「参宮丸」船隊? の面影を拾う

201054.jpg東京通運時代の河川航路図二題」で紹介した、鹿島参宮鉄道の汽船「参宮丸」の絵葉書を目にしてから、あっ、アレはもしかして‥‥と、思い当る件がいくつか出てきました。

以下はほんのメモ書きですが、以前掲げた絵葉書から再掲しつつ、備忘録としたいと思います。

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まずは「参宮丸」の絵葉書を再掲。「水郷汽船史」によれば、この他に2番船「霞丸」(8.57t・定員22人)、3番船「鹿島丸」(50.5t・定員98人)と3隻を、昭和2年5月から6月の間に、相次いで就航させたとのこと。1番船の名を取って、ここでは仮に参宮丸船隊と呼ばせていただきましょう。

一隻づつ大きさが異なるのも興味深いですね。ちなみに営業開始は同年5月17日だったそうですから、最初は2隻体制だったことがわかります。さておき、この写真を見た瞬間、「ありゃ、これに似た船、見たことがあるなあ!」と、ハッとしたわけです。

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下と2枚、「土浦のマイタゲートと川口港」より、トリミングして再掲。

↑これとか。

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↑これとか。

「通運丸か銚子丸かはわかりませんが、かつての川蒸気を改造した、いわばなれの果て」などと妄想を開陳していたのが、ちょっと恥ずかしいな。お詫びして訂正します。水郷汽船生え抜きの新造船でないとはいえ、昭和に入ってからの就航で、当時としては船齢も若かったのですから、きっと大いに活躍したに違いありません。

「霞丸」はぐっと小型ですから、上の並んだ2隻は「参宮丸」「鹿島丸」とみてよいと思いますが、いかがでしょうか。煙突の太さや船体規模からして、手前が「鹿島丸」、奥が「参宮丸」ではと考えています。同じ理由で、2枚目の後ろ姿も「鹿島丸」ではないでしょうか。

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横利根閘門の絵葉書六題」より、トリミングして再掲。

↑これも。

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さらに、水郷汽船発行の航路案内(落書きと切り貼り補修、欠落があったりして、あまり状態がよくありませんでした。ちなみに発行は昭和7~8年ごろ11年以降と推定)を見ていたら‥‥。そう、右端に小さく、斜めになった写真の中に!

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↑こんなところにも。

右から3隻目、大型新造船「さつき丸」「あやめ丸」の陰で肩身狭そうではあるものの、それらしき船影がバッチリ。こうして写真を見るかぎり、大型船2隻は別格として、主力船隊の一隻であったことには違いなさそうです。

鹿島参宮鉄道の神宮連絡の夢はかなわず、「ドック」(船溜)まで築造した浜~大船津間航路も、水郷観光汽船設立間もなく早々に減便され、早くも昭和7年ごろ廃止されたとのことです。しかし、川蒸気スタイルを色濃く残した参宮丸船隊が、第二の職場で後年まで元気に走っていた様子に気づかされて、どこか救われた気持ちになったものでした。

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連絡汽船發着所(鹿島町) (鹿島参宮鐡道株式會社)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


「参宮丸」の絵葉書は袋入りの4枚セットで、汽船が写っているものがもう一枚ありますから、ここでご紹介。鹿島神宮の浜鳥居がある、大船津での光景を写したものです。もっとも汽船はご覧のように、ごく小さくですが‥‥。というわけで、思い切り拡大してみましょう。

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船尾に旗を掲げ、ひょろ長い煙突から白煙を吹き上げている、沖合はるかにおぼろげに映る船影。甲板上に立つ人物の様子から見て、「参宮丸」のトライアル中の光景でしょうか。鉄道の延伸がままならない中、内水航路での連絡に望みを託し、その一歩を踏み出したころの雰囲気が垣間見えます。

そうそう、鉄道会社が内水航路を運航し、路線の不便さを補った例がすぐ近く、大洗の水浜電車(後の茨城交通水浜線)にもあったのでしたっけ。涸沼川を走った定期航路として、大いに興味を惹かれる存在ですよね。こちらも近々、改めて紹介できればと思っています。

【29年4月15日追記】「水郷神詣略図」の発行推定時期を、「昭和11年以降」と訂正しました。理由は水郷大橋が描かれているためです。旧水郷大橋の開通は昭和11年3月。「横利根閘門遊覧…4」参照。

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タグ : 川蒸気船 絵葉書・古写真 霞ケ浦 土浦 横利根閘門 閘門

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