閘門の写真3題
●荒川、江戸川流域の閘門を写した、昔の絵葉書3枚をご覧いただきましょう。いずれも鮮明さという点ではいま一つの感がありますが、絵葉書の題材として選ばれただけあって、視点、撮影時期ともに惹かれるものがあります。

●大東京(江戸川區) 小岩町善養寺 星降りの松(天然記念物) 上、葛西中川の水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
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●大東京(江戸川區) 小岩町善養寺 星降りの松(天然記念物) 上、葛西中川の水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
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●小岩の善養寺‥‥通称小岩不動尊の境内にある星降りの松(昭和15年に枯れ、現在は2代目が生えているそう)の方が扱いが大きいですが、もちろん閘門が目当てで迎えたもの。江戸川区の名物として年季が違いますから、これは当時としては仕方のないことだったのでしょう。
●西洋の古城にある矢倉の、矢狭間のようなデザインの堰柱先端とくれば、真っ先に思い出されるのはスーパー堤防に埋没した形で、現在もゲートの片割れが現地保存されている小松川閘門。
そう、この絵葉書を入手して以来、よく見もせずに小松川閘門とばかり思い込んでいたのですが、今回スキャンしてみて、ようやく「あれ? 小松川閘門じゃなく、同型の船堀閘門を写したものなのでは?」と気づかされたことが、いくつか出てきたのでした。ちょっと長くなり恐縮ですが、お付き合いください。

●閘門の部分のみトリミングしてみました。あまり鮮明ではないものの、まだ堰柱の肌も新しく、手前の護岸際には、麦わら帽子をかぶった釣人が糸を垂れ、そのかたわらにコンクリート製らしい繋船ビットも見え、のどかな雰囲気です。堰柱正面、基部近くに見える長方形の黒い部分は、銘板でしょうか。
●恥ずかしながら、ここに至り「あれ?」と気づかされた発端は、右下キャプション「葛西中川の水門」。荒川をはさんで相対する略同型の2閘門、小松川・船堀とも、所在地は同じ江戸川区ですが、小松川のそれを「葛西中川」と書くかしら? ということから。
荒川放水路が開鑿されてから、以前は漠然と広い範囲を指していた葛西の地名は、東岸のいわば「向こう岸」に限られたとみてよいでしょう。小岩の名所と組写真にされていることも、東岸のであることを裏付けているような。そこから疑念が生じて、「この写真、船堀閘門かも‥‥」と思いつつ見直すと、さらに一つ気づいたことがあったのでした。
●小松川閘門なら、閘室のすぐかたわらまで、早い時期から工場がぎっしりと建て込んでいたはず。写真にはそれが見られず、堤防の向こうは低い木々が植わった公園地のような雰囲気。う~ん、国土変遷アーカイブ空中写真で確かめてみよう。
閘門が完成して6年後、昭和11年撮影の「B4-C2-23」で小松川閘門を見てみると、南北とも、閘室きわきわまで建物がギッシリ詰まっています。対して船堀閘門は、南北とも黒く写っており、木が植えられているように見えますね。
●ちなみに2閘門とも、管理橋は川面‥‥荒川側に設けられているので、小松川なら東から西を、船堀ならその反対で西から東を見たことになります。
もしこの写真が小松川閘門なら、閘室左手奥に工場らしい建物や、煙突くらいは見えていないとおかしいように思え、これは船堀閘門なのでは、と確定はできないにせよ考えた次第です。ここで「運河と閘門」の巻末にある全国閘門一覧表から、2閘門の諸元を抜き出してみましょう。
●小松川閘門:閘室幅・14.4m、有効長・74.9m、ゲート間・91m、閘頭部高・前扉室23.8m、後扉室22.1m。ゲート形式・鋼製ストーニーゲート。昭和5年3月竣工、昭和51年廃止。
船堀閘門:閘室幅同じ、有効長・76.6m、ゲート間同じ、閘頭部高・前扉室同じ、後扉室21.8m。ゲート形式・未記入、昭和5年11月竣工、昭和54年撤去。
寸法がいくつか異なるだけで、特徴あるゲート周りのデザインも同様とくれば、まず略同型といって差し支えないのではありますまいか(間違っても仕方がないといういいわけじみているな)。他に違いがあるのか、ご存じの方のご指摘を待ちたいところです。
●長くなりましたが、もう一つだけ。「運河と閘門」には小松川閘門のゲート形式を、ストーニーゲートとされていますが、手持ちの資料「河川工学」(『アルス「河川工学」に涙する』参照)に、船堀閘門について以下のような下りがあったので、疑問点として引用しておきます。
「閘門扉は可動堰、水門などゝ異なり、水位差のない場合に昇降するのを原則とするからストーニー式扉の如き轉子列を用いひることは稀で、多くは固定轉子を採用する」、また扉体の側面図とともに「轉子は徑300㎜のものを前後兩側各々12個づゞ」と。
ストーニーゲートではなく、ローラーゲートの一種だったように読めるのですが、原図面を確認していないので断言はできません。これもご教示を待ちたい点ではあります。

