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栗ノ木排水機場舟通しを訪ねて…4

(『栗ノ木排水機場舟通しを訪ねて…3』のつづき)

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256052.jpg上写真、西側扉体スキンプレートのアップ。ここまで迫りながら、銘板を撮らなかったのが悔しくてたまらなくなります‥‥。

扉体を開閉させるロッドの先端、ヒンジだけでなく、スプリングによる緩衝装置を備えているのですね。天端の歩み板は、三角形の持ち送りを突き合わせ溶接で並べ、鉄板一枚を渡しただけの実に簡素なもの。“戦時設計”の匂いすらする、といったら大げさでしょうか。

右写真、軸承周り。水密材は斜接部同様木材だったようで、完全に失われています。軸受はさすがにしっかりしていたので、扉体が傾いでいるのは、やはり構造の少なさや、板厚の薄さによるゆがみのようですね。

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東側の側壁上に上り、扉体を見下ろして。排水用の小扉を上下させる、巻上機回りの様子がよくわかる角度です。
ベベルギヤでスピンドルを上下させるのはわかるにしても、最終段の大きなスパーギヤの噛み合う相手が失われていて、初見時はハテ? という感じでした。また手動であれば、クランクを回す人が載るための、幅のある歩み板が必要なはずです。腐朽で現存していないのかな?

しかし、手前のアングル材で箱型に組まれたものを電動機の架台とすれば、大スパーにはモーターのピニオンギヤが噛み合っていたのでは、と説明がつきます。
扉体天端の歩み板が、手すりもなく、幅もとられておらず簡素なのは、小扉巻上機が電動化されていて、人が扉体上まで出張る必要がなかったからだろう、と推測して一人納得。扉体の開閉から注排水まで、オール動力化された近代的ゲート(!)だったと考えればしっくりくる構造です。

また、下の空中写真でもわかるように、当初から閘室を渡る管理橋が設けられていたことも大きいと思われます。閘室両岸の交通がしっかり確保されていれば、扉体上に通路を設ける必要はなかったでしょう。

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国土変遷アーカイブ「USA-M302-A-9-48」より (昭和21年10月29日:米軍撮影)

ここで、栗ノ木排水機場・舟通しが輝いていた時代の姿を見てみたくなり、おなじみ国土変遷アーカイブの空中写真をお借りして、排水機場を中心にトリミングしてみました。

上は昭和21年、まだ建設中のころ。本来の河道からオフセットした敷地に建設され、竣工後に瀬替えしたことがわかりますね。すでに閘室やマイタゲートが形をなしており、岸には資材の運搬でしょう、何隻かの荷船らしい船影が横付けしているのも見えます。

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国土変遷アーカイブ「USA-R1810-A-44」より (昭和23年9月25日:米軍撮影)

約2年後、工事もほぼ終わった状態。旧河道は埋め立てによって閉塞され、排水機場に接する新たな水面が開鑿されています。各ゲートや閘室を渡る橋までわかるほど、鮮明なのはありがたいかぎり。「施設概要」によれば、工事完成は昭和24年3月、竣工を約半年後に控えた姿ということになります。

舟通しを利用した舟航風景を妄想すると‥‥。鳥屋野潟沿岸の総延長と、周囲の田圃面積を考えれば、農舟だけでも結構な通航量があって、ことに収穫期は、閘室が一杯になるような光景も見られたことだろう‥‥と、賑やかな「米どころの閘門風景」を思い描いてしまいました。実際はどうだったのでしょうか、当時の写真があったら見てみたいものですね。

国土変遷アーカイブで、上掲のものより少し時代を下った画像を見てみると、排水機場から北側の栗ノ木川には、原木らしいものが水面を埋めており、貯木場としても有効に利用されていたことがうかがえました。閘門王国・新潟の、豊かで多様だった水路風景の片鱗がうかがえて、飽かず眺めてしまったものです。

(令和2年10月25日撮影)

(『栗ノ木排水機場舟通しを訪ねて…5』につづく)

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タグ : 栗ノ木排水機場栗ノ木排水機場舟通し閘門