茂森橋のディテール…3
(『茂森橋のディテール…2』のつづき)

●東側ラーメン橋台の高欄を、低い目線から。番線の巻き方、ヒビの入り具合と欠落、番線から染み出した赤錆と錆垂れ…ひゅうひゅうと北風の音がするような、寂寥感あふれるディテール。
写真奥、鋼桁を挟んだ位置にある、「第二の親柱」ともいうべき柱は、鋼桁橋のラーメン橋台橋独特のものですが、こちらの「笠石」は親柱と違い、下見板状の刻みが2段になっています。

●東側の親柱の銘板は「しげもりはし」と平仮名。過去ログ「東雲運河…2」でも触れましたが、橋名を読みのとおり「~ばし」と濁らず、「はし」と表記する伝統があり、ここもその例に漏れていません。
ちなみに茂森橋の名は、昭和6(1931)年まであった茂森町(明治44年まで『深川茂森町』)から採られたもので、元禄16(1703)年に起立した由緒ある町名でした。
茂森の地名は一説によると、この地に邸宅を構えていた材木商・数井家の敷地に茂っていた老松に由来するとされ、かつては茂森稲荷社というお稲荷さんもおわしたとのこと。茂森町の神様! 一度お参りしてみたかった。
●西詰に戻り、橋の上から上流側をふと見ると、護岸に赤錆びたプレートが。気になってズーム一杯に寄って撮ったのですが、一面錆びているせいで読めません。
帰宅後に拡大してみると、縦書きで、中央の行は「…管渠埋設…」、右の行は「…A.P.…」と、ほんの一部ですがかろうじて判読。この下に下水管か何かを埋めたのでしょうか。
●西詰上流側テラスから、北側の側面を観察してみましょう。これは東詰のラーメン橋台側面。
アーチ上端の表面がボロボロと剥落して、うらぶれた雰囲気を醸し出していますが、これは表皮であるセメント塗装がはがれ落ちただけで、構造に問題はなさそう。
鋼桁との接続部のディテールもよくわかりますね。桁下に突き出した持ち送り部分は、コンクリートの質感から見て、後年の追加のようです。
●西詰の橋台側面。こちらは、写真左手の「第二の親柱」の下に、明らかな補修の跡があります。高欄下の縁石(?)も、左から4個目が、ちょっと色が薄い気が…。
やはり、衝突事故か何かがあったのでしょうか。工事中にクレーン台船か何かが入って来ていて、フックをちょっとぶつけてしまったとか。
(22年12月5日撮影)
(『茂森橋のディテール…4』につづく)

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●東側ラーメン橋台の高欄を、低い目線から。番線の巻き方、ヒビの入り具合と欠落、番線から染み出した赤錆と錆垂れ…ひゅうひゅうと北風の音がするような、寂寥感あふれるディテール。
写真奥、鋼桁を挟んだ位置にある、「第二の親柱」ともいうべき柱は、鋼桁橋のラーメン橋台橋独特のものですが、こちらの「笠石」は親柱と違い、下見板状の刻みが2段になっています。

●東側の親柱の銘板は「しげもりはし」と平仮名。過去ログ「東雲運河…2」でも触れましたが、橋名を読みのとおり「~ばし」と濁らず、「はし」と表記する伝統があり、ここもその例に漏れていません。
ちなみに茂森橋の名は、昭和6(1931)年まであった茂森町(明治44年まで『深川茂森町』)から採られたもので、元禄16(1703)年に起立した由緒ある町名でした。
茂森の地名は一説によると、この地に邸宅を構えていた材木商・数井家の敷地に茂っていた老松に由来するとされ、かつては茂森稲荷社というお稲荷さんもおわしたとのこと。茂森町の神様! 一度お参りしてみたかった。

帰宅後に拡大してみると、縦書きで、中央の行は「…管渠埋設…」、右の行は「…A.P.…」と、ほんの一部ですがかろうじて判読。この下に下水管か何かを埋めたのでしょうか。

アーチ上端の表面がボロボロと剥落して、うらぶれた雰囲気を醸し出していますが、これは表皮であるセメント塗装がはがれ落ちただけで、構造に問題はなさそう。
鋼桁との接続部のディテールもよくわかりますね。桁下に突き出した持ち送り部分は、コンクリートの質感から見て、後年の追加のようです。

やはり、衝突事故か何かがあったのでしょうか。工事中にクレーン台船か何かが入って来ていて、フックをちょっとぶつけてしまったとか。
(22年12月5日撮影)
(『茂森橋のディテール…4』につづく)

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