新潟の川蒸気史覚え書き

●なお、越後平野の近代河川舟運史については、すでに「続・川蒸気のイメージを求めて」で紹介した「報告(5) 『川蒸気船の活躍』加藤 功 氏」に、非常によくまとめられた概説があり、当時の航路図も掲載されているので、ご一読をお勧めします。
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2代目(明治42年竣工)と思われる、木製桁橋時代の萬代橋北詰から写した風景。非常に鮮明な写真で、橋詰右手に接岸している外輪蒸気船のディテールもよくとらえられている。橋台地左手に立つツートン塗装の旗竿らしきものは、入港する船舶に向けた信号旗を掲げるためのものだろうか。

外輪カバーは、よく見られる後端を流れるように整形したものと異なり、前後対称の半円形で、両端に大ぶりな階段を後付けした構造になっている。外輪カバーが船型にくらべかさがあることも手伝い、野暮ったさは否めないが、2階との行き来の必要上、階段を大きくせざるを得なかったこともあるのだろう。
なお、下掲の「新潟市全図」に記載された乗り場に従えば、この船は中ノ口川(新潟~燕間)航路の白根丸になるが、外輪船であること、17号を名乗っている(白根丸船隊は全て暗車船で、7号まで。安進丸船隊は外輪・暗車ともにあり、25号まで)ところから考えると、安進丸船隊の1隻である可能性が高い。写真の撮影年は不明だが、葉書は通信欄・宛先欄の比率が1:2であることから、明治40年~大正7年の発行と推定できる。

●河港街の有力者らによって立ちあげられた船社が、草創期の大きな力となった関東の川蒸気航路との違いは、その始まりが新潟県の働きかけによるものだったという部分でしょう。
明治3(1870)年に県は、信濃川の新潟と長岡三条の間に、蒸気船の航路を開くことを勧める布告を発しているものの、時期尚早だったのか、特に動きはなかったようで、実現されずに終わっています。
●明治5年に第2代県令・楠本正隆が着任すると、せっかくの県の勧めにも動こうとしない、地元資本家の腰の重さに業を煮やしたのかどうかはわかりませんが、かなり強力な働きかけがなされたようです。
明治6年に楠本県令によって町の有力者が招かれ、蒸気船会社の設立を勧められたのですが、「諸君の力で汽船会社を設けよと殆ど命令的にいい渡された」などという書かれ方を見ると、半ば強制だったのではと思われます。
●実際、県令に呼び出された地元有力者の一人、斉藤喜十郎の懐旧談によれば、「当時株式のことなど知るものがなかつたから、役銀を徴されると思つて、是非なく損失を覚悟で…」と、イヤイヤながら仕方なく、といった風がありありとうかがえますね。
●それでも蒸気船を建造し、苦労して東廻り航路(津軽海峡経由!)で待望の1番船「魁丸」が回航されて、明治7年7月に開業に漕ぎつけると、これが大盛況。「乗客も貨物も沢山で溢れ落ちる位であつた」「なかなか儲かつたから、其翌年は大阪から和唐丸を買い…」と、最初のイヤイヤぶりはどこへやら、一転してホクホクした書き方になるのですから、面白いものですね!
●まあ、蒸気船や鉄道など、新しいものが容易に見聞できた東京周辺と異なり、当時は海のものとも山のものともつかない蒸気船に投資するなど、抵抗を覚えるのが普通の感覚だったでしょうから、これは無理からぬことなのかもしれません。
●ちなみに2番船である和唐丸は大阪から、3番船である豊丸は琵琶湖から購入した中古船であったとのこと。このあたり船舶史として突っ込んだ記述がないので、建造所や寸法、性能はわからないのですが、回航方法も含めて興味を惹かれますね。
特に気になるのは琵琶湖からで、当然、最寄りの港まで陸送ルートを採ったのでしょうが、どこまで分解して、当時の街道をどうやって運んだのか、記録があったら読んでみたいものですね。


葛塚丸は通船川・阿賀野川を経て新井郷川の葛塚に至る近郊路線で、安進丸はメインラインたる長岡通いの信濃川航路および中ノ口川航路ほか、白根丸は中ノ口川航路に就航していた船名。ちなみに葛塚・安進丸は安進社、白根丸は白根曳船汽船会社の運行で、いわば船社・方面別の川汽船ターミナルであった。
発行年だが、上の絵葉書同様、通信欄・宛先欄の比率から明治40年~大正7年の発行と思われるが、左端に白山駅の見える越後鉄道は大正元年開通、昭和2年10月国有化されたので、推定発行年は大正元~7年の間にしぼられる。

