コレジャナイ安宅丸!
(『東雲水門の桜』のつづき)
●レインボーブリッジの向こうに見える、南下する船…、特徴ある真っ赤な塗装、見間違えようがありません。「安宅丸」(あたけまる)だ!
正式就航前のトライアル中に出くわすなんて、幸運以外の何物でもありません。スロットルを一杯に倒し、全速で追跡開始!
【↓うんざりするほど長くなるので「続きを読む」をクリックしてご覧ください】

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●この船、もともと両備フェリーカンパニーの運航する「御座船 備州」(『就航船の紹介』参照)で、新岡山港発着の貸切遊覧船として活躍していました。
モデルは岡山池田家が、参勤交代時に使用していた海御座船、「住吉丸」ですが、東京港の観光船に就航するに当たり、江戸時代初期に存在した徳川家の軍船の名を採り、「安宅丸」を名乗りました。東京になじみのある船名に改名したというわけでしょう。
●ちなみに東京での運航は、東京都観光汽船が行っています。コースその他の詳細は、観光汽船のサイト「御座船 安宅丸で東京湾クルーズ」をご覧ください。はるばる瀬戸内からチャーターしただけあって、サイトも気合が入ったつくりですね。

●品川埠頭の沖で追い付き、同航に持ち込んだところで一枚。午前中とあって光線の塩梅もよろしく、丹塗りも鮮やかなサイドビューが楽しめました。
●…で、和船好きとして、ここは愛情をこめてくさしたい(笑)と思うのですが、この「安宅丸」、絵図や記録によって伝えられる、ホンモノの安宅丸と似ているところがあるかというと、これが全然ありません(断言)。
箱形の上部構造である矢倉、その上に載る屋形もかたちが全く異なります。強いて似ているところを挙げるとすれば、軍船形式の大型和船(風の観光船)という部分だけですが、それでは巡洋艦を空母と言ってのけるようなもので、あまり感心するものではありますまい。
●安宅丸は、寛永8(1631)年、徳川家光の時代に建造された軍船で、竜骨長37.9m、肩幅16.2m、推定満載排水量1700tに及ぶ、当時としては並ぶもののない空前の巨大船でした。
大きいばかりでなく、和洋折衷方式の船体構造、西欧に先駆けた銅板被覆船体に加え、軍船としても優れた防御力を持つなど、あらゆる意味で革命的な船で、和船史を語るには見逃せない存在でもあります。
●まあ、このあたりはコーフンして書きなぐってもせんないので、興味のある方は、「日本の船を復元する」(amazon)ほかの和船研究本で、和船研究の泰斗、石井謙治氏作図の復元画をご覧いただきましょう。
そんなわけで、少なくとも船頭にとっては、首をかしげざるを得ないネーミングであるわけです。もともと、瀬戸内の海御座船をモデルにした船をそのまま持ってきた時点で、すでに無理やり感はあるので、仕方がないといえばそうなのですが。
●例えていえば…。「コレジャナイロボ」というのがあるでしょう。
ある世代のツボを見事に突いた商品で、これを知ったときは大いにウケさせてもらったのですが、「安宅丸」の就航を報じた写真を見た瞬間、まさに「コレジャナイロボ」が脳裏に浮かんだのでした。
ボクの知っている安宅丸はコレジャナイ!
コレジャナイ安宅丸
大人の事情を汲みながらも、ここはあえて、子供のように地団駄を踏んでないものねだりをしたい気分です。
●もう、たまに和船のことを考えると妄想が止まりません。うんざりしているでしょうが、あともう少しヨタ話を。
軍船などある種の大型和船が、なぜ箱を載せたような上部構造物、「矢倉」を持っているかというと、艪を漕ぐ漕ぎ手を、矢弾や風浪から保護するためであったわけです。
艪は船尾で漕ぐものと思われがちですが、大型船や早船など、推進力が必要な場合は脇艪といって、両舷側にロベソを張り出させて、複数の艪を漕げるようにしたやり方もあります。

