東京通運時代の河川航路図二題

201027.jpg通運丸船隊を続々就航させ、関東の河川航路に覇を唱えた内国通運も、時代の流れには勝てず、大正8年12月に川汽船事業から撤退。東京通船株式会社がその後を引き継ぎました。

お題の東京通運株式会社は、東京通船が昭和4年に改称したものです。縮小相次ぐ最末期の河川航路を担った、いわば関東の川汽船時代に、自ら幕を引かざるをえなかった企業といえるでしょう。

そんな「悲劇の船社」のイメージがある、東京通運の銘が入った航路案内を二つ掲げてみました。長距離河川交通のたそがれに思いをはせつつ、妄想を交えあれこれと垂れ流させていただきます。
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題名なし
縦175㎜×横194㎜ (左辺に切断の痕あり)
発行年月不詳(昭和5年ごろ?) 「聯合事務所 東京通運株式會社船客部」の銘あり


水郷案内にしのぶ航路とフネブネ」には及ばないものの、霞ヶ浦・北浦まで含めた、水郷一円を鳥瞰した観光案内です。一見して気づいたのが、過去ログ「水郷案内のパノラマ地図」に載せた石橋旅館配布のものと、絵柄は全く同じこと。並べてよくよく見くらべてみたところ、東京通運の方が描線がシャープで、色遣いも鮮やかであることから、石橋旅館のものが版を流用して一部手を入れたか、刷本を原版として複製したものと思われます。

大正中期ごろ、他を圧倒してきた内国通運(東京通船→東京通運)・銚子汽船(昭和5年、別会社・銚子通運に汽船事業を継承)の「同盟航路」が貨客の減少により衰退すると、水郷には明治初めの川汽船黎明期を思わせるような、船社乱立が始まったのです。内水に恵まれながら、陸上交通の便が未だしの感があった当地に、関東における河川・湖沼航路の最後の輝きを見せた、「水郷観光の時代」が幕を開けようとした時期でもありました。

東京通運は別会社・水郷遊覧汽船(後の水郷汽船)を昭和6年に設立、同年に有名な鋼製大型客船「さつき丸」を就航させるのですが、この図はそれより少し前。神宮橋が昭和5年の竣工であることから、発行時期を推定しました。小回りの利く新興各船社に押されて、明治生まれの川蒸気たちが、苦しい防戦を強いられていたころと思ってよいでしょう。

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裏面も旅館配布のものと同様、料金表を含めた交通案内。恐らく四つ折りだったと思われる半分、右側が切り取られてしまっているのが惜しいですが、写真に「一番好きな通運丸」で掲げた絵葉書と、同じ写真が挿入されているのが嬉しくなります。きっと当時から、通運丸のベストショットとして知られていたのでしょうね。

さて、本題は表でなく、この裏側です。「聯合事務所 東京通運株式會社船客部」の表記があるのもさることながら、その「聯合」を組んでいる5社の社名の中に、「鹿島参宮鐵道船舶部」が入っていたこと!

鹿島参宮鉄道は昭和2年、自社の鉄道に接続する浜(現行方市)~大船津(鹿島神宮)間に航路を開設、「霞丸」「参宮丸」「鹿島丸」の汽船三隻を就航させ、同じく鹿島行き航路を運航してきた東京通運に、いわば真っ向勝負を挑んだ形になったのです。船隊の一隻、「参宮丸」の、恐らく就航時に撮影したであろう絵葉書がありました。↓これです!

