中川口閘門…1
(『堀川口防潮水門…4』のつづき)
●次に目指したのは、中川運河南端。いわずと知れた、名古屋を代表する運河の玄関口であります。目的地は西岸なので、どこかで運河を渡らなければならないのですが、迷わず第一橋である中川橋をえらびました。
中川橋は、運河開鑿に合わせ昭和5年に竣工した美しい鋼タイドアーチ橋ですが、橋を横にずらせて活かしつつ、橋台の更新をするという数年来の大工事中。
今年2月、新橋台の工事がようやく成って、元の位置に納まったばかり。まだ開通はしておらず、引き続き下流側に設けられた仮橋が、道路として供されていました。

●西岸のテラスから見たところ。まだ真新しい、真紅の塗装が目に沁みるよう。やはり橋や水門は、赤系の色に限りますねえ。ここまで手間をかけて、昭和初期の橋を現役に留めるところが素晴らしいです。背景に見える大観覧車は、臨海部の遊園地「シートレインランド」のもの。運河や閘門が一望できそうですね、後で行ってみましょう。
工事については、「中川橋(中川運河)架け替え工事」(『アレコレコレクション』さんより)が、この5年間の様子を豊富な写真で記録しておられ、一見の価値あり。
●中川橋を眺めている同じ位置から、180度向きを変えると、北側はるか向こうに見えるのが第三の目的地、中川口閘門! いや~、積年の念願かない、ついに訪ねられたと感慨もひとしおです。
せっかくですから、久しぶりに「運河論」(矢野剛著・昭和10年)をひもといて、「第十款 中川運河」の項目より、少し引用させていただきましょう。漢数字の使い方は原文ママです。
●「本運河は大正一三年一一月都市計畫事業として開設確定し、運河法に依る免許を受け、名古屋市に於て大正一五年度から起工し、昭和七年一〇月一日竣功し、同年一二月二〇日から開通して居る。」
諸元が列挙されている中から一つ、興味深いのは料金設定。
「閘門通航料‥‥船舶一入河に付噸數に依るものは一噸に五銭以内、石數に依るものは一〇石まで毎に八銭以内、間數に依るものは一間に付八銭以内」
このころは、和船式の積載量である「石」や、間尺で容積を示す艀が多かったことをうかがわせ、惹かれるものがあります。
●中川運河は、名古屋港で瀬取りした艀を、直接笹島貨物駅隣接の船溜まで乗り入れさせ、併せて沿岸に製造業・物流業を誘致し、商工業地帯としての発展を図るものでした。つまり、鉄道と舟運の効率的な結節が目的の一つだったわけです。
関東にも、近い性格の新規開鑿運河がありました。京浜工業地帯の草分け的埋立地である安善町・末広町から、京浜電鉄(現京浜急行)の八丁畷駅までを結んだ川崎運河(大正11年竣工、延長1350間=約2.5km)です。過去ログ「京浜運河を散策する…2」でも少し触れましたが、大半は埋め立てられたものの、現在その一部が旭運河となって残っています。

●さて、テラスをずんずんと肩をいからし鼻息荒く北上し、ほど良いところでぐっとズームして、ゲートをアップで一枚。扉体直上に管理橋が渡され、その上に機側運転室らしいボックスを重ねている独特の風貌。信号が位置的に前照灯のようで、どこかラッセル車を思わせる面構えだなあ、というのが第一印象でした。
ちなみにこの閘門、運河竣工当初からのものではありません。このシリーズの冒頭でも紹介した「中川運河」にも述べられているように、「中川口第二閘門」として昭和38年に竣工したもの。元からあった第一閘門は平成3年に廃止、跡地に中川口ポンプ所が設けられ、現存していません。

●閘門からぐっと右端まで振って、排水機場のゲートらしい部分を同じくアップで。この7径間あるアーチの部分は、どうやら竣工当初からのもののようですね。昔の絵葉書や史料がいくつか手持ちであるので、後ほどまとめて掲げ、現在の写真と比較して楽しんでみましょう。
左端に見える「放水注意」の看板が、黄色いランプを交互に点滅させていたので、排水機場が運転していたのかもしれません。
【撮影地点のMapion地図】
(29年5月3日撮影)
(『中川口閘門…2』につづく)

