21年2月6日の旧加茂川
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…10』のつづき)
●つい2日前、松江を訪ねた21年2月6日(『松江堀川めぐり…1』以下のシリーズ参照)のフォルダを開くまで、きれいさっぱり忘れていたのですから、やはりトシはとりたくないものです。
何を忘れていたって、松江の後に用足しで米子に寄っており、その道々ついでながら、旧加茂川に関する、肝心なものをいくつか撮っていたことをです。
いや、米子に寄ったことはさすがに覚えていました、そこまでボケてはいません。ただ、今回11月9日の訪問でわからなかった点への回答を、3年前すでに自分で撮っていたのですから、やはり何をかいわんやですね。
以下恥を忍んで、興味深かったスナップも含め紹介させていただきます。
【▼「続きを読む」をクリックしてご覧ください】
●今回11月9日の訪問も、日野川から遊覧船下船に至るまで2時間に満たないあわただしさでしたが、21年2月もそれに劣らず、タイムスタンプを見ると1時間15分ほど。それも夕方、用足しの合間に撮ったつまみ食いですから、ヨタ写真がさらに拙劣なのはご容赦ください。
まず始めは京橋(『加茂川・中海遊覧船に乗って…4』参照)。上流側の親柱にあった、竣工銘板を撮っていました。昭和34年3月、なりの割には意外と新しいのですね。擬宝珠の緑青がいい感じです。

●これは「加茂川・中海遊覧船に乗って…3」の4枚目で登場した橋を、南詰正面から撮ったところ。
個人宅に直結するこれらの橋が、すべて私設なのか、橋のみ公設なのか(または私設と公設が混在しているのか)わからず、「私設橋」とカギカッコ付きでしのぎましたが、右に掲げられた看板で私有橋であることが判明。少なくとも、この橋に関しては疑問が解消しました。

●「旧加茂川周辺を歩く…3」の加茂川橋から、上流側を撮ったところ。このスクエアぶりがタマラン! いかにも街割りに合わせ、舟運路としての機能を兼ねて設計された匂いがプンプンして、惹かれるものがありました。
この後、下流側に遊覧船を発見し、次回はぜひ乗ってみようと思ったのもこのときです。

●旧加茂川の「私設橋梁過密地帯」も、少しですが撮っていました。いい雰囲気の路地から伸びる、これまた好ましい木製橋風にこしらえた橋。人道橋ながら公道で、瑜伽堂橋(ゆうがどうばし)なる由緒ありげな名前が付いていました。
【撮影地点のMapion地図】

●瑜伽堂橋から上流側を見たところ。今のこの川には、このようなタイプのRC橋(?)が、一番よく似合う気がします。築40年くらいでしょうか、いい感じに古びて、石垣との相性も悪くなさそうですね。

●ここからは少し下流へ向かいました。床板がコンクリート製と木製、半分づつといういかにも私設橋らしい面白さのある橋。鉢植えを並べてあるあたりも、お庭先という感じがしていいものですね。

●上のすぐ下流側、小橋ながら昭和初期のモダニズムっぽい(?)香気を発散している橋を発見。ささやかながら橋台があり、基礎護岸が途切れているあたり、他の橋とは格が違う感じがします。

●内側を見ると、不等沈下でもあったのか、重車輌の通過に耐えかねたのか、高欄ともどもひびが入ってしまっていますが、星霜を経た肌は貫禄があります。
名前は善光院橋、昭和34年3月の竣工とありました。旧加茂川の公道橋は、お寺さんの名前を冠した橋が3つあるのですね。かつては寺町だけでなく、このあたりにもお寺さんが点在していたのでしょう。
【撮影地点のMapion地図】