●この大阪から来た…恐らく淀川航路に就航していたと思われる和唐丸、後に旭丸と改称されたのですが、実に不運な船でした。
明治12年には、乗客が袴の裾を外輪の駆動装置に巻き込んでしまい、死亡した人身事故があり、続いて翌13年3月には何と、汽罐(ボイラー)の爆発により甲板室が飛散、乗員乗客18名が死亡する大事故を起こしてしまったとのこと。
●関東の川蒸気でも、2船社の船が競走中に白熱し接触した(これは新潟でも安進丸・白根丸であったとのこと)りとか、小舟に衝突して転覆させたなどの事故はありましたが、規模からいってもくらべものになりません。これは国内の河川舟運史を見渡してみても、最大の事故ではないでしょうか。
●昭和8年に刊行された「新潟古老雑話」に、「蒸汽釜破裂の慘状」という見出しで、遭難者の救助に当たった人の談話を収録した記事がありましたので、抜き書きしてみましょう。
●「明治十三年三月七日の夜明方、枕元近く天地も動くやうな大きな響きに驚いて戸外に出ると、助けを呼ぶ聲や唸聲が今の議事堂前の汽船繋留所から聞えるので、駆付けてみると蒸汽の釜が破裂して船は底だけ残し、現はれてゐる所は八方に飛散し殆ど形も見えぬ程で、(中略)又面部、手足といはず火傷して骨は砕け肉は飛び血に染まつて、まだ死にきれぬものもあつた」
●目をおおうような凄惨さが伝わってきますが、乗組員の中には爆発で飛散し、遺体が発見されなかった人もいたとのことで、爆風はよほど強烈だったのでしょう。
●鉄道でも蒸気機関車の汽罐が破損し、蒸気が噴出した事故というのはいくつかありますが、車体が飛散してしまうような事例はさすがにありませんでした。
原因については記載がありませんでしたが、安全弁の不良などの原因により、罐によほどの高圧がかかっていたか、または罐自体が老朽か整備の未熟などで、構造的に弱くなっていたものとしか考えられません。他に同様の事例があったら、ぜひご教示いただきたいものです。


乗合自動車路線や鉄道など、競合する陸上交通の発達で、次第に路線を縮小していった新潟の川蒸気だったが、決定的だったのは大河津分水の完成による水位の低下で、信濃川航路が大正末に廃止され、続く昭和2年の大河津分水自在堰陥没では、最後の孤塁であった中ノ口川航路も欠航を余儀なくされるなど、大打撃を受けた。白根曳船は昭和10年、安進社は同13年に会社を解散している。

●通運丸に関する記録や紀行文には、船内で弁当の販売や、湯茶の給仕をする船員の描写が出てきますが、新潟の川蒸気にももちろん、同様のものがありました。
昭和44年当時、75歳だった女性が14歳から37歳まで勤めていたころの話を記録した、聞き書きが残っています。年齢から考えて、勤務期間は明治41(1908)~昭和6(1931)年と推定されますから、川蒸気の終焉近くまで勤められたことになりますね。
●記事によると、船内売店は「中茶屋」と呼ばれたとのこと。いわゆる海の家をかつて「浜茶屋」と呼びましたが、それに一脈通じる、のどかでどこか楽しそうなイメージを感じさせる呼び名です。
●取扱っていたものは、お茶はもちろん、アンパンにお煎餅、おこしや飴玉と定番の茶菓類から、ビン入りのお酒に牛缶、カニ缶などのおつまみ類。さらに冬季になれば、火鉢を1本いくらで貸し出したあたり、雪国らしさが感じられて興味深いですね。
お菓子の中には、他に干羊羹や「蒸気せんべい」と銘打ったものもあったとのこと。地元の菓子舗とタイアップした、船内販売でしか味わえない特製を思わせるネーミングで、これも興味がそそられます。
●何年当時かは書かれていませんでしたが、商品の値段をいくつか拾ってみましょう。お茶3銭、お煎餅・飴玉1銭、お酒(正宗)1合ビン12銭、牛缶は15銭、カニ缶はぐっと高級で40銭くらい、火鉢の貸し出し料は一つ5銭とのこと。
その他、談話の中に「船の浸水で布団を濡らした」という下りがあり、何で布団を持ち込んでいたのだろうと不思議に思っていたら、長岡便は遡上に10時間か、川の状況によってはそれ以上かかり、船は長岡泊まりだったそう。つまり下級船員は、船内泊の準備をしておく必要があった、というわけでした。


「第二十五號安進丸」と、船名がはっきり読み取れるのを始め、船体各部のディテールが看取できる、情報量の豊富な写真であるのが何よりありがたい。船首ブルワークの形状、下降窓、縦羽目板の甲板室側板、屋根外縁のハンドレールなど興味が尽きない。左舷(向かって右)に見える柵の支柱は、装飾を施した木製挽物のようだ。

