、この記事をご紹介させて頂いて宜しいでしょうか?

Re: 有難うございます。

>きんぱろまん さん
こちらこそ、貴館サイトを参考にさせていただきました、改めて御礼申し上げます。
拙い一文でお恥ずかしいのですが、ご紹介いただければ幸いです。

有難うございます。

現在の交通事情では夢物語になってしまいましたが、一日22往復もしていた那珂川の蒸気船、江戸時代の勘十郎堀が現存していたら、さぞ風情のある水戸大洗地方でしたね。丁寧でワクワクした解説を有難うございます!

Re: 有難うございます。

>きんぱろまん さん
さっそく貴ブログにてご紹介くださり、ありがとうございました。
涸沼、涸沼川、那珂川と、魅力的な内水が広がるご当地ですから、土木史跡と併せて充分観光資源になるかと思います。個人的には、水郷のようなチャーター式の遊覧船があったら楽しいだろうなあ、と妄想しております。

仰る通りですね。

外輪太郎さま
恵まれた湖水環境を観光に生かせたらと考えております。記事のご提供有難うございました。
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