●善光院橋の北詰にあったのが、この観光案内の説明板。これを撮ったのを、すっかり忘れていたのです。それだけに読みなおしたときは感動でした。
「とりわけ、紺屋町から西倉吉町に至る、商家の裏手に集中する小橋は、他地方では見ることもない風物である。この小橋は、昭和30年代まで、杉丸太に石板を敷く素朴な造りで(後略)」
よそ者ごときが騒がずとも、米子の人たちはこの風景を、ご当地独特の、特記すべきものとして充分認識されていたのです!
しかも、「加茂川・中海遊覧船に乗って…2」で「先ほどの『私設橋過密地帯』などは、木橋がズラリと架かっていたのかな?」などと妄想していたかつてが、「杉丸太に石板を敷く」とディテールまで述べられ、もどかしかった部分がスッキリ解消。さすが「山陰の大阪」、家ごとに石板を床にした橋を持っていたなんて、豊かな町だったのですね。
私有橋ギッシリの素晴らしい、また珍しい景観、内外にもっと誇ってもよいのではないでしょうか。

●最後に、米子港の絵葉書が見つかったのでご紹介。昭和9年の消印がありましたので、それ以前の撮影でしょう。撮影地は、現在の内町の西側あたりでしょうか。
岸壁(もしくは石組みの法面?)近くには、数10t級の漁船らしい船が碇泊し、汽船はやはり沖掛かりして、瀬取り中なのか艀が左舷に2隻もやっているのが見えます。中央沖合、防波堤の手前に見える船は、平べったい船影から内水客船のようですね。松江~境港通いの発動機船かもしれません。右手に見える工場らしい建物からも、当時の米子の繁栄ぶりがしのばれます。
(21年2月6日撮影)
【11月9日の項の参考文献】
中国・四国 地図で読む百年(平岡昭利 編)古今書院
新版 鳥取県の歴史散歩 山川出版社
【参考ウェブサイト】
JR米子(本図)(PDF)
⇒navitaの駅設置案内図。橋名が詳しく記入してあるので重宝しました。
加茂川・中海遊覧 (PDF)
⇒米子観光協会作成の案内。コースや見どころがわかりやすくまとめられています。
加茂川・中海遊覧(観光ポータルサイト 神々のふるさと 山陰)
⇒運行時間・連絡先・交通など案内あり。
斐伊川水系加茂川 河川整備計画(PDF)
⇒鳥取県による加茂川の整備計画。遠く離れた斐伊川の水系に属していることが驚き。
米子散歩①、米子散歩②(碧川 企救男・かた のこと)
⇒米子在住の方のブログ。米川(弓ヶ浜半島を縦断して開鑿された灌漑水路)、加茂川の歴史など興味深い記事あり。「文化6年(1809)米川の舟流し禁止」という下りが個人的には凄く気になる! 米川で舟運が行われていたのかしら。
(この項おわり)

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何を忘れていたって、松江の後に用足しで米子に寄っており、その道々ついでながら、旧加茂川に関する、肝心なものをいくつか撮っていたことをです。
いや、米子に寄ったことはさすがに覚えていました、そこまでボケてはいません。ただ、今回11月9日の訪問でわからなかった点への回答を、3年前すでに自分で撮っていたのですから、やはり何をかいわんやですね。
以下恥を忍んで、興味深かったスナップも含め紹介させていただきます。
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まず始めは京橋(『加茂川・中海遊覧船に乗って…4』参照)。上流側の親柱にあった、竣工銘板を撮っていました。昭和34年3月、なりの割には意外と新しいのですね。擬宝珠の緑青がいい感じです。

●これは「加茂川・中海遊覧船に乗って…3」の4枚目で登場した橋を、南詰正面から撮ったところ。
個人宅に直結するこれらの橋が、すべて私設なのか、橋のみ公設なのか(または私設と公設が混在しているのか)わからず、「私設橋」とカギカッコ付きでしのぎましたが、右に掲げられた看板で私有橋であることが判明。少なくとも、この橋に関しては疑問が解消しました。

●「旧加茂川周辺を歩く…3」の加茂川橋から、上流側を撮ったところ。このスクエアぶりがタマラン! いかにも街割りに合わせ、舟運路としての機能を兼ねて設計された匂いがプンプンして、惹かれるものがありました。
この後、下流側に遊覧船を発見し、次回はぜひ乗ってみようと思ったのもこのときです。

