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淀川の川蒸気を眺めて

248010.jpg古代から舟運路として利用され、江戸時代は近代にいたるまで活躍した三十石舟、過書船でも知られるなど、京、大阪を控えていただけに、早くからひらけていた淀川航路。

川蒸気も関東に先んじて就航しており、大いに興味をそそられるところではあります。乏しい手持ちの中から、川蒸気たちの活躍ぶりをしのべるような絵葉書と錦絵、7点を選んでみました。
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絵葉書ご紹介の前に、自分のメモ書きを兼ねて、淀川水系の川蒸気の沿革を以下にざっくりと。何分、不徳の致すところで淀川の川蒸気関連の史料が手元に少ないため、理解の至らないところ、間違いがあるかもしれません。この点あらかじめお詫びしておきます。

淀川に就航した川蒸気のはしりは、はっきりとはわからないものの明治3年と推定されており、「鳩丸」と「水龍丸」の2隻が、大阪~伏見間に定期航路を開いたのがそもそもだそう。もしこれが正しければ、明治4年、江戸川・利根川に就航した「利根川丸」にわずかに先んじており、川に開かれた定期汽船航路としては、最も早い部類となるでしょう。

大阪の船着場は、現在も水上バス乗り場がある天満橋八軒屋浜。京都は伏見の南浜とされ、航程は約40㎞、途中の寄港地は30ケ所あったとのこと。

この船社は早くも明治6年には業績不振となり、「鳩丸」「水龍丸」も人手に渡ったのですが、この2隻を活用して起業した曳船業は成功をおさめ、旅客運賃の低廉化にもつながったことから以後船社が増加。お決まりの過当競争が始まって、疲弊した各社は歩み寄り、明治20年「淀川汽船」なる新会社を、船隊13隻を持って立ち上げたそう。

ちなみに鉄道開通の影響もあって、旅客輸送は明治30年代でほぼ衰微し、以後は曳船業に一本化していったとのこと。「淀川汽船」も明治35年解散、残存船は38年「中島運送部」、大正2年「淀川運送」を経て、同10年「梅小路相互運輸」が継承。末期の主力貨物は石炭だったそうです。

関東との大きな違いは、就航からわずか数年にして、完全に並行する競合鉄道路線が現われたこと。官設による京阪間の鉄道が明治9年に仮開業、翌10年には正式開業。さらに京阪電車が明治43年に全通すると、旅客輸送は完全にとどめを刺された形になり、その苦衷は察するに余りあります。
成田線・常磐線の開通後も、橋梁が少なく陸上交通が未発達だった下利根と水郷地帯を控え、後年まで活躍の場を失わなかった関東の内水航路とくらべると、はるかに厳しい環境下で生き抜いてきたといってよいでしょう。



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三菱大阪製煉所 背景
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


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かつて、工業都市の貌が色濃かったころの大阪を象徴するような、巨大な建屋群と林立する煙突をバックにした川景色。
写真の主題となった三菱大阪製煉所の後身、三菱マテリアル堺工場のサイト「堺工場の沿革」によると、明治24年設立の「宮内省御料局生野支庁附属大阪製煉所」が政府から払い下げられ、大阪造幣局に隣接した旧三菱合資会社の一部門となった、とあります。現在この地は、大阪アメニティパークとなっているのはご存知でしょう。

手前の曳船の外観から見て、大正末から昭和初期のように思えるのですが、いかがでしょう。本題の川蒸気は、画面右奥に小さく、豆粒のようで少々物足りませんが、拡大してみると、外輪カバーから船首側にのみ箱型の甲板室が設けられ、船尾側はほぼフラットなタイプなのがわかりますね。

曳船としては少々アンバランスなことから、もしかしたら、下掲の写真にあるような全長に渡る甲板室を備えた川蒸気を、曳航作業の便をはかるため、後年改造したものかも‥‥という妄想が広がりました。
そういう目でこの写真を眺めてみると、船首側の甲板室、切断したまま妻板もつけていないように見えますね。甲板室を切断撤去した、そのままにしていたのかなあ‥‥と、さらに妄想がたくましゅうなります、ハイ。

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(大阪名所)淀川公園より造幣局を望む
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


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こちらも川蒸気は遠く、風景の一部に過ぎませんが、年代が特定できるのはありがたいところ。右端に写った、3ヒンジアーチで知られる桜宮橋は昭和5年9月竣工なので、少なくともそれ以降の撮影といえるからです。とすれば、河道を埋め立てたと思しき河畔の近代的な公園は、現在の毛馬桜之宮公園ということになります。