にほんブログ村

中川橋は、運河開鑿に合わせ昭和5年に竣工した美しい鋼タイドアーチ橋ですが、橋を横にずらせて活かしつつ、橋台の更新をするという数年来の大工事中。
今年2月、新橋台の工事がようやく成って、元の位置に納まったばかり。まだ開通はしておらず、引き続き下流側に設けられた仮橋が、道路として供されていました。

●西岸のテラスから見たところ。まだ真新しい、真紅の塗装が目に沁みるよう。やはり橋や水門は、赤系の色に限りますねえ。ここまで手間をかけて、昭和初期の橋を現役に留めるところが素晴らしいです。背景に見える大観覧車は、臨海部の遊園地「シートレインランド」のもの。運河や閘門が一望できそうですね、後で行ってみましょう。
工事については、「中川橋(中川運河)架け替え工事」(『アレコレコレクション』さんより)が、この5年間の様子を豊富な写真で記録しておられ、一見の価値あり。

せっかくですから、久しぶりに「運河論」(矢野剛著・昭和10年)をひもといて、「第十款 中川運河」の項目より、少し引用させていただきましょう。漢数字の使い方は原文ママです。
●「本運河は大正一三年一一月都市計畫事業として開設確定し、運河法に依る免許を受け、名古屋市に於て大正一五年度から起工し、昭和七年一〇月一日竣功し、同年一二月二〇日から開通して居る。」
諸元が列挙されている中から一つ、興味深いのは料金設定。
「閘門通航料‥‥船舶一入河に付噸數に依るものは一噸に五銭以内、石數に依るものは一〇石まで毎に八銭以内、間數に依るものは一間に付八銭以内」
このころは、和船式の積載量である「石」や、間尺で容積を示す艀が多かったことをうかがわせ、惹かれるものがあります。
●中川運河は、名古屋港で瀬取りした艀を、直接笹島貨物駅隣接の船溜まで乗り入れさせ、併せて沿岸に製造業・物流業を誘致し、商工業地帯としての発展を図るものでした。つまり、鉄道と舟運の効率的な結節が目的の一つだったわけです。
関東にも、近い性格の新規開鑿運河がありました。京浜工業地帯の草分け的埋立地である安善町・末広町から、京浜電鉄(現京浜急行)の八丁畷駅までを結んだ川崎運河(大正11年竣工、延長1350間=約2.5km)です。過去ログ「京浜運河を散策する…2」でも少し触れましたが、大半は埋め立てられたものの、現在その一部が旭運河となって残っています。

●さて、テラスをずんずんと肩をいからし鼻息荒く北上し、ほど良いところでぐっとズームして、ゲートをアップで一枚。扉体直上に管理橋が渡され、その上に機側運転室らしいボックスを重ねている独特の風貌。信号が位置的に前照灯のようで、どこかラッセル車を思わせる面構えだなあ、というのが第一印象でした。
ちなみにこの閘門、運河竣工当初からのものではありません。このシリーズの冒頭でも紹介した「中川運河」にも述べられているように、「中川口第二閘門」として昭和38年に竣工したもの。元からあった第一閘門は平成3年に廃止、跡地に中川口ポンプ所が設けられ、現存していません。

●閘門からぐっと右端まで振って、排水機場のゲートらしい部分を同じくアップで。この7径間あるアーチの部分は、どうやら竣工当初からのもののようですね。昔の絵葉書や史料がいくつか手持ちであるので、後ほどまとめて掲げ、現在の写真と比較して楽しんでみましょう。
左端に見える「放水注意」の看板が、黄色いランプを交互に点滅させていたので、排水機場が運転していたのかもしれません。
【撮影地点のMapion地図】
(29年5月3日撮影)
(『中川口閘門…2』につづく)

にほんブログ村
コメント
コメントの投稿
« 中川口閘門…2 l Home l 堀川口防潮水門…4 »