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満願寺閘門の絵葉書

23年8月10日に訪ねた、小阿賀野川流頭部にある満願寺閘門(『満願寺閘門…1』以下のシリーズ参照)。ずいぶん前に、竣工時間もない時期の撮影と思われる、昔の絵葉書を入手しました。

ははあ、竣工当初はローラーゲートでなく、マイタゲートだったのか。ゲートの上に土盛りは見えないから、堤防の増高が行われる前はこんな風だったんだなあ。法面の護岸は、今とあまり変わりがないような‥‥。などと、月並みな感想を脳内で巡らせながら、閘門の絵葉書を入手できたことを、ごく単純に喜んでおりました。

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新津町小阿賀之川閘門(東洋館製)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


おや、と思ったのは、最近この絵葉書を再び取り出して、訪問時の写真(下)と見くらべたときのこと。ゲートの擁壁が露出している長さから考えると、明らかに昔より、閘室の幅が狭くなっているような。護岸も高くなっています。

満願寺閘門…4」で紹介した説明板「満願寺公園案内図」によれば、「本川堤防の嵩上計画及び旧施設の老朽化により、昭和45年から改築に着手し昭和48年3月に完成」したとあります。文字通り素直に受け取れば、在来の閘門をそのまま“近代化改修”し、今の姿になったと解釈できるでしょう。

ここでふと、疑問が生じました。ゲートを新しく造り替え、閘室の幅が変わるような大改修の間、通航は完全に途絶していたのでしょうか? 昭和40年代、まだまだ通航量はあったはずですから、それはちょっと考えづらい気がします。

むしろ、「旧施設」で通航を維持しながら、それこそ隣接地にでも新しい閘門を造り、その竣工後に「旧施設」を廃止するのが自然な動きのはずです。

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ウェブ上に何か、そのあたりがわかる資料はと検索したところ、「満願寺閘門と小阿賀樋門」(阿賀野川河川事務所)がヒット。それによれば、昭和3年3月に「初代満願寺閘門を設置」とありました。

えっ、「初代」? 同位置で改修増築しただけなら、わざわざ初代とは書かないような。やはり現閘門は、一から新築されたものなのかしら? ちなみに「運河と閘門」(日刊建設工業新聞社)の巻末リストでも記述はほぼ同様で、違いは“初代”閘門が「小阿賀閘門」と名付けられていたこと、「門扉型式」の項目で「初代は鉄製合掌扉」の2点でした。

手元に決定的な資料もないので、ここは国土変遷アーカイブにおすがりするしかないと、祈るような気持ちで(大げさだな)満願寺閘門付近の空中写真を検索。

残念ながら、工事中である昭和45~48年のものはなかった(泣)のですが、それならばと、“改築”前の昭和37年と、竣工後である昭和50年のものをお借りして、見くらべてみることにしました。

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MCB621-C24B-10」(昭和37年5月11日撮影)。マイタゲートも判別できるし、何よりコーレンボウとおぼしき、細身の和船が閘室内外にみっちりなのが嬉しい、舟運が元気だった時代の姿。

さて、“改築”間もない、昭和50年とくらべてどうでしょうか。

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CCB7510-C16-39」(昭和50年11月12日撮影)。護岸の色も真新しい、竣功2年後の閘門。見くらべてみると、閘室の阿賀野川への取り付け角が浅くなっているのがまず一つ。閘室南岸の道が移動していないとすれば、現閘門は旧閘門の北側に新設され、旧閘門は廃止後埋め立てられて、そこに現在の公園が造成されたように見えたのですが、いかがでしょうか。

しかし、こうして高空からの視点で眺めただけでも、「改修」という言葉から感じる小工事の印象とは、真逆のものだと思いました。特に閘門・樋門周辺の造成は原形をとどめないほどの、大工事だったことが理解できます。

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というわけで、決定打には欠けるものの、満願寺閘門は、「先代」旧小阿賀閘門の隣接地に、新たに開鑿・建造されたものと推察しました。何ともお恥ずかしい話ではありますが、一つお利口になった(?)と思えば、絵葉書さまさまといったところです。

【29年11月28日追記】
申しわけありません、「アルス「河川工学」に涙する」で掲げた「閘門主要寸法」に、小阿賀閘門の寸法が載っていたのをすっかり忘れていました‥‥。リンク先をご覧ください。

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タグ : 満願寺閘門閘門絵葉書・古写真小阿賀野川