●小名木川閘門築造中
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●閘室や扉体の工事がほぼ完了し、仕上げ工程に入ったとおぼしき小名木川閘門の魅力的な一枚。竣功直前の様子をとらえたオフィシャルなもののせいか、有名な写真で各所に掲載されていますよね。
こちらも諸元を「運河と閘門」の巻末表から引用させていただきましょう。閘室幅・10.9m、閘頭部高さ・前扉室7.95m、後扉室6.44m。閘室有効長・70.44m、ゲート間延長・90.9m。ゲート形式・マイタゲート複閘式。大正15年竣工、閘門廃止後昭和39年、同位置にローラーゲートの小名木川水門を設置。

●ひどく左に傾いていたのが気になり、トリミングついでにつぶれ気味の色味も薄くして、少しでもディテールが観察できるようにしました。管理橋の位置から、手前が旧中川で、奥が荒川であることがわかります。閘室床面に、紡錘形をなした階壁(閾)が見られるのも複閘式ならでは。花崗岩でしょうか、真新しい石張りの護岸が美しいですね。
現在、旧中川は水位低下化河川となり、干満にかかわらず荒川より水位が低められていますが、当時は潮位によって高水位側が逆転することがあり、マイタゲートの構造上、扉室一つに二組のゲートを備えた、複閘式であることが求められたのでした。
●位置はほぼ現在の荒川ロックゲートのあたりで、このすぐ北に築造された小松川閘門にさかのぼること5年、「閘門集中地帯」たる荒川下流部に、いわば先陣を切って登場した近代閘門といえるでしょう。
小名木川に次いで小松川と、上下航分の閘門が設けられたという事実も、全国的に見て珍しいだけでなく、当時近郊と東京を行き来していたフネブネの、凄まじいまでの輻輳ぶりが思われますよね。荷船がギッシリ詰まる閘室、入閘待ちのフネブネが並ぶゲート前‥‥往時の水路がいかに賑わっていたか、この一つだけでも水運趣味者としては妄想のオカズになろうというものです。

●関宿閘門扉を越流 昭和十年九月廿六日午后三時半
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●最後は江戸川流頭部、関宿水閘門(タグ『関宿水閘門』で過去の記事参照)の閘門部分、マイタゲートをアップで写したものを。
といっても扉体はほぼ水没しており、写真に写っているのは天端に設けられた歩み板と、溢水まで高さをわずかに残す護岸のみ。これは、大増水した河流が閉じたゲートを越流してゆくという、壮絶な瞬間を写したものだからです。
●撮影された年月日、時刻までが明記されたというのは、ほとんどが曖昧模糊として撮影年の検証すら難しい絵葉書としては、非常に珍しい例といえるでしょう。
未曽有の洪水の記録となれば、オフィシャルな写真と思って間違いないでしょうね。ピントがだいぶ甘いのも、河水に押し流される恐怖に耐えながらカメラを構えたと考えれば、致し方のないことだと思われます。
●「過去の洪水被害」(江戸川河川事務所)によると、昭和10年9月の台風5号は最大流量2,449立米/秒、最高水位6.7mにおよび、昭和33年9月の狩野川台風に次いで歴代9位で、各地に大きな被害をもたらしたそう。
閘門が併設された水門の方は、このときもちろん全径間が全開だったことでしょう。背後に写っている工夫や技手らしき多くの人影にも、水防に備えて待機しているらしいただならぬ緊迫感がうかがえて、閘門の写真としてはある種出色のものになっています。