拡大すると、船首側面に船名が書かれているのがわかるものの、判読はできないのがもどかしいところ。それでも、窓面積の小さい箱型の甲板室や、歯車状の装飾を施した大ぶりな外輪カバーなど、ディテールは楽しめます。煙突が見当たりませんが、屋根上に人影が複数みられることから、橋をくぐるため倒したのでしょうか。

ともあれ、昭和一桁まで川蒸気が元気に活躍していたことを確認できたのは、嬉しいことではありました。近代味あふれる公園や鋼橋と、明治以来変わらぬ姿で走り続けてきた川蒸気のツーショット! ある種ミスマッチともいえそうな光景が、また何ともいえぬ滋味を醸し出している一枚ではあります。

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(大阪百景)造幣局
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


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同じく東岸から見た造幣局ですが、こちらは視点が前のものよりずっと下流で、さらに時代もだいぶ遡っています。遠くに見える木製桁橋と思われる橋は、澱川橋といって明治35年の竣工だそう(参考:『おとらのしっぽ(古絵葉書の風景)』)ですから、それ以降の撮影と推察されます。また一つ前のものとくらべると、公園造成前の大川が、いかに河道が広かったかも実感できますよね。

ありがたいことに川蒸気が手前にとらえられ、細部まで観察できますね。漁舟が大きな四手網を掲げた横を、外輪特有の断続的な水しぶきを上げて力走する雄姿!
大きく反った船体、屋根上に前後2カ所突き出たモニター状の構造物、船首側は操舵室で間違いないでしょうが、船尾側のそれは何だったのでしょう。そして、恐らく筏を曳いているのだと思われますが、船尾妻板上から曳索が伸びているのも看取できますね。

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(大阪名所)毛馬閘門
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


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毛馬閘門を出閘するシーンを、下流側からとらえたもの。お気づきかと思いますが、被写体としての川蒸気が、だんだん近くなってくるような順に並べてあります。ただ残念ながらこれは、仕上がりがだいぶ不鮮明ではありますが‥‥。

実際にそうなのか、レンズの関係でそう見えるだけなのかはわかりませんが、船体の反りがもの凄くないですか? つねに機関の重量がかかる中央部が沈み、前後が浮き気味になって逆「へ」の字に凹むのは、他地方の外輪川蒸気でも見られますが、今まで目にした中でも、この写真が一番強烈でした。

開扉を待ち構えていた和舟群が、川蒸気の出閘を待ちきれない体で、ゲートへ押し寄せてしまっていますね。船長や乗り組みさんも、さぞ難儀したのではないでしょうか。淀川本流の伏見から長途10里を走り抜き、大阪の街場へ帰還して一息ついた光景と考えれば、また別の感慨があろうというものです。

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(大阪名所)毛馬閘門
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


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いや、この絵葉書に出会えたときは、ついに真打登場! と快哉を叫んだものでした。今までのものは川蒸気が遠くにあって、ディテールも判然としなかったのにくらべて、まあこの近さったら。タイトルは毛馬閘門ですが、「これは明らかに、川蒸気を主題としてカメラを向けたに違いない!」と、カン違いさせるほどのインパクトがあったのです。

場所は一つ前と同じく毛馬閘門ながら、視点は上流側(淀川本流)から閘門ゲートと洗堰を望む場所に立っており、右の荷舟たちと通閘待ち中なのがわかります。左舷後部、甲板室上で竿を突く乗り組みさんの背丈とくらべてみても、国内の川蒸気の中では割と天井高のある、カサ高なつくりなのがわかりますよね。

しかし、改めて間近で眺めてみると、別の感想も湧いてきました。船尾いっぱいに立ち上がった妻板は切妻で、加えて甲板室の周りに回廊が設けられていないこともあるのか、容積はたっぷりありそうですが余裕のない感じ。また窓も壁面に比して小さめなことも手伝い、全体に少々重苦しい印象です。

数少ない、手持ちの絵葉書のみで断じるのはよくありませんが、私の目に映った限りでいうなら、淀川の川蒸気、遠目にも、また近寄ってつぶさに眺めても、とにかく「箱っぽい!」。他地方の川蒸気とくらべると、失礼ながら見るからに鈍重で、都会生まれの船らしからぬ、野暮ったさが目立つように思えました。またそれが、別のベクトルで魅力に感じられる部分もなくはないのですが!

