「源森川」に道草…1
(『分水路まつり覚え書き』のつづき)
●「分水路まつり」をガマンしきれず先にやってしまったので、前後しますがご勘弁ください。
古川を出た後、思ったより早く柳橋(神田川河口)に着いてしまい、D君との約束の時間まで余裕があるのに気をよくし、さらに隅田川を遡上して、浅草は花川戸橋梁下流にある、北十間川西口まで来てしまいました。以前、一度紹介したことがある川ですが、奥の写真を撮り忘れていたので、改めて訪ねてみようと思ったのです。
もっとも、寄り道にしては調子に乗りすぎたようで、事実、約束の時間には少し遅れてしまいました。D君、ごめんなさい…。
●源森川水門をくぐりながら、ふと上を見上げると、おや、信号の灯器がLEDになっていますね。道路の信号にも、まだ白熱球のものが少なくないというのに…いつ取り替えたのでしょうか。他の水門も、今度から確かめてみようっと。
ここ、現在は北十間川の一部になっているのですが、もとは源森川と呼ばれていました。水位低下化河川である、北十間川の東半部とは、北十間川樋門を隔てて完全に分断されているのですが…。管理上、仕方がないのでしょうか。
水門のみ「源森川」の名が残るのは、お花見の名所・大島川(現大横川)と似ていますね。ちなみに開鑿は寛文3年(西暦1663年)、源兵衛堀とも呼ばれたそうです。
●隅田川東岸地域では、珍しいコンクリートアーチ、枕橋(A.P.+4.3m、昭和3年竣工)のしっとりとした姿。
親柱は、かつてこの地にビール工場があったことにちなんで、ビヤ樽を模したのでは…と言う説もありますが、そのくびれ方はおよそ、コーラのビンが似つかわしい雰囲気。右側、東武線陸橋の、石造りの橋台部や古風な架線柱とよく調和し、昭和初期の香りが楽しめる一画です。
●枕橋のアーチの下にもやっていた船を見ていたら…うほほ、これはまたイイ感じに異形のフネが。
本来はもっと全長があったのを、再利用するためブツ切りにしたのか、それともむりやり継ぎ足して、干舷を高くしたのか…。いずれにせよ、不安定極まりないアンバランスさに惹かれました。
●左手には、高架下建築を収めた東武線が寄り添い、岸は低めの石垣護岸。右側には屋形船の船溜…と、観光客で賑やかな浅草の間近とは思えない、明朗でのどかな水路風景です。
手の届きそうな位置に地面のある、この目線の高さも、水位の低い北十間川とはまったくおもむきの異なる部分で、やはりここは「源森川」と呼んであげたい気分になります。
【撮影地点のMapion地図】
(21年5月3日撮影)
(『「源森川」に道草…2』につづく)

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古川を出た後、思ったより早く柳橋(神田川河口)に着いてしまい、D君との約束の時間まで余裕があるのに気をよくし、さらに隅田川を遡上して、浅草は花川戸橋梁下流にある、北十間川西口まで来てしまいました。以前、一度紹介したことがある川ですが、奥の写真を撮り忘れていたので、改めて訪ねてみようと思ったのです。
もっとも、寄り道にしては調子に乗りすぎたようで、事実、約束の時間には少し遅れてしまいました。D君、ごめんなさい…。

ここ、現在は北十間川の一部になっているのですが、もとは源森川と呼ばれていました。水位低下化河川である、北十間川の東半部とは、北十間川樋門を隔てて完全に分断されているのですが…。管理上、仕方がないのでしょうか。
水門のみ「源森川」の名が残るのは、お花見の名所・大島川(現大横川)と似ていますね。ちなみに開鑿は寛文3年(西暦1663年)、源兵衛堀とも呼ばれたそうです。

親柱は、かつてこの地にビール工場があったことにちなんで、ビヤ樽を模したのでは…と言う説もありますが、そのくびれ方はおよそ、コーラのビンが似つかわしい雰囲気。右側、東武線陸橋の、石造りの橋台部や古風な架線柱とよく調和し、昭和初期の香りが楽しめる一画です。

本来はもっと全長があったのを、再利用するためブツ切りにしたのか、それともむりやり継ぎ足して、干舷を高くしたのか…。いずれにせよ、不安定極まりないアンバランスさに惹かれました。

手の届きそうな位置に地面のある、この目線の高さも、水位の低い北十間川とはまったくおもむきの異なる部分で、やはりここは「源森川」と呼んであげたい気分になります。
【撮影地点のMapion地図】
(21年5月3日撮影)
(『「源森川」に道草…2』につづく)

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