富山港・知られざる閘門?!
●数日前のことです。昨年6月、富山訪問の際にお世話になった、松川遊覧船の中村珠太専務より、メールをいただきました。
さっそく開いてみると、酒田港訪問時の記事(恐らく『下瀬閘門跡を訪ねて』と思われます)を読んで、「ふと思い出した」ことがあり、メールをくださったとのことです。はて、何でしょうか?
●読み進むとまあ、驚くべきことが書いてありました!
要約すると‥‥。中村氏の著書「神通川の河川文化」(『松川遊覧船ふたたび…5』参照)で聞き取り取材をした、もと船頭さんの一人から聞いた話では、大雪で陸上交通が途絶した際、荷を積んだ舟で神通川本流の河口近くから、神通川と富山港の間に設けられた「水門」を通って、富岩運河に入った経験があったとのこと。
下瀬閘門の記事を読んで、この話を思い出された中村氏、国土地理院の空中写真を開き、終戦直後の富山港に、最上川~酒田港のそれとそっくりな位置に「水門」が存在していたことを確認、わざわざ知らせてくださったというわけです。
●中村氏は、ご親切に「水門」の位置を示す空中写真の複写ほか、資料を別便でお送りくださったのですが、船頭儀、もういてもたってもいられません。別便のファイルをダウンロードするより早く、富山の空中写真を横っ飛びに検索していました。

●興奮にハフハフしながら、昭和27年11月9日撮影の「USA-M192-2-60」を開くと‥‥。
あった! 富岩運河北口の西(赤矢印)、確かに切れ目のような部分が!

USA-M192-2-60(昭和27年11月9日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●閘 門 だ !‥‥よね?
何分不鮮明な空中写真、即断ははばかられますが、前扉室・後扉室としか見えない張り出しを持つその形、マイタゲートとしか思えません。‥‥いや、二重の角落しゲートという線も、捨てきれないかも(疑い深い船頭)。
西側のゲートは一見閉じているようですが、継ぎ目がなくツライチなところ、上下に伸びる道と軸線が合っていることから、ゲート上に設けられた道路橋と推察。
いや、全く知りませんでした! 富山第三の閘門(と早合点するのは危険ですが、違ったら後で訂正します!)があったなんて! 河川本流と、分離された河口港内の通船を図るという役割、港の奥部に位置するところも、下瀬閘門にそっくりなのがまた、興味をそそりますね!

MCB612-C31-30(昭和36年5月25日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●変遷を追ってみたくなり、近い年代の写真を探したものの、お次は昭和36年と、上の写真から9年を隔てたもののみでした。ご覧のとおり、早くも本流側が埋め立てられて、通船機能は失われていたことがわかります。
道路や橋が太くなっていることから、背割堤上の開発が進行していることもうかがえますね。

MCB702-C2-13(昭和45年5月22日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●さらに9年後、昭和45年には、もはや神通川高水敷の凹部と、埋め立てた跡が生々しい更地に面影を残すのみ。東側には岸壁が完成しているものの、倉庫や山積みした資材らしきものが、閘室跡を避けているあたり、まだ埋土が締まっていないのでしょう。

ホンモノのGoogleマップで富山港の閘門(?)跡付近を見る(上は単なる画像)
●そして現在、跡形もなし‥‥。道が曲がっている地点は動いていないようなので、位置は何とか特定できますが、下瀬閘門と同様の運命をたどったのは、一目瞭然であります。
●さて、未知の閘門を知ったとなると、名前や諸元が知りたくなるのは当然の流れ。とりあえず手持ちの乏しい資料を何冊かひっくり返してみたものの、言及したものはありませんでした。挿画に富岩運河・東岩瀬港の計画図は2つ見つかったのですが、いずれも描画なし。ううん、当初の計画に入っていなかったのか、それとも閘門でなく、単なる水門付きの通船路なのか‥‥。
ウェブ上はいわずもがなで、中島・牛島両閘門のビッグネームに意識が吸い取られて(?)いるのか、いくつかアップされている東岩瀬・富山港の開発史にも、この閘門に触れたものは見当たりませんでした。当時の官報にでも丹念に当るか、地元の図書館を訪ねて工事記録を探すかしないと、詳細を知ることは難しそうです。
水運・港湾関係者以外、まず訪ねることのない地先にあったこと、昭和30年代と早期に廃止されていたことも手伝って、研究者・趣味者の目に触れることがないまま、消えていったのであろうと妄想。中島閘門を動態保存し、牛島閘門復元を成し遂げた、土木史跡に理解ある土地柄、正体がわかるのなら、せめて跡地に説明板でも立てて、顕彰してあげたいものですね。
●ちなみに、ご当地の中島・牛島両閘門とも、近傍の地名を名乗っていることから、これがもし閘門であるなら、草島閘門(Mapion地図)と名乗っていた可能性が高かろうと、勝手に妄想して悦に入っています。当たっていたら嬉しいな!
というわけで、今のところは何もわからず、閘門であるかどうかすら確定できないのですが、その分想像力をかきたてられ、興味はいや増すものがあります。 懇切にご教示くださった中村氏に、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました!

