船川港の"運河"写真
●もう十数年前のことだったと思います。この絵葉書、「運河」とあるだけでひゅっと吸い寄せられ、ほとんど衝動買いで入手してから、自分の探しているものとちょっと方向性が違うな、と感じて、長らく死蔵してきたもの。絵葉書に心あらば、えらい災難だと思ったことでしょう。
最近ふとこの絵葉書が気になりだして、せめて何者であるかを知っておくのは、オーナーの務めなのではないか、などと殊勝なことを考え出し、ここに掲げるに至ったわけであります。手元に資料が十分あるわけではないので、大したことも書けないのが痛いところですが、まあ供養と思ってお付き合いいただければ幸いです。

●(船川築港)第一運河橋附近ノ景
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。「橋本小間物店發行」の銘あり。
●背後に山並を望む湾内に、艀溜と荷揚場を兼ねた水路を設け、築港中といった光景。縦型ボイラーを備えたクレーンがバケットを吊り下げ、接岸する和船の艀にはすでに舷側一杯に土砂が詰まれて、工事もたけなわといった雰囲気を感じます。
対岸の、おそらく埠頭のこちら側はスロープが造成され、すでに多くの和船が上架されて、港で働く船艇の修理場になっているようですね。タイトルにもなっている第一運河橋は、石積みの堅牢そうな橋台地に、洋式木造桁橋の組み合わせのように見えます。

●船川港町 第一運河橋
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらは一枚目より、少し後の撮影でしょうか。工事もひと段落ついたように見えるものの、手前にはクレーンのものらしい線路、背後左手にはまだ築頭櫓が残り、杭打ちなど残工事が続いていたことを物語っています。
アップになった第一運河橋のディテールが明瞭で、匂うような白木の真新しい高欄が印象的ですね。奥には、この埠頭を波浪から守るのであろう、防波堤が長く伸びているのもわかります。
●冒頭、「自分の探しているものとちょっと方向性が違う」と感じたのは、運河とタイトルがついてはいるものの、よく眺めてみれば、長大な沿海運河や、ましてや内陸運河でないと見当がつき、何んとなく萎えてしまったのですね。罰当たりなことであります。
いってみれば、あの(!)小樽運河とカテゴリーをおなじゅうする、築港のバックヤードたる艀の船溜に過ぎない、「運河」と呼ぶには名前負けするような、ごく短い水路であろうと思われたことです。イヤ、小樽運河に恨みがあるわけではないのですが、昔のウェブでは「運河」で検索すると、ほとんど小樽運河で占められてしまった苦い思い出があるもので‥‥ごめんなさい。

●ホンモノのGoogleマップで船川港を表示
●話を戻して、この絵葉書に写された「運河」が何者であるか、という件です。船川港で検索すると、八郎潟で知られる男鹿半島の、南岸にある船川港がヒットしますが、これでしょうか(そこからか? ハイ、恥ずかしながら)。
上に掲げたGoogleマップを出して、さて、絵葉書の「運河」はどのあたりか‥‥と探してみました。防波堤と山並から、最初は北端近くかな、と思ったのですが、下に触れたとおり違ったようです。
●で、仮に秋田の船川港として、手元にある「日本港湾修築史」(運輸省港湾局・昭和26年5月)をひもといてみたところ‥‥ありました!
船川港は、男鹿半島によって北風が遮られるため、冬季の避難港として用いられていたそう。近隣の有力港である酒田、能代、土崎は河口港で大型船の入れるよう改良するには時間を要するため、明治43年秋田(土崎)とあわせて重要港湾にすることに決定、開発が始まったとあります。どうやら間違いなさそうですね。
「運河」についてですが、第一船入場は長さ100間(182m)、幅50間(91m)、水深8尺。運河は第一および第二船入場の間に設け、長さ120間(218.4m)、幅15間(27.3m)で両岸は荷揚場とする、と仕様が記されていました。やはり、埠頭間に設けられた艀の荷揚場だったのですね。ちなみにここでいう船入場は、防波堤で囲まれた泊地またはポンドのことを指します。

●USA-R2873-B-13 昭和24(1949)年、米軍撮影。国土変遷アーカイブ・空中写真より。
●国土変遷アーカイブから、絵葉書の場所を割り出してみました。現在の男鹿駅のすぐ横だったようです。
写真では、本来北が真上になるところ、ずいぶん西寄り‥‥左回りに傾いていますが、道や線路のレイアウトから、男鹿駅のあたりとわかりました。防波堤との位置関係からすると、中央下に見える水路の北側の橋が、絵葉書の主題になっていた第一運河橋のようです。中央のポンドが第一船入場、右下の防波堤内側が、第二船入場になります。
●船川港の沿革は国交省・秋田港湾事務所の「秋田県の港」に詳しくまとめられています。空中写真右下に見える独立した防波堤は、第二船入場防波堤として拡幅されながらも現存しているのですね。
また、「船川港築港資料」によると、大正2年(1913)第一船入場が築造、大正3年(1914)第一船入場防波堤築造とありましたから、絵葉書の写真を撮影したのは、そのころ少し前ということになるのでしょう。
●酒田、土崎は、北前船の内貿航路華やかなりしころから名前が出てきますので、和船好きとしては頭に入っていたのですが、船川港がむしろ、この地域の近代築港のさきがけとして、河口港たちを尻目に躍り出たことを知り、蒙が啓かれた思いです。これで不遇を囲っていた絵葉書たちにも、義理を果たしたような気分になったものでした。

