下