上川丸の絵葉書が!

多数の川蒸気が就航していた利根川・淀川水系ならともかく、石狩川流域のそれはほんの数隻。確率からいっても、絵葉書があることすら期待できまい、と思っていました。ところが‥‥。
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訪ねたのは平成18年9月30日、実に13年前になりますが、北海道のこととてすでに秋風が吹き少々肌寒い中、駅から決して近くない江別河川防災ステーションに徒歩で向かい、上川丸をこの目で見たたときの感動は、今でもありありと思い出されます。
「河川防災ステーション」を名乗りながら、その実「石狩川近代舟運資料館」の印象が強く感じられた充実した展示と、無償でいただくのが申しわけなくなるような、図録といってよい立派なパンフレットの数々‥‥。

過去ログでも触れたとおり、ここに掲げた2冊「江別河川防災ステーション」(北海道開発局・江別市発行)、「川の道 石狩川の舟運物語」(石狩川振興財団発行)は訪問時にいただいたもので、今でも大切に保存しています。

●ここに掲げた2枚の上川丸の写真は、過去ログ掲載のものを転載したものです。いうまでもなくずいぶんな量の写真を撮ったのですが、この少し後外付けけハードディスクがクラッシュしてしまい、数年分の写真が失われてしまったので‥‥。
思い出話が長くなりました、川蒸気の就航河川としては北の最果て、隻数も少なく人口も希薄とくれば、まず写真絵葉書の題材として関心を呼ぶこともなかっただろうと、あきらめていました。ところが、一昨年のこと‥‥。

●(タイトルなし)宛名・通信欄分割なし、明治33年~明治40年7月の発行。
裏面罫下に「岩見沢紫明舘特製」の銘あり
●上川丸の写真だ!
まさか、手にできるとは思ってもいなかったので、いつものことながら踊りましたよもう。右上の書き込み「石狩川滊船上川丸樺戸月形出帆ノ光景」を信じるなら、樺戸集治監のあった月形村を出港しつつある情景、ということになります。
上川丸は外輪から水しぶきを上げて前進しており、船尾から舵が大きくはみ出しているのがわかります。後ろには筏か艀か判然としませんが、平たいものを曳航しているようです。その後ろ左端には、馬らしい動物を載せた渡船も見えますね。屈曲の内側に当たる陸上には、茅葺きでしょうか、何棟かの家屋があり、集落の存在を感じさせます。

●上川丸のアップ。ピンが少し甘いところはありますが、ダイナミックな航走姿を見事にとらえていることに感動。扉はすべて開放され、甲板上に立つ人々も軽装であることから、暖かい季節なのでしょう。乗り組みさんのほか、村人や集治監の関係者もいたに違いありません。
過去ログと重複しますが、上川丸のスペックを書き出しておきましょう。製造は石川島造船所。明治22年8月進水、昭和10年1月廃船。全長23.3m、全幅4.1m、出力24.2馬力、60総t。定員推定60名、うち乗組員推定8名(このあたり、文献によって数値に細かい違いがあることをお断りしておきます)。
●石狩川とその流域の舟運史については、ウェブ上にあるものではPDF「石狩川水運の歩み」が比較的まとまった記述で、汽船航路だけでなく渡船にも言及されており、ご一読をお勧めします。
石狩川の汽船航路は、入植者のライフラインとしても重要だったとはいえ、石炭輸送で収益を得る当初の目論見が、鉄道の早期開通によって潰えた後は、ほとんど集治監関連の需要で持っていたといってもいい過ぎではない、全国的に見ても特殊な航路でした。それすら早々に行き詰って、道庁からの補助金で運航を維持する“命令航路”となり、その命令航路も昭和9年に廃止、陸路への転換がはかられてゆくわけであります。

興味深いのは、差出人欄が社判で「札幌郡江別町 石狩川滊船合資會社 山口源二郎」! 何と、上川丸の運航会社に勤める人物だったとは。「藤田元良次男」の注記から想像するに、藤田氏が倅さんである山口氏に、会社作成の葉書を分けてもらい、年賀状として出したといったあたりでしょうか?
●国内唯一の復元川蒸気として、貴重な存在である上川丸、その現役時の雄姿をとらえた写真を手にできた嬉しさは、大きなものがありました。これからも永く北の大地に在って、川蒸気好きの心に灯をともし続けてほしいものです。

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