●旧加茂川の「私設橋梁過密地帯」も、少しですが撮っていました。いい雰囲気の路地から伸びる、これまた好ましい木製橋風にこしらえた橋。人道橋ながら公道で、瑜伽堂橋(ゆうがどうばし)なる由緒ありげな名前が付いていました。
【撮影地点のMapion地図】

●瑜伽堂橋から上流側を見たところ。今のこの川には、このようなタイプのRC橋(?)が、一番よく似合う気がします。築40年くらいでしょうか、いい感じに古びて、石垣との相性も悪くなさそうですね。

●ここからは少し下流へ向かいました。床板がコンクリート製と木製、半分づつといういかにも私設橋らしい面白さのある橋。鉢植えを並べてあるあたりも、お庭先という感じがしていいものですね。

●上のすぐ下流側、小橋ながら昭和初期のモダニズムっぽい(?)香気を発散している橋を発見。ささやかながら橋台があり、基礎護岸が途切れているあたり、他の橋とは格が違う感じがします。

●内側を見ると、不等沈下でもあったのか、重車輌の通過に耐えかねたのか、高欄ともどもひびが入ってしまっていますが、星霜を経た肌は貫禄があります。
名前は善光院橋、昭和34年3月の竣工とありました。旧加茂川の公道橋は、お寺さんの名前を冠した橋が3つあるのですね。かつては寺町だけでなく、このあたりにもお寺さんが点在していたのでしょう。
【撮影地点のMapion地図】

●善光院橋の北詰にあったのが、この観光案内の説明板。これを撮ったのを、すっかり忘れていたのです。それだけに読みなおしたときは感動でした。
「とりわけ、紺屋町から西倉吉町に至る、商家の裏手に集中する小橋は、他地方では見ることもない風物である。この小橋は、昭和30年代まで、杉丸太に石板を敷く素朴な造りで(後略)」
よそ者ごときが騒がずとも、米子の人たちはこの風景を、ご当地独特の、特記すべきものとして充分認識されていたのです!
しかも、「加茂川・中海遊覧船に乗って…2」で「先ほどの『私設橋過密地帯』などは、木橋がズラリと架かっていたのかな?」などと妄想していたかつてが、「杉丸太に石板を敷く」とディテールまで述べられ、もどかしかった部分がスッキリ解消。さすが「山陰の大阪」、家ごとに石板を床にした橋を持っていたなんて、豊かな町だったのですね。
私有橋ギッシリの素晴らしい、また珍しい景観、内外にもっと誇ってもよいのではないでしょうか。

●最後に、米子港の絵葉書が見つかったのでご紹介。昭和9年の消印がありましたので、それ以前の撮影でしょう。撮影地は、現在の内町の西側あたりでしょうか。
岸壁(もしくは石組みの法面?)近くには、数10t級の漁船らしい船が碇泊し、汽船はやはり沖掛かりして、瀬取り中なのか艀が左舷に2隻もやっているのが見えます。中央沖合、防波堤の手前に見える船は、平べったい船影から内水客船のようですね。松江~境港通いの発動機船かもしれません。右手に見える工場らしい建物からも、当時の米子の繁栄ぶりがしのばれます。
(21年2月6日撮影)
【11月9日の項の参考文献】


【参考ウェブサイト】

⇒navitaの駅設置案内図。橋名が詳しく記入してあるので重宝しました。

⇒米子観光協会作成の案内。コースや見どころがわかりやすくまとめられています。

⇒運行時間・連絡先・交通など案内あり。

⇒鳥取県による加茂川の整備計画。遠く離れた斐伊川の水系に属していることが驚き。

⇒米子在住の方のブログ。米川(弓ヶ浜半島を縦断して開鑿された灌漑水路)、加茂川の歴史など興味深い記事あり。「文化6年(1809)米川の舟流し禁止」という下りが個人的には凄く気になる! 米川で舟運が行われていたのかしら。
(この項おわり)

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