●脇艪を備えた舟を描いた図があったので、ご覧に入れましょう。上の図、「ペリー提督日本遠征記」の、なぜか挿絵だけ切り取られて、バラで古書店に出ていたものです。
外国人の目で見た和船とあって、細部は間違いもあるのですが、脇艪の装備のしかたがよくわかりますね。片舷4丁の8丁艪舟を示しています。
大型軍船になると、これが多いときに片舷数十丁、計100丁近い艪をずらりと並べていたのですから、さぞかし壮観だったことでしょう。
●ええ…、何が言いたいかというと、こうして矢倉を備えた船を見るにつけ、やはり妄想をふくらませてしまうのが、艪をずらりと舷側に並べた艪漕風景。何しろ和船に惹かれたきっかけが、「矢倉から脇艪ズラリ」なので、思い入れも浅からぬものがあり。
例え「コレジャナイ和船」であっても、矢倉からムカデのように艪を突き出していたら、すべて許せてしまうような気がするのです!
●そんなわけで、個人的にはさんざんな評価の「安宅丸」なのですが、ともあれ新しい船が東京港に就航するのは、嬉しいことには違いありません。
さらに各地に息づく「コレジャナイ」系の観光船(下田の『サスケハナ』とか)には、「これ全然違うよ!」と突っ込みながらも、その実妙に惹かれてしまう、という業深な性癖も持ち合わせているので、別に嫌っているわけではないのです。
●左舷側をしばらく堪能したのち、反転して右舷側に出ることに。
艫の方から眺めると、大きすぎる屋形のアンバランスさが隠され、しかも矢倉の肩幅が強調されて、和船らしさの感じられる、魅力的なシルエットです。
●右舷側に出ました。逆光になってしまうのでディテールはつぶれがちですが、臨海副都心をバックに、悠揚迫らぬ航行姿。モドキとはいえ、和船タイプの船と並走しているだけで、やっぱり感動するなあ…。
フェンダーは右舷だけつけているところを見ると、日の出・青海両桟橋とも、右舷につけるのでしょうね。船の雰囲気に合わせるなら、フェンダーはシュロ縄を編んだものにするなど、気遣いがあればなおいいでしょう。

●追い越しつつ右舷を眺めて。船首両舷、下貫木(かんのき)にぶら下がったアンカーが、古風なストックアンカーというのが目を引きます。和式の四爪錨だったら、もっといいなあ(まだ言ってる)。
ちなみに、真っ赤な丹塗りの船体塗色は、公儀や各大名家の船であることを示したもので、今なら軍艦色といったところでしょう。

●上の写真は就航直後、船の科学館から、青海桟橋を出航した姿をとらえたもの。トライアルのときと異なり、船尾に勇ましく旗差物をなびかせています。
都観光汽船のサイトによると、コース所要時間は約40分、両桟橋を出た後は東京港第一航路を南下し、大井・有明のコンテナヤードに沿って走る航路とのことですから、クレーンやコンテナ船がお好きな向きにとっては、堪えられないコースかもしれません。
(23年4月10日撮影)
(『「発電運河」・天王洲南運河』につづく)

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モデルは岡山池田家が、参勤交代時に使用していた海御座船、「住吉丸」ですが、東京港の観光船に就航するに当たり、江戸時代初期に存在した徳川家の軍船の名を採り、「安宅丸」を名乗りました。東京になじみのある船名に改名したというわけでしょう。
●ちなみに東京での運航は、東京都観光汽船が行っています。コースその他の詳細は、観光汽船のサイト「御座船 安宅丸で東京湾クルーズ」をご覧ください。はるばる瀬戸内からチャーターしただけあって、サイトも気合が入ったつくりですね。