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連絡汽船参宮丸(鹿島参宮鐡道株式會社)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


各部のディテールも看取できる、鮮明な写真に興味もいや増すものがありますね。客室こそ一層で、従来の川蒸気スタイルから脱していないものの、窓を大きく取ったあたりに、観光に軸足を置いた新味が感じられます。パドルボックスのない暗車船なのも、窓と併せて軽快な感じ。

操舵室を最上甲板中央に上げたスタイルは、橋による高さ制限のない、水郷の航路ならでは。「水郷汽船史」によると、3隻の第一船として昭和2年5月2日竣功。登簿トン25.94t、速度7マイル、定員2等10人、3等45人とのこと。速力のマイルは恐らく「哩」で、ノットと同義の「浬」ではないと思われ、哩なら11.85㎞、おおむね6.4ktですから、この手の川汽船の速力としては妥当と思います。

一挙三隻を霞ケ浦に浮かべ、水陸接続の浜には汽船用の「ドック」(修繕・造船用の船渠でなく、ここでは単なる舟入の意)まで設ける力の入れようだったものの、期待に反して業績は振るわず、早くも昭和6年末には、船舶部門を水郷遊覧汽船に譲渡、汽船事業から撤退してしまいます。

収入が運航経費を上回った年度は、終焉までついになかったようですから、もはやこの時期はのっぴきならなかったはずで、ライバルと「聯合」を組んだのもうなずけるところであります。上の航路図にも、浜~麻生天王崎~牛堀~潮来~大船津の航路が描かれていますね。ちなみに浜~大船津間の所要時は、2時間40分ほどでした。

東京通運から話がそれてしまいましたが、川汽船たちと各船社にとって、昭和の初めごろとはそんな、少々バタバタと落ち着かないような、時代の端境期であったといって差し支えないと思います。

観光に活路を見出して、水郷汽船による戦前の黄金期を迎えようとしていた下利根一帯はさておき、社名に冠された東京とその近郊は、この時期どんな航路があったのか‥‥。
昭和に入ってからの川汽船について触れた文献は、手持ちが少なくイメージがつかみ難かったのですが、以下の航路図に出会うことができて、その一端をかいま見ることができ、小躍りしました。

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東京地方新航路図
縦525㎜×横386㎜ 
発行年月不詳(昭和4~5年?) 東京通運株式會社 発行


地図としてはあちこちに「?」と首をかしげる部分はあるものの、航路図としては実に興味深いもので、刷色も美しく保たれ、状態は悪くありません。スキャナーで分割して取り込んだものを切り貼ったものですので、お見苦しい点はご容赦ください。いくつか気になったところを拾ってゆきましょう。

「新航路図」のタイトルからもわかるように、この図の主題は赤線で描かれた航路。右下枠内の「凡例」を見ると、赤線を指して「新計画航路」とあるのを訂正し「新許可航路」とされており、申請中に校了(もしくは刷了)したものに、認可が下りてから急遽加筆したらしいことが感じられます。あるいは、認可前に宣伝目的で、すでに配布されていたのかもしれませんね。

赤線の新航路を見てまず思い出されたのが、「渡船と一銭蒸気に思いをはせて」で紹介した、いわゆる一銭蒸気の航路。西永代~吾妻橋の隅田川汽船、吾妻橋~千住大橋の吾妻急行汽船、永代~鐘ヶ淵の東京巡航汽船の3船社と、この図の航路が重なっています。
3社は昭和7年時点の記録ですので、昭和4~5年にすべて存在していたかは確認していませんが、10分以下のヘッドで頻発するほど、需要があったいわばドル箱航路といってよいでしょう。

この時点では衰退著しい、中長距離航路を主に運航してきた東京通運にとって、船社ひしめいてなお需要のありそうな都大路への進出は、経営改善のため必須の施策だったのだろうなあ‥‥と妄想。「新航路」のみが強調され、在来の航路はきわめて簡略に描いたのみの図を見ていると、経営陣の思いが伝わってくるような気がしたものです。

ちなみに、図にもある行徳浦安航路、近郊路線として昭和に入っても結構な乗客数があったようですが、昭和5年、競合していた東京汽船に分離してしまいます。「青べか物語」にも描かれた、2船社が一番船の出航時刻を競い合う光景は、山本周五郎が浦安を離れた昭和4年の翌年、早くも失われたのでした。

話を「新航路」に戻しましょう。実は航路図を開いて、真っ先に目線が吸い寄せられたのがこれ!

