権現堂堰のあたり…2
(『権現堂堰のあたり…1』のつづき)

●両岸を宇和田公園のこんもりとした緑に挟まれて、少し土手を下った位置に架かるあたりも、昔の橋らしさを感じさせていいものです。コンクリート製ながら、高欄のデザインに年代がしのばれますね。親柱はご覧のとおり、岸から橋詰に向かって右側の、1本づつだけです。
この橋、前回紹介したフカダソフトさんの記事によると、権現堂橋といって、昭和3年の建造なのだそう。親柱に近寄ってみると、なるほど「昭和三年十一月竣功」と刻まれていました。
●権現堂橋に惚れ込んだ一番の理由は、少し下流に下がって、この角度から見たときの格好よさ。なな何だこの橋脚は!
六角形でゆるやかに裾を広げ、さらに上部の細くなった部分を、鉢巻きできゅっと引き締め、その上桁と接するあたりも、曲線で処理されているこの巧みな造形。高欄や桁まわりの直線的なかたちとはまさに対照的な、遊び心さえ感じさせる処理の仕方に、目を奪われました!
昔のRC橋は、みんなこうだったのかなあ…。
堰の落とし口という、激しい水流にさらされる場所にもかかわらず、あまり傷んだ様子がないこと、加えて高欄が塗装されているなど、まめに整備されている様子がうかがえる点にも惹かれるものがありました。どういった理由かはわかりませんが、大事にされているのですね。
●落とし水の涼しさを味わいつつ、堰と橋を堪能したあとは、宇和田公園の堤上に登ってみることに。
冒頭にも触れたように、かつては県境に沿って現在の江戸川まで、権現堂川が流れていたわけですが、この宇和田公園は、その権現堂川の洪水が南方に及ばないよう設けられた堤防、「権現堂堤」の一部を利用したもの。
今では、現在の中川の開鑿や、利根川~江戸川の河道が整理されたことなどで堤防は不要となり、一部を残して撤去されています。
このあたりも、先のフカダソフトさんの記事に詳しいので、ぜひご参照ください(他力本願だな)。

●階段を上って、森のように鬱蒼とした堤上を進んでゆくと、前方に立派な尖塔づくりの碑がそびえ立っていました。周りを囲んだコンクリート柵が、当時のモダンさみたいな雰囲気を感じさせます。
青銅製でしょうか、鋲の打たれた尖塔には、「庄内古川改修記念碑 内閣総理大臣男爵 田中義一」と書かれています。碑文には、昭和3年6月とありました。庄内古川とは、現在中川の一部となっている、かつて利根川の旧流路の一つであった川ですね。
【撮影地点のMapion地図】
(23年5月4日撮影)
(『五霞落川の水門…1』につづく)

にほんブログ村


この橋、前回紹介したフカダソフトさんの記事によると、権現堂橋といって、昭和3年の建造なのだそう。親柱に近寄ってみると、なるほど「昭和三年十一月竣功」と刻まれていました。

六角形でゆるやかに裾を広げ、さらに上部の細くなった部分を、鉢巻きできゅっと引き締め、その上桁と接するあたりも、曲線で処理されているこの巧みな造形。高欄や桁まわりの直線的なかたちとはまさに対照的な、遊び心さえ感じさせる処理の仕方に、目を奪われました!
昔のRC橋は、みんなこうだったのかなあ…。
堰の落とし口という、激しい水流にさらされる場所にもかかわらず、あまり傷んだ様子がないこと、加えて高欄が塗装されているなど、まめに整備されている様子がうかがえる点にも惹かれるものがありました。どういった理由かはわかりませんが、大事にされているのですね。

冒頭にも触れたように、かつては県境に沿って現在の江戸川まで、権現堂川が流れていたわけですが、この宇和田公園は、その権現堂川の洪水が南方に及ばないよう設けられた堤防、「権現堂堤」の一部を利用したもの。
今では、現在の中川の開鑿や、利根川~江戸川の河道が整理されたことなどで堤防は不要となり、一部を残して撤去されています。
このあたりも、先のフカダソフトさんの記事に詳しいので、ぜひご参照ください(他力本願だな)。

●階段を上って、森のように鬱蒼とした堤上を進んでゆくと、前方に立派な尖塔づくりの碑がそびえ立っていました。周りを囲んだコンクリート柵が、当時のモダンさみたいな雰囲気を感じさせます。
青銅製でしょうか、鋲の打たれた尖塔には、「庄内古川改修記念碑 内閣総理大臣男爵 田中義一」と書かれています。碑文には、昭和3年6月とありました。庄内古川とは、現在中川の一部となっている、かつて利根川の旧流路の一つであった川ですね。
【撮影地点のMapion地図】
(23年5月4日撮影)
(『五霞落川の水門…1』につづく)

にほんブログ村
- 関連記事
-
- 「高瀬舟さかい丸」に乗って…1
- 五霞落川の水門…1
- 権現堂堰のあたり…2
- 権現堂堰のあたり…1
- コンパクト君が冷遇されている件
コメント
コメントの投稿