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さっそく開いてみると、酒田港訪問時の記事(恐らく『下瀬閘門跡を訪ねて』と思われます)を読んで、「ふと思い出した」ことがあり、メールをくださったとのことです。はて、何でしょうか?
●読み進むとまあ、驚くべきことが書いてありました!
要約すると‥‥。中村氏の著書「神通川の河川文化」(『松川遊覧船ふたたび…5』参照)で聞き取り取材をした、もと船頭さんの一人から聞いた話では、大雪で陸上交通が途絶した際、荷を積んだ舟で神通川本流の河口近くから、神通川と富山港の間に設けられた「水門」を通って、富岩運河に入った経験があったとのこと。
下瀬閘門の記事を読んで、この話を思い出された中村氏、国土地理院の空中写真を開き、終戦直後の富山港に、最上川~酒田港のそれとそっくりな位置に「水門」が存在していたことを確認、わざわざ知らせてくださったというわけです。
●中村氏は、ご親切に「水門」の位置を示す空中写真の複写ほか、資料を別便でお送りくださったのですが、船頭儀、もういてもたってもいられません。別便のファイルをダウンロードするより早く、富山の空中写真を横っ飛びに検索していました。

●興奮にハフハフしながら、昭和27年11月9日撮影の「USA-M192-2-60」を開くと‥‥。
あった! 富岩運河北口の西(赤矢印)、確かに切れ目のような部分が!

USA-M192-2-60(昭和27年11月9日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●閘 門 だ !‥‥よね?
何分不鮮明な空中写真、即断ははばかられますが、前扉室・後扉室としか見えない張り出しを持つその形、マイタゲートとしか思えません。‥‥いや、二重の角落しゲートという線も、捨てきれないかも(疑い深い船頭)。
西側のゲートは一見閉じているようですが、継ぎ目がなくツライチなところ、上下に伸びる道と軸線が合っていることから、ゲート上に設けられた道路橋と推察。
いや、全く知りませんでした! 富山第三の閘門(と早合点するのは危険ですが、違ったら後で訂正します!)があったなんて! 河川本流と、分離された河口港内の通船を図るという役割、港の奥部に位置するところも、下瀬閘門にそっくりなのがまた、興味をそそりますね!

MCB612-C31-30(昭和36年5月25日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●変遷を追ってみたくなり、近い年代の写真を探したものの、お次は昭和36年と、上の写真から9年を隔てたもののみでした。ご覧のとおり、早くも本流側が埋め立てられて、通船機能は失われていたことがわかります。
道路や橋が太くなっていることから、背割堤上の開発が進行していることもうかがえますね。

MCB702-C2-13(昭和45年5月22日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●さらに9年後、昭和45年には、もはや神通川高水敷の凹部と、埋め立てた跡が生々しい更地に面影を残すのみ。東側には岸壁が完成しているものの、倉庫や山積みした資材らしきものが、閘室跡を避けているあたり、まだ埋土が締まっていないのでしょう。

ホンモノのGoogleマップで富山港の閘門(?)跡付近を見る(上は単なる画像)
●そして現在、跡形もなし‥‥。道が曲がっている地点は動いていないようなので、位置は何とか特定できますが、下瀬閘門と同様の運命をたどったのは、一目瞭然であります。
●さて、未知の閘門を知ったとなると、名前や諸元が知りたくなるのは当然の流れ。とりあえず手持ちの乏しい資料を何冊かひっくり返してみたものの、言及したものはありませんでした。挿画に富岩運河・東岩瀬港の計画図は2つ見つかったのですが、いずれも描画なし。ううん、当初の計画に入っていなかったのか、それとも閘門でなく、単なる水門付きの通船路なのか‥‥。
ウェブ上はいわずもがなで、中島・牛島両閘門のビッグネームに意識が吸い取られて(?)いるのか、いくつかアップされている東岩瀬・富山港の開発史にも、この閘門に触れたものは見当たりませんでした。当時の官報にでも丹念に当るか、地元の図書館を訪ねて工事記録を探すかしないと、詳細を知ることは難しそうです。
水運・港湾関係者以外、まず訪ねることのない地先にあったこと、昭和30年代と早期に廃止されていたことも手伝って、研究者・趣味者の目に触れることがないまま、消えていったのであろうと妄想。中島閘門を動態保存し、牛島閘門復元を成し遂げた、土木史跡に理解ある土地柄、正体がわかるのなら、せめて跡地に説明板でも立てて、顕彰してあげたいものですね。
●ちなみに、ご当地の中島・牛島両閘門とも、近傍の地名を名乗っていることから、これがもし閘門であるなら、草島閘門(Mapion地図)と名乗っていた可能性が高かろうと、勝手に妄想して悦に入っています。当たっていたら嬉しいな!
というわけで、今のところは何もわからず、閘門であるかどうかすら確定できないのですが、その分想像力をかきたてられ、興味はいや増すものがあります。 懇切にご教示くださった中村氏に、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました!

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