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綾瀬川に川汽船の航路があったなんて!

いや、認可が下りただけで、実際に運行していない可能性もありますから、早とちりはできませんが、何度も訪ねた綾瀬川に定期航路が、しかも客船が走っていたかもしれないというだけで、たまらなく嬉しいものがあったのです。内匠橋(『綾瀬川再訪…7』参照)が終点だったんだ‥‥。
まだこのころは、東京に舟運で農産物を供給し、帰り荷として下肥を回収する農村地帯ですが、川による人や物の行き来は盛んだったので、汽船の需要ありと見込まれたのではないでしょうか。

図に点線で「新運河」として、現在の花畑運河(過去ログ『花畑運河を走る…1』ほか参照)がえがかれているのも、大いに興味がそそられる点です。
花畑運河は、遠回りだった在来河川による航路をショートカットし、激増する東京向けの通航量をさばくため大正時代に構想され、昭和2年着工、昭和6年に竣工、通船を開始しました。この図の描き方からすれば、運河竣工以前の発行であることは確実でしょう。

ウェブ上で読める綾瀬川舟航の概要は、平戸ルリ子・村上和雄両氏の詳細な研究「舟運史と環境からみた綾瀬川」(PDF)があります、ご参考まで。川汽船についても、大正14年に登場した農産物・下肥輸送の発動機船「綾瀬丸」について少ないながら触れられていますが、東京通運についての言及はありません。やはり、認可が下りただけで実現しなかったか、ごく短期間で撤退した航路だったのかなあ‥‥。

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航路でいま一つピックアップしておきたいのは、芝浦と月島からそれぞれ、第三・第六台場へ通うコースがあったことでしょう。今のアーバンランチを思わせる航路ですよね。お台場が東京市により、公園として整えられたのが昭和3年だそうですから、こちらは生活路線ではなく、観光航路ということになります。沿岸から間近に望まれ、「鉄道唱歌」などの歌詞にもおりこまれて親しまれたお台場、船でゆける身近な行楽地として、街場の人たちに人気を博したことでしょう。

上に少し見える「新航路」の一部も、築地市場の北東側、現在はない築地川南支川を通って、新橋まで乗り入れていたところに惹かれるものが。この図が発行されたころはすでに、震災復興橋である海幸橋(昭和2年竣工、現在は親柱のみ残されています)が架かっていましたから、タイドアーチのモダンな姿を仰いで、フネブネが出入りしていたに違いありません。

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さて、この「新航路」には、どんな船が走っていたのでしょうか。以下妄想すると‥‥。描かれた航路を通しで走る便が多かったとすれば、綾瀬川や築地川南支川といった、狭水路といってよい河川が含まれます。

とすると、大ぶりな従来の川汽船では、小回りがきかず適さないでしょう。まず写真(過去ログ『永島丸の写真』より再掲)のような、曳船が客用艀を曳く、一銭蒸気のオーソドックスなスタイルか、小型の発動機船(『もう一つの河川航路ガイドブック「利根川勝地案内」』の写真参照)を、選ばざるをえなかったのではないでしょうか。小型発動機船については、総トン数9tから10数tクラスの通運丸数隻が、東京通運所有として記録されています。

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航路図の裏面に刷られた、表紙に当たる部分は広げた状態で195×216㎜。裏面の絵柄はこれだけで、他は真っ白です。時刻表、料金表のたぐいが一切ない航路案内というのも、ちょっと意外な感じがしましたが、「新航路」の宣伝にのみ的をしぼったと取れなくもありません。まだ運航ダイヤが組まれていない時点で、発行に踏み切ったとも考えられます。

しかし、鳥(カモメ?)を図案化した絵柄といい、色遣いといい、昭和モダニズムの香りが濃厚に感じられますね。稚拙な描写ながら、きちんと通運丸が外輪川蒸気のスタイルで描かれているあたり、長年看板としてきた船影を大切にしているさまがうかがえて、どこか微笑ましいものがあります。

最後に、かつての花形であった利根川航路について、いくつか触れたいと思います。航路図の凡例を見ると、「利根川航路」は、黒の破線で描かれたものを指していますね。
始点は両国橋西詰の原発場‥‥そこから隅田川の上流と下流へ二股に分かれ、それぞれを目で追ってゆくと、一本は遡上後、旧綾瀬川を抜けて荒川を下り、もう一本は隅田川派川から海へ出て、荒川を遡り新川へ入っているのです! 