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●西洋の古城にある矢倉の、矢狭間のようなデザインの堰柱先端とくれば、真っ先に思い出されるのはスーパー堤防に埋没した形で、現在もゲートの片割れが現地保存されている小松川閘門。
そう、この絵葉書を入手して以来、よく見もせずに小松川閘門とばかり思い込んでいたのですが、今回スキャンしてみて、ようやく「あれ? 小松川閘門じゃなく、同型の船堀閘門を写したものなのでは?」と気づかされたことが、いくつか出てきたのでした。ちょっと長くなり恐縮ですが、お付き合いください。

●閘門の部分のみトリミングしてみました。あまり鮮明ではないものの、まだ堰柱の肌も新しく、手前の護岸際には、麦わら帽子をかぶった釣人が糸を垂れ、そのかたわらにコンクリート製らしい繋船ビットも見え、のどかな雰囲気です。堰柱正面、基部近くに見える長方形の黒い部分は、銘板でしょうか。
●恥ずかしながら、ここに至り「あれ?」と気づかされた発端は、右下キャプション「葛西中川の水門」。荒川をはさんで相対する略同型の2閘門、小松川・船堀とも、所在地は同じ江戸川区ですが、小松川のそれを「葛西中川」と書くかしら? ということから。
荒川放水路が開鑿されてから、以前は漠然と広い範囲を指していた葛西の地名は、東岸のいわば「向こう岸」に限られたとみてよいでしょう。小岩の名所と組写真にされていることも、東岸のであることを裏付けているような。そこから疑念が生じて、「この写真、船堀閘門かも‥‥」と思いつつ見直すと、さらに一つ気づいたことがあったのでした。
●小松川閘門なら、閘室のすぐかたわらまで、早い時期から工場がぎっしりと建て込んでいたはず。写真にはそれが見られず、堤防の向こうは低い木々が植わった公園地のような雰囲気。う~ん、国土変遷アーカイブ空中写真で確かめてみよう。
閘門が完成して6年後、昭和11年撮影の「B4-C2-23」で小松川閘門を見てみると、南北とも、閘室きわきわまで建物がギッシリ詰まっています。対して船堀閘門は、南北とも黒く写っており、木が植えられているように見えますね。
●ちなみに2閘門とも、管理橋は川面‥‥荒川側に設けられているので、小松川なら東から西を、船堀ならその反対で西から東を見たことになります。
もしこの写真が小松川閘門なら、閘室左手奥に工場らしい建物や、煙突くらいは見えていないとおかしいように思え、これは船堀閘門なのでは、と確定はできないにせよ考えた次第です。ここで「運河と閘門」の巻末にある全国閘門一覧表から、2閘門の諸元を抜き出してみましょう。
●小松川閘門:閘室幅・14.4m、有効長・74.9m、ゲート間・91m、閘頭部高・前扉室23.8m、後扉室22.1m。ゲート形式・鋼製ストーニーゲート。昭和5年3月竣工、昭和51年廃止。
船堀閘門:閘室幅同じ、有効長・76.6m、ゲート間同じ、閘頭部高・前扉室同じ、後扉室21.8m。ゲート形式・未記入、昭和5年11月竣工、昭和54年撤去。
寸法がいくつか異なるだけで、特徴あるゲート周りのデザインも同様とくれば、まず略同型といって差し支えないのではありますまいか(間違っても仕方がないといういいわけじみているな)。他に違いがあるのか、ご存じの方のご指摘を待ちたいところです。
●長くなりましたが、もう一つだけ。「運河と閘門」には小松川閘門のゲート形式を、ストーニーゲートとされていますが、手持ちの資料「河川工学」(『アルス「河川工学」に涙する』参照)に、船堀閘門について以下のような下りがあったので、疑問点として引用しておきます。
「閘門扉は可動堰、水門などゝ異なり、水位差のない場合に昇降するのを原則とするからストーニー式扉の如き轉子列を用いひることは稀で、多くは固定轉子を採用する」、また扉体の側面図とともに「轉子は徑300㎜のものを前後兩側各々12個づゞ」と。
ストーニーゲートではなく、ローラーゲートの一種だったように読めるのですが、原図面を確認していないので断言はできません。これもご教示を待ちたい点ではあります。