●品川埠頭の沖で追い付き、同航に持ち込んだところで一枚。午前中とあって光線の塩梅もよろしく、丹塗りも鮮やかなサイドビューが楽しめました。
●…で、和船好きとして、ここは愛情をこめてくさしたい(笑)と思うのですが、この「安宅丸」、絵図や記録によって伝えられる、ホンモノの安宅丸と似ているところがあるかというと、これが全然ありません(断言)。
箱形の上部構造である矢倉、その上に載る屋形もかたちが全く異なります。強いて似ているところを挙げるとすれば、軍船形式の大型和船(風の観光船)という部分だけですが、それでは巡洋艦を空母と言ってのけるようなもので、あまり感心するものではありますまい。
●安宅丸は、寛永8(1631)年、徳川家光の時代に建造された軍船で、竜骨長37.9m、肩幅16.2m、推定満載排水量1700tに及ぶ、当時としては並ぶもののない空前の巨大船でした。
大きいばかりでなく、和洋折衷方式の船体構造、西欧に先駆けた銅板被覆船体に加え、軍船としても優れた防御力を持つなど、あらゆる意味で革命的な船で、和船史を語るには見逃せない存在でもあります。
●まあ、このあたりはコーフンして書きなぐってもせんないので、興味のある方は、「日本の船を復元する」(amazon)ほかの和船研究本で、和船研究の泰斗、石井謙治氏作図の復元画をご覧いただきましょう。
そんなわけで、少なくとも船頭にとっては、首をかしげざるを得ないネーミングであるわけです。もともと、瀬戸内の海御座船をモデルにした船をそのまま持ってきた時点で、すでに無理やり感はあるので、仕方がないといえばそうなのですが。
●例えていえば…。「コレジャナイロボ」というのがあるでしょう。
ある世代のツボを見事に突いた商品で、これを知ったときは大いにウケさせてもらったのですが、「安宅丸」の就航を報じた写真を見た瞬間、まさに「コレジャナイロボ」が脳裏に浮かんだのでした。
ボクの知っている安宅丸はコレジャナイ!
コレジャナイ安宅丸
大人の事情を汲みながらも、ここはあえて、子供のように地団駄を踏んでないものねだりをしたい気分です。
●もう、たまに和船のことを考えると妄想が止まりません。うんざりしているでしょうが、あともう少しヨタ話を。
軍船などある種の大型和船が、なぜ箱を載せたような上部構造物、「矢倉」を持っているかというと、艪を漕ぐ漕ぎ手を、矢弾や風浪から保護するためであったわけです。
艪は船尾で漕ぐものと思われがちですが、大型船や早船など、推進力が必要な場合は脇艪といって、両舷側にロベソを張り出させて、複数の艪を漕げるようにしたやり方もあります。

●脇艪を備えた舟を描いた図があったので、ご覧に入れましょう。上の図、「ペリー提督日本遠征記」の、なぜか挿絵だけ切り取られて、バラで古書店に出ていたものです。
外国人の目で見た和船とあって、細部は間違いもあるのですが、脇艪の装備のしかたがよくわかりますね。片舷4丁の8丁艪舟を示しています。
大型軍船になると、これが多いときに片舷数十丁、計100丁近い艪をずらりと並べていたのですから、さぞかし壮観だったことでしょう。
●ええ…、何が言いたいかというと、こうして矢倉を備えた船を見るにつけ、やはり妄想をふくらませてしまうのが、艪をずらりと舷側に並べた艪漕風景。何しろ和船に惹かれたきっかけが、「矢倉から脇艪ズラリ」なので、思い入れも浅からぬものがあり。
例え「コレジャナイ和船」であっても、矢倉からムカデのように艪を突き出していたら、すべて許せてしまうような気がするのです!

さらに各地に息づく「コレジャナイ」系の観光船(下田の『サスケハナ』とか)には、「これ全然違うよ!」と突っ込みながらも、その実妙に惹かれてしまう、という業深な性癖も持ち合わせているので、別に嫌っているわけではないのです。
●左舷側をしばらく堪能したのち、反転して右舷側に出ることに。
艫の方から眺めると、大きすぎる屋形のアンバランスさが隠され、しかも矢倉の肩幅が強調されて、和船らしさの感じられる、魅力的なシルエットです。

フェンダーは右舷だけつけているところを見ると、日の出・青海両桟橋とも、右舷につけるのでしょうね。船の雰囲気に合わせるなら、フェンダーはシュロ縄を編んだものにするなど、気遣いがあればなおいいでしょう。

●追い越しつつ右舷を眺めて。船首両舷、下貫木(かんのき)にぶら下がったアンカーが、古風なストックアンカーというのが目を引きます。和式の四爪錨だったら、もっといいなあ(まだ言ってる)。
ちなみに、真っ赤な丹塗りの船体塗色は、公儀や各大名家の船であることを示したもので、今なら軍艦色といったところでしょう。

●上の写真は就航直後、船の科学館から、青海桟橋を出航した姿をとらえたもの。トライアルのときと異なり、船尾に勇ましく旗差物をなびかせています。
都観光汽船のサイトによると、コース所要時間は約40分、両桟橋を出た後は東京港第一航路を南下し、大井・有明のコンテナヤードに沿って走る航路とのことですから、クレーンやコンテナ船がお好きな向きにとっては、堪えられないコースかもしれません。
(23年4月10日撮影)
(『「発電運河」・天王洲南運河』につづく)

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タグ : 東京港海御座船安宅丸両備ホールディングス
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