利根川航路に限って、なぜ、このような大迂回ルートを取ったのか? また、なぜ旧綾瀬川経由と、沖合経由があるのか? 以下、ふたたび妄想です‥‥。

現在の姿からは想像もつきませんが、当時の小名木川は沿岸に工場が立ち並び、艀輸送を利用する企業も数多くありました。近郊各河川からの通航便も含めると、常に輻輳、渋滞していたことは想像に難くありません。
小名木川に寄港地のある行徳航路はともかく、長躯下利根流域を目指す長距離便は、船体が大型ということも手伝い、混雑した狭水路は、定時性確保のためにも極力避けたいはず。また性格上、市内区間を無寄港としても差し支えなかったのでしょう。現代の通勤電車が、急行や快速に都心近くの駅を飛ばさせて、郊外を各停にするのと同じ発想が感じられます。

それに、航程の長さから考えれば、一見もの凄い迂回に思えるコースも、全体からするとほんの僅かにすぎません。むしろ、速力を出せる大河川や海面であることから、混雑した小名木川を徐航しては止まりを繰り返し、水夫を動員して棹を突きつつすり抜けたりしているよりは、手間もかからないため、仮に多少の時間増があったとしても、目をつぶったのではないでしょうか。

二つのコースがある点については、恐らく天候や季節風に応じて、安全な方を選択していたということでしょう。南風が卓越する夏の前後の時季は、湾奥海面は荒れるため遠回りでも旧綾瀬川~荒川コースを通り、冬の北西風が強い季節は、沿岸航路を取っても危険はなく、旧綾瀬川経由よりはだいぶ近道でもあります。

「水郷汽船史」によると、銚子~東京間は大正13年まで一日2便、所要18時間であったところ、「汽車時刻表」昭和2年2月号では一日一便に減便、所要20時間30分に大幅スピードダウン。昭和6年9月号ではさらに23時間と、航路の荒廃によるものか、汽船の老朽化が原因かはわかりませんが、昭和に入ってからの落魄ぶりは痛々しいほどで、文字どおり時代に取り残された感があります。

ちなみに、利根川航路の廃絶は諸説あり、「水郷汽船史」では証言などから昭和6~7年と推定。「川の上の近代」では、残された運賃表から昭和9年ごろかとされていますが、終焉については明らかになっていないようで、今後の研究に待つしかないようです。もっとも利根運河が、昭和16年7月22日の台風で被害を受け、通航できなくなってしまいましたから、それ以前であることは間違いないところでしょう。

流域の人々に鮮烈な記憶を残しながら、その最期すら杳として知れず、フェードアウトしていった利根川航路! その最末期ともいえる時代の航路図に出会えたこと、内国通運の衣鉢を継いだ、東京通運の苦衷がかいま見られたこと、水運趣味者として冥利に尽きることではあります。ほろ苦くも楽しい、川汽船時代のたそがれに思いをはせられたひとときでした。

参考文献
水郷汽船史 白土貞夫・羽成裕子 共著 筑波書林
あの船この船 回想の船影を追って 石渡幸二著 中公文庫
図説・川の上の近代 ―通運丸と関東の川蒸気船交通史― 川蒸気合同展実行委員会 編
都市紀要35 近代東京の渡船と一銭蒸気 東京都公文書館 編 東京都情報連絡室 発行
新版 利根運河 北野道彦・相原正義 共著 崙書房

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タグ : 川蒸気船 通運丸 参宮丸 東京通運 一銭蒸気 絵葉書・古写真

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