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新川橋閘門跡を訪ねて…2

(『新川橋閘門跡を訪ねて…1』のつづき)

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北詰から少し上流側に、橋の全体を見渡せそうな空所があったので、降りてみることにしました。こちら側は住宅地とあって、蔦が生い茂った南詰と異なり、橋台地周りも片付いていてさっぱりとした印象です。

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水際に降りて、上流側の全体像を一枚。閘室まで含めて全部で10径間、橋脚兼堰柱(?)の数は9基。堰柱手前側天端、各々の差こそあれ剥落が目立ちますね。過去の増水時、浮立物の衝突で壊された痕跡でしょうか。

鋼桁は既製鋼材を用いた継手のないもので、コンクリート部分の古び方とくらべると、だいぶ時代が下ったものように思えます。一度架け替えられたのではないでしょうか。

あちこちのぞき込んでみたものの、銘板のたぐいは見つけられなかったので、竣工年がわからなかったのは残念。何しろ橋の親柱もないので、車輌通行止めの看板がなければ、橋の名前すらわかりませんでしたから‥‥。

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橋を渡っていたときから気になっていた、北岸下流側のクレーン。護岸に階段が備えられていて、床面に置いてあるスリング枠のようなものも見えたので、舟艇の上下架設備でしょうか。

いや、その割には水面上の張り出しが短いな‥‥。筏に組んで曳いてきた原木を、一本づつばらして水揚げしていたとか、あれこれ妄想したものでした。

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ふたたび橋を渡って南詰に戻り、今度は下流側から全体を眺めました。閘門径間が近いだけあって、閘室を構成する構造が長々と手前に伸びて存在感を主張し、単なる橋とは違った独特の雰囲気を醸し出しています。潮風や日照の関係か、桁のこちら側は反対とくらべて、ずいぶん錆が多いですね。

橋の周りをうろうろしている間、通航船艇は一隻もなく、橋を渡る人影や自転車すら見られず、実に静かな川景色ではありました。滞在したのはごく短い時間ですから、致し方ないといえばそうなのですが。

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南詰下流側から見た閘室、以下三態。径間は6~7mでしょうか、どんなフネブネが行き交ったのか、静かな水面とものいわぬ構造物を前にあれこれと妄想。

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誰にも出会わなかったこともあり、橋脚に残された階段で降りて検分しておけばよかったと、今になってちょっと後悔の念が。まあ誰でも“カメラ”をポッケに忍ばせているご時世、止めておいて正解だったのは間違いないのでしょうが。

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コンクリートの肌の質感からして、戦前昭和10年代から戦後すぐくらいの竣工と見たのですが、いかがでしょう。検索してもやり方が悪いのか、資料となるサイトに当たらないので、県の土木部門か地元図書館にでも、お伺いを立てるしかないかもしれません。

ともあれ委細について知らなくとも、ここに間違いなく閘門が在ったことは、訪れてこの目で確認できたわけで、それだけでも十分に嬉しく、充実したひとときではありました。

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最後は一本下流の、県道60号線粟崎橋から新川橋を眺めて、お別れすることにしました。北詰は柵外にテラス状のフラット、水際は消波のためか丸石積みとなっていて、明るい雰囲気。交通量も多く、クルマがひっきりなしに通り過ぎます。

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目の高さにちょうど電線が渡っていたので、妙なトリミングになりましたが、両岸にもやう船影とてない、少々廃墟風味の全容をものすることができました。

顕彰する人もなく、忘れられているのは寂しいですが、かつてここには、閘門を設置するに足る通航量を擁した時代が、確かにあったのです。

ここで、国土地理院の国土変遷アーカイブ・空中写真をお借りして、現役時の姿を空から眺めてみましょう。何か読み取れることがあるかもしれません。

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USA-M116-114 昭和28(1954)年、米軍撮影。

右側、南岸の護岸の形状が今と異なり、流路が一部拡幅されていることがわかりますね。扉体はこの写真では、閘室の下流側以外判然としません。橋詰に詰所など、小屋のたぐいが見られないので、水門管理用の建物はなかったのかもしれません。

ちなみに、国土変遷アーカイブに収録された空中写真で、新川橋が写ったた最古のものは昭和21年米軍撮影の写真。鮮明でないため上のものを掲げましたが、つまり竣工は少なくとも、昭和21年以前ということがわかりました。

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MCB625-C4-5 昭和37(1962)年、国土地理院撮影。

水門、閘門径間とも、扉体がはっきりと判別できるもの。水門の中央径間のみ開放してあるところから、通常の通船は閘門を使わなかったであろうことが想像できます。
全閉塞の際でも、閘程はささやかなものだったでしょうから、河北潟の渇水などよほどのことがないかぎり、閘門を活用する機会はなかったのかもしれません。

新川橋のほかにも興味をそそられたのが、上の2枚では画面左側、現在の粟崎町だと少し幅の広い道路となっている部分が、水路であったこと。
今でいうと上流側は木谷公園あたりから大野川と別れて、粟崎町ニ2付近でふたたび合流するような流路があったのですね。古い街場を貫流する派川、水郷情緒にあふれた風景だったことが想われます。

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CCB7522-C4A-5 昭和50(1975)年、国土地理院撮影。

現役末期と思われるカラーの一枚。一面の田圃だった南詰付近にも、現在も見られるガスタンクが登場、工業地帯の雰囲気が色濃くなってきたころですね。各径間には半開きとなった扉体が見られ、道路は南詰まで拡幅・舗装されて、橋上にはクルマが走っています。

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この写真で面白く眺めたのは、新川橋そのものより、粟崎橋の下流に、長々と繋がれた筏の列が2本見えたこと! 噴流を白く泡立たせた、2隻の曳船が奮闘するさまも見て取れ、大野川舟運の賑わいが感じられて、ちょっと興奮したものでした。

なるほど、こんな結構な規模の筏が通航しているのなら、水門の中央径間を開放しておいたのも納得です。閘門の使用頻度を考えると、少々寂しい気持ちにもなったものの、船影濃かった時代があったのですから、潮留と通船を同時に満たす、目的にかなった施設であったことは間違いありますまい。

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おまけその1。閘門探訪を終えて、金沢市街に戻ろうと北陸鉄道浅野川線・内灘駅におもむいたところ、何やら人だかりが。

物見高く首を突っ込んだところ、車庫にいるもと京王井の頭線の電車が、リバイバル塗装で登場したのだそう。線路際で一眼レフを構える皆さんにお願いして、ちょっとだけすき間を空けてもらい、一枚撮ってみました。

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おまけその2。金沢市街に到着後、まだ時間があったので街をぶらぶらお散歩。せっかくだから街場の川も見ておこうと、浅野川は応化橋に来てみました。年季の入ったカミソリ堤防が連なる、都市河川らしい雰囲気も悪くありません。

浅野川、最終的には新川橋のある大野川へ流れ込み、Googleマップで見たかぎり途中まで舟航できそうなのですが、このあたりはゴロタ石の河床が露出した浅い流れ。澄んだ水をのぞくと、たくさんの小魚が泳いでいて、のどかな川景色でした。

(令和4年7月9日撮影)

(『松川遊覧船みたび』につづく)

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タグ : 大野川新川橋閘門閘門浅野川金沢市