●小名木川閘門築造中
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●閘室や扉体の工事がほぼ完了し、仕上げ工程に入ったとおぼしき小名木川閘門の魅力的な一枚。竣功直前の様子をとらえたオフィシャルなもののせいか、有名な写真で各所に掲載されていますよね。
こちらも諸元を「運河と閘門」の巻末表から引用させていただきましょう。閘室幅・10.9m、閘頭部高さ・前扉室7.95m、後扉室6.44m。閘室有効長・70.44m、ゲート間延長・90.9m。ゲート形式・マイタゲート複閘式。大正15年竣工、閘門廃止後昭和39年、同位置にローラーゲートの小名木川水門を設置。

●ひどく左に傾いていたのが気になり、トリミングついでにつぶれ気味の色味も薄くして、少しでもディテールが観察できるようにしました。管理橋の位置から、手前が旧中川で、奥が荒川であることがわかります。閘室床面に、紡錘形をなした階壁(閾)が見られるのも複閘式ならでは。花崗岩でしょうか、真新しい石張りの護岸が美しいですね。
現在、旧中川は水位低下化河川となり、干満にかかわらず荒川より水位が低められていますが、当時は潮位によって高水位側が逆転することがあり、マイタゲートの構造上、扉室一つに二組のゲートを備えた、複閘式であることが求められたのでした。
●位置はほぼ現在の荒川ロックゲートのあたりで、このすぐ北に築造された小松川閘門にさかのぼること5年、「閘門集中地帯」たる荒川下流部に、いわば先陣を切って登場した近代閘門といえるでしょう。
小名木川に次いで小松川と、上下航分の閘門が設けられたという事実も、全国的に見て珍しいだけでなく、当時近郊と東京を行き来していたフネブネの、凄まじいまでの輻輳ぶりが思われますよね。荷船がギッシリ詰まる閘室、入閘待ちのフネブネが並ぶゲート前‥‥往時の水路がいかに賑わっていたか、この一つだけでも水運趣味者としては妄想のオカズになろうというものです。

●関宿閘門扉を越流 昭和十年九月廿六日午后三時半
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●最後は江戸川流頭部、関宿水閘門(タグ『関宿水閘門』で過去の記事参照)の閘門部分、マイタゲートをアップで写したものを。
といっても扉体はほぼ水没しており、写真に写っているのは天端に設けられた歩み板と、溢水まで高さをわずかに残す護岸のみ。これは、大増水した河流が閉じたゲートを越流してゆくという、壮絶な瞬間を写したものだからです。
●撮影された年月日、時刻までが明記されたというのは、ほとんどが曖昧模糊として撮影年の検証すら難しい絵葉書としては、非常に珍しい例といえるでしょう。
未曽有の洪水の記録となれば、オフィシャルな写真と思って間違いないでしょうね。ピントがだいぶ甘いのも、河水に押し流される恐怖に耐えながらカメラを構えたと考えれば、致し方のないことだと思われます。
●「過去の洪水被害」(江戸川河川事務所)によると、昭和10年9月の台風5号は最大流量2,449立米/秒、最高水位6.7mにおよび、昭和33年9月の狩野川台風に次いで歴代9位で、各地に大きな被害をもたらしたそう。
閘門が併設された水門の方は、このときもちろん全径間が全開だったことでしょう。背後に写っている工夫や技手らしき多くの人影にも、水防に備えて待機しているらしいただならぬ緊迫感がうかがえて、閘門の写真としてはある種出色のものになっています。

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