栗ノ木排水機場舟通しを訪ねて…3
(『栗ノ木排水機場舟通しを訪ねて…2』のつづき)

●半円状に成形された側壁の先端は、錆びて崩れた手すりが散乱し、荒廃が進んでいることがわかります。かろうじて残った部分も、あと数年したら同様の運命をたどりそうでした。
足元を確かめながら、残っていたハシゴを慎重に踏んで、かつての水面に降り立ちました。土がぬかるんだり、草が濡れていないのはありがたく、安心して探索を続行できそう。ハシゴの裏の壁面に溝が切ってあるけれど、これは何の痕跡なんだろう‥‥。

●閘室の南側に立ち、北を見たところ。扉体の向こう、奥に見えるのが先ほど渡ってきた橋です。位置的には橋のさらに奥が前扉室なのですが、後扉室同様放置されて埋もれているだけなのか、撤去されたのかはわかりませんでした。
扉体の向きを見てもわかるとおり、亀田郷・鳥屋野潟側は低水位で、かつての栗ノ木川が高水位側になります。低湿地を排水し乾田化することが排水機場設置の一つの目的だったので、いわば一種の水位低下化がなされたわけですね。現在の新潟でも、通船川が水位低下化河川とされ、地域の排水に貢献するとともに、通航も維持されています。

●西側の扉体に近づいてみて、「えっ、これで大丈夫だったの?」というのが正直な感想でした。最近の近い規模で同じタイプの扉体‥‥例えば、八幡堀水門のそれとくらべてみると、驚くほど簡素な構造だったからです。
昭和10年代後半の設計と、現代のそれを同一に見ることはできませんし、戦中から終戦後の施工で、物資が不足していたことも考えに入れなければいけないでしょう。
しかし、梁の少なさは素人目にも不安になるほどで、水圧がかかったらスキンプレートがべっこりたわんだのでは‥‥と妄想させるものがありました。まあ、閘程がさほどでなければ、運用に差支えはなかったでのしょうが。
●半ば開いた扉体の間を抜け、北側から。地面にはクロスのような敷物が敷かれ、思ったより足場は悪くありませんでした。あと、先ほどからチラチラ見えていたのでお気づきでしょうが、南側は砕石の大きな山がある資材置き場です。
斜接部の水密材は左のものを一部残して腐朽して失われ、扉体もゆがみ大きく傾いたさまを目の当たりにして、せめて原形をとどめた時期に訪ねられて幸いだったと思ったことでした。
(令和2年10月25日撮影)
(『栗ノ木排水機場舟通しを訪ねて…4』につづく)

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足元を確かめながら、残っていたハシゴを慎重に踏んで、かつての水面に降り立ちました。土がぬかるんだり、草が濡れていないのはありがたく、安心して探索を続行できそう。ハシゴの裏の壁面に溝が切ってあるけれど、これは何の痕跡なんだろう‥‥。

●閘室の南側に立ち、北を見たところ。扉体の向こう、奥に見えるのが先ほど渡ってきた橋です。位置的には橋のさらに奥が前扉室なのですが、後扉室同様放置されて埋もれているだけなのか、撤去されたのかはわかりませんでした。
扉体の向きを見てもわかるとおり、亀田郷・鳥屋野潟側は低水位で、かつての栗ノ木川が高水位側になります。低湿地を排水し乾田化することが排水機場設置の一つの目的だったので、いわば一種の水位低下化がなされたわけですね。現在の新潟でも、通船川が水位低下化河川とされ、地域の排水に貢献するとともに、通航も維持されています。

●西側の扉体に近づいてみて、「えっ、これで大丈夫だったの?」というのが正直な感想でした。最近の近い規模で同じタイプの扉体‥‥例えば、八幡堀水門のそれとくらべてみると、驚くほど簡素な構造だったからです。
昭和10年代後半の設計と、現代のそれを同一に見ることはできませんし、戦中から終戦後の施工で、物資が不足していたことも考えに入れなければいけないでしょう。
しかし、梁の少なさは素人目にも不安になるほどで、水圧がかかったらスキンプレートがべっこりたわんだのでは‥‥と妄想させるものがありました。まあ、閘程がさほどでなければ、運用に差支えはなかったでのしょうが。

斜接部の水密材は左のものを一部残して腐朽して失われ、扉体もゆがみ大きく傾いたさまを目の当たりにして、せめて原形をとどめた時期に訪ねられて幸いだったと思ったことでした。
(令和2年10月25日撮影)
(『栗ノ木排水機場舟通しを訪ねて…4』につづく)

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タグ : 栗ノ木排水機場栗ノ木排水機場舟通し閘門