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伏見觀月橋
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


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これは大阪周辺から離れ、ぐっと遡上して淀川汽船航路の終点近く、伏見にある観月橋を写したもの。初代観月橋は明治6年竣工だそうで、見てのとおり洋式の鉄製橋とくれば、珍しがられ絵葉書の題材となったのも、うなずけるところです。

川蒸気ですが、橋脚がかぶっているのが惜しいものの、曳船タイプの船が波を蹴立てて力走しているのがとらえられていて、ダイナミックな魅力を放つ一枚となっていますね。
先ほどの妄想の続きになりますが、ほぼ正横からの視点のため、船尾側だけでなく、船首側もフラットになっているのがわかります。これで甲板室を船首側は操舵室前端の線で、船尾側は缶室後部で切断し、曳船に改造したことがハッキリ見て取れたゾ!‥‥と、根拠のない思い込みを確かなものにしました(笑)。

これまで掲げた写真でもおわかりのように、「箱っぽい」全体のつくり、操舵室を一段高いところへ持ってくるレイアウト、歯車状の装飾を側面に施した外輪カバーと、細部は違っても必ず踏襲してくる部分があり、一つの造船所で建造された匂いすら感じられたものです。あるいはこの特徴をもって「淀川型」と称しても、差し支えないかもしれませんね。

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浪速繁榮 東堀鉄橋圖
350×245mm 発行年月不詳。


最後は錦絵で締めくくりたいと思います。長い間鴨居にでも飾られていたのか、すっかり色がくすんでしまっていますが、手前に川蒸気が大きく描かれていたこともあって、例のごとくもう横っ飛びに購入。タイトルでもおわかりのように、現在の東横堀川に架けられた橋、高麗橋と橋詰界隈の賑わいを描いたものです。

この高麗橋は、国内3番目の錬鉄製橋で、明治3年9月の竣工。8径間の桁橋で全長72m、全幅6m。材質がそのまま愛称となり、「くろがね橋」、「かねの橋」と呼ばれて親しまれたそうです。昭和4年7月に、2代目のRCアーチ橋に改架されました。明治初期の大阪名所だけに、数多くの錦絵が残されている高麗橋ですが、川蒸気をともに描いたものは、珍しいように思えます。

この錦絵が、明治3年の架橋間もなくに発行されたとしたら、描かれている川蒸気は「鳩丸」、「水龍丸」のどちらかということになりますね。錦絵のこととて、描写の正確さはそう期待できないにせよ、写真で見られる川蒸気たち同様、“2階”を備えているのは興味深いところです。すでにして最初の2隻が、「淀川型」の特徴を備えていたら、いわばプロトタイプが明治一桁に求められることになります。

左側の“2階”にいる2人、よく見ると星形のハンドルらしいものを操作しているように描かれていますね(本記事冒頭、川蒸気部分のアップ参照)。もしかしたら星形のコレは舵輪で、2人は乗り組みさんなのかもしれません。右の3人は手持ち無沙汰な風ですから、乗客で間違いなさそうです。船の左には、ケイで囲った「淀川蒸氣舟」という、キャプションかシリーズ名か判別しがたいものと、「松岡」という銘らしいものも。版元か絵師名かわかりませんが、今のところ、手がかりになりそうなのはこれだけ。ご存知の方、ご教示いただければ幸いです。

ところで、川蒸気は大川筋を走っていたはずですから、この絵は中之島から土佐堀川越しに、東横堀川を見ていると考えてよいでしょう。ターミナルである八軒屋浜は、絵でいうとずうっと左にあることになり、実際に高麗橋を眺めて走るシーンがあったのかは、確証が持てません。ただ、錬鉄の橋と川蒸気船、当時最新のハイカラなモノであった二つを、我が大阪にあり、と一つの絵の中に並べて描きたかった絵師の気持ちは、大いに共感できるような気がするのです。


【参考文献】
鉄の橋百選 成瀬輝男 編 東京堂出版
写真で見る大阪市百年 財団法人大阪都市協会
水の都、橋の都 伊東 孝 編著 東京堂出版
明治以後に於ける淀川交通 宮本又次 「上方」第79号 昭和12年7月 
東大阪地域における河川と舟運について(その1) 天野光三・前田泰敬・二十軒起夫 第6回日本土木史研究発表会論文集
淀川を上り下りした舟のさまざま 「淀の流れ」第64号 平成14年3月 淀川資料館

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