●明治期の川蒸気での旅行を描写した、面白い本がありました。「仏蘭西人の駆けある記 横浜から上信越へ」と題されたこの本は、ギュスターヴ・グダローなる、当時の横浜フランス領事館員が書いた原題「日本旅行」の翻訳で、明治19年に前橋駅から三国街道を通って新潟県入りし、県内各地を巡ったのち北国街道・中山道を通って、横川から汽車に乗り横浜に帰るまでの、12日間の道中をつづったものです。
●その間、往路は長岡から新潟まで約8時間、復路は新潟から与板まで約7時間の川蒸気の旅をしているわけですが、大旱魃の年とあって特に往路は浅瀬に悩まされており、座洲時の復旧方法など、著者の鋭い観察眼も手伝って、この時代の貴重な記録となっています。いくつか抜き書きしてみましょう。
「川の浅い所はスクリューでは通れないから、必然的に外輪モーターである。船の喫水はこれ以上浅くはなり得ないというほど浅い。喫水は日本の尺度で一ピエ八プス、つまり五四センチメートルである。」
「もっとも古い船体は、横須賀の海軍工廠がまだフランス人技師の指導下にあった時、そこから提供されたモデルによって造られたものである。(中略)機関についても同様で、当初は前記の工廠で製作されていたが、今日では石川島で製作されている。」
「貨物のための船倉は機関室の前部の上にあり、乗客のためのサロンは後部にあって、一等と二等とに分かれており、かなり快適である。」
「船の乗組員は全部で七名である。機関手、或いは釜たきが三名、コック長兼任の見習水夫が一名、それに船長とである。」
●旺盛な好奇心でディテールを描写しているあたり、グダローの性格が垣間見られるようですね。ともあれ、今となっては貴重極まりない、川蒸気の記録を残してくれたことに感謝のほかありません。
●なお、横須賀・横浜の両製鉄所は、幕末にフランスの協力によって建設されたため、当時すでに在日15年に及んでいたグダローは、領事館員として相応の情報を得ていたようで、それが海軍工廠云々の記述に現われたものと思います。
●初期の通運丸の主機械(エンジン周り)も、横浜製鉄所で造られたと推定されていますから、川蒸気にフランス系の技術が基礎にあったことは間違いはないのですが、「もっとも古い船体」のプロトタイプと、横須賀との因果関係はどうでしょう、この点ご教示をいただきたいものです。
●さて、船会社の仕立てた艀から川蒸気に乗り込み、朝の6時30分に長岡を出て45分後、船は最初の座洲に遭遇します。急に止まって左舷に傾いた船の様子に、グダローも大いに驚かされたようですが、復旧の様子が実に興味深いのです。
●その方法とは、「忽ちにして土手に二○人ばかりの日雇人夫が出てきて」、水の中に入り船体を持ち上げ(!)たそう。何とも荒っぽいやり方ですね。加えて、乗組員と乗客は船上から竿で押し、さらに機関を交互に前後進にかけ、船体をゆすって離洲する、というもの。「十分ほどの間に四―五回座礁した」とありますから、大旱魃の影響で、水位も相当下がっていたことがうかがえます。
●船を中之口で乗り換えた後も、三条で殺到する新聞の売り子に閉口しつつ、「娘が固めた雪を売りに来る」と越後名産の雪に触れたり、小須戸では乗組員が機関のクランクに手を挟んで大怪我をしたため、外科医のいる新潟まで全速力で下るなど、道々を描写しつつ、午後2時過ぎに萬代橋の船着場へ到着。
●所要およそ7時間40分、うち座洲のために要した時間と、各寄港地での停船時間を含めると、航行は正味6時間ほど。
グダローは同乗者から、水量の豊かな通常時は4時間で下れることを聞き出しており、「航行しなければならない距離は五三海里なのだから、平均時速を一四海里とすれば何も不思議なことはない」、「そのうち三分の一近くは川の流れに関係しているのだから」と分析しています。
●しかし、川蒸気で時速14kt(約26km)とは、ちょっと信じられないほど、もの凄い高速ですね。長岡~新潟間をグダローは53海里(約98km)と見積もっていますが、現在の河道をなぞってみても、およそ80kmあまりですから、間違いではないことがわかります。でも、川の流速が加わるとはいえ、やはり早すぎるような気がしました。
ちなみに先掲の「中茶屋」の方の談話によると、長岡発の下航便は、所要6時間ほどだったとありました。これなら時速8.6kt(約16km)で、ほぼ妥当な数字と思います。グダローが取材した人物は、少し大げさに話していたのかもしれませんね。

「(新潟名勝)信濃川岸」と題した絵葉書。撮影年不詳、通信欄・宛先欄の比率から明治40年~大正7年の発行と推定。萬代橋下流の船着場に向かう外輪川蒸気、葛塚航路の船だろうか。
左には接岸している暗車船が2隻見られ、バックの大型和船群とあいまって港の賑わいが伝わってくる。川蒸気の活躍とともに、弁才船を始めとする大型和船による内航貨物輸送が、明治期に至ってもなお盛んだったことを示す一枚だ。
【参考文献】








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