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水郷の閘門について・二題

その1・40年前の加藤洲閘門

だいぶ前のこと、「日本水郷めぐり」と題した、箔押しの立派な箱に入った絵葉書セットを手に入れました。12枚組みで、いずれも目に沁みるような美しい4色刷り。箱の裏面には「風光社製作」と発行元名が記され、定価は150円。

絵葉書の切手貼り付け欄には7円の額面表示があることから、昭和41年7月~47年2月の間の発行と推定できます。およそ40年前の水郷風景ということになりますね。

高度経済成長期以降のものとはいえ、やはり40年の時を隔てたとあれば、草深い水郷の地とはいっても、今とはずいぶん違った風景です。一枚一枚葉書を見ていたら、いきなり水門が大写しになったものが出てきて、驚かされました。
水門? いや、これは閘門だ!


今でも形を変えながらある、右の十二橋入口を示す看板、向こう側に見える低い土手…。
これは先代の加藤洲閘門に違いない!
昇降装置はラック式、扉体は陰になっていますが、よく見ると、帯金で締め付けた木製ということがわかります。木製スライドゲートだったんだ! 

まだコンクリートの肌も新しそうで、竣工からそう時間は経っていないようですね。管理橋や手前のサッパに見える娘船頭さん(まだこの時代はホンモノの『娘』船頭さんだったことでしょう!)も若々しく、のどかな中にも活気にあふれた雰囲気が感じられる写真です。

堰柱の梁に銘板が見えたので、拡大したものが右の写真です。戦前のコロタイプと違ってアミ点によるオフセットなので、あまりハッキリ見えませんが、「加藤洲水門」と読めます。この当時はどうやら、閘門を名乗っていなかったようですね。

閘門を水門と呼んでしまう、あるいはその逆の例も結構あるので、最初は気にしていなかったのですが、ふと思い当るものがありました。

まず、下で触れる仲江間閘門、正式名称は「二重水門」です。また、やはり下に掲げた岩波写真文庫の「水郷―潮来―1957」では、閘門の通航シーンの写真に、「水門の開くのを待合せる(原文ママ)」「水位調節のため水門は二つで一組」と、閘門を水門と呼ぶキャプションが、2回もくり返されていました。

こうなると、何か理由があって水門呼ばわりせざるを得なくなったのかと、勘繰りたくなります。
ご存知のとおり、ご当地には大正時代以来の老舗閘門・横利根閘門(地元での通称は『カンモン』)がありますが、あの堂々たるマイタゲートこそ「閘門」であって、スライドゲートの極小閘門は、地元(あるいは施工者)ではとても「閘門」と認めることができず、「水門」として区別した、とか…。まあ、以上は妄想です。


セットになっていた他の絵葉書も素晴らしい写真ばかりでしたが、さすがに全てを紹介するのは差し障りがあるので、もう1枚だけ。十二橋のある、新左衛門川の風景です。こちらも今とはずいぶん違って、さながら緑のトンネルをくぐるよう。サッパもFRPコーティングはおろか、機走化もされていない原形に近いものです。

「水郷の原風景」(千葉県立大利根博物館刊)によると、常陸利根川の浚渫土を利用した土地改良(土を盛って乾田化)は、昭和39年から53年にかけて、4つの工区に分けて施工されたとのこと。
この写真を撮ったころの十六島は、すでに工事が進んでいたものの、まだ一部で湿田の間をエンマが葉脈のように走り、今より広大だった与田浦も見られたことでしょう。昔ながらの水郷の姿が息づいていた、まさに最後の時代に、この絵葉書は撮られたことになります。

ともあれ、思わぬ拾いものをしました。大正~昭和戦前のものに目が向きがちでしたが、考えてみると「ちょっと昔」こそ、意外とわからないことが多いものです。これからはこのあたりの年代にも、注目していきたいですね。

その2・仲江間閘門のマイタゲート疑惑薄れる

十六島の南の玄関口、仲江間閘門の謎については「仲江間閘門にマイタゲート疑惑?」ほかで触れましたが、これも少し前に入手した、一冊の本に載っていた写真で、積年の(というほどのことでもないか)疑惑が大幅に薄れてきました。

くだんの本は「水郷―潮来―1957」で、近年結構な点数が復刻された、岩波写真文庫の一冊です。初見したのは5~6年前になりますか、潮来の食堂でボロボロになって置いてあったのを発見、食事もそっちのけで読んだものです。

これは近年の復刻リストには入っておらず、古書を探すしかないと思っていたら、最近になって普通にアマゾンで買えることが判明。20年ほど前に、ワイド版として一度復刻されていたのでした。いやもう、横っとびに購入です。

抱腹絶倒の(船頭的にね、誤解のないように)内容は実際買って読んでいただくとして、さっそくお題の仲江間閘門が載っているページなんですが、20~21ページの見開きです。

21ページ右上の「仲江の水門」とキャプションのある写真、扉体のない樋門の穴の奥に、スライドゲートの水門らしきものが見える写真です。一見して、あ、「仲江」は仲江間の間違いであり、これは先代の仲江間樋管(『仲江間閘門を通る!…1』参照)だな、とピンときました。

本当は最初に目が行ったのが、20ページ右下の「水位調節のため水門は二つで一組」とキャプションがある写真で、木製スライドゲートの小閘門と、その前で待つサッパを写したもの。これがどう見ても「仲江の水門」の奥にあるスライドゲートに見えるのです。扉体やサッパの状態もほぼ同じでした。

さらに、目を凝らして閘門の写真をよ~く眺めると、ある、ある! マイタゲート疑惑の凹凸が側壁に! これ、仲江間閘門だよ! …しかし、マイタゲートの扉体は影すらなく、今のものよりちょっとチープなコンクリート製ですが、ちゃんとスライドゲートの堰柱が。というわけで、昭和32年当時の先代・仲江間閘門も、形は違えどスライドゲートだったというお粗末。

う~ん、やはりマイタゲートは計画のみで、造られなかったのか…。それとも、先々代がマイタゲートだったのかしら? 疑惑が薄れたというか、謎が深まってしまいました。詳細をご存知の方、また以上の駄文に間違いがありましたら、ぜひご指摘、ご教示をいただきたいものです。

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タグ : 加藤洲閘門仲江間閘門閘門和船絵葉書・古写真水郷

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