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最近ふとこの絵葉書が気になりだして、せめて何者であるかを知っておくのは、オーナーの務めなのではないか、などと殊勝なことを考え出し、ここに掲げるに至ったわけであります。手元に資料が十分あるわけではないので、大したことも書けないのが痛いところですが、まあ供養と思ってお付き合いいただければ幸いです。

●(船川築港)第一運河橋附近ノ景
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。「橋本小間物店發行」の銘あり。
●背後に山並を望む湾内に、艀溜と荷揚場を兼ねた水路を設け、築港中といった光景。縦型ボイラーを備えたクレーンがバケットを吊り下げ、接岸する和船の艀にはすでに舷側一杯に土砂が詰まれて、工事もたけなわといった雰囲気を感じます。
対岸の、おそらく埠頭のこちら側はスロープが造成され、すでに多くの和船が上架されて、港で働く船艇の修理場になっているようですね。タイトルにもなっている第一運河橋は、石積みの堅牢そうな橋台地に、洋式木造桁橋の組み合わせのように見えます。

●船川港町 第一運河橋
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらは一枚目より、少し後の撮影でしょうか。工事もひと段落ついたように見えるものの、手前にはクレーンのものらしい線路、背後左手にはまだ築頭櫓が残り、杭打ちなど残工事が続いていたことを物語っています。
アップになった第一運河橋のディテールが明瞭で、匂うような白木の真新しい高欄が印象的ですね。奥には、この埠頭を波浪から守るのであろう、防波堤が長く伸びているのもわかります。
●冒頭、「自分の探しているものとちょっと方向性が違う」と感じたのは、運河とタイトルがついてはいるものの、よく眺めてみれば、長大な沿海運河や、ましてや内陸運河でないと見当がつき、何んとなく萎えてしまったのですね。罰当たりなことであります。
いってみれば、あの(!)小樽運河とカテゴリーをおなじゅうする、築港のバックヤードたる艀の船溜に過ぎない、「運河」と呼ぶには名前負けするような、ごく短い水路であろうと思われたことです。イヤ、小樽運河に恨みがあるわけではないのですが、昔のウェブでは「運河」で検索すると、ほとんど小樽運河で占められてしまった苦い思い出があるもので‥‥ごめんなさい。

●ホンモノのGoogleマップで船川港を表示
●話を戻して、この絵葉書に写された「運河」が何者であるか、という件です。船川港で検索すると、八郎潟で知られる男鹿半島の、南岸にある船川港がヒットしますが、これでしょうか(そこからか? ハイ、恥ずかしながら)。
上に掲げたGoogleマップを出して、さて、絵葉書の「運河」はどのあたりか‥‥と探してみました。防波堤と山並から、最初は北端近くかな、と思ったのですが、下に触れたとおり違ったようです。
●で、仮に秋田の船川港として、手元にある「日本港湾修築史」(運輸省港湾局・昭和26年5月)をひもといてみたところ‥‥ありました!
船川港は、男鹿半島によって北風が遮られるため、冬季の避難港として用いられていたそう。近隣の有力港である酒田、能代、土崎は河口港で大型船の入れるよう改良するには時間を要するため、明治43年秋田(土崎)とあわせて重要港湾にすることに決定、開発が始まったとあります。どうやら間違いなさそうですね。
「運河」についてですが、第一船入場は長さ100間(182m)、幅50間(91m)、水深8尺。運河は第一および第二船入場の間に設け、長さ120間(218.4m)、幅15間(27.3m)で両岸は荷揚場とする、と仕様が記されていました。やはり、埠頭間に設けられた艀の荷揚場だったのですね。ちなみにここでいう船入場は、防波堤で囲まれた泊地またはポンドのことを指します。

●USA-R2873-B-13 昭和24(1949)年、米軍撮影。国土変遷アーカイブ・空中写真より。
●国土変遷アーカイブから、絵葉書の場所を割り出してみました。現在の男鹿駅のすぐ横だったようです。
写真では、本来北が真上になるところ、ずいぶん西寄り‥‥左回りに傾いていますが、道や線路のレイアウトから、男鹿駅のあたりとわかりました。防波堤との位置関係からすると、中央下に見える水路の北側の橋が、絵葉書の主題になっていた第一運河橋のようです。中央のポンドが第一船入場、右下の防波堤内側が、第二船入場になります。
●船川港の沿革は国交省・秋田港湾事務所の「秋田県の港」に詳しくまとめられています。空中写真右下に見える独立した防波堤は、第二船入場防波堤として拡幅されながらも現存しているのですね。
また、「船川港築港資料」によると、大正2年(1913)第一船入場が築造、大正3年(1914)第一船入場防波堤築造とありましたから、絵葉書の写真を撮影したのは、そのころ少し前ということになるのでしょう。
●酒田、土崎は、北前船の内貿航路華やかなりしころから名前が出てきますので、和船好きとしては頭に入っていたのですが、船川港がむしろ、この地域の近代築港のさきがけとして、河口港たちを尻目に躍り出たことを知り、蒙が啓かれた思いです。これで不遇を囲っていた絵葉書たちにも、義理を果たしたような気分になったものでした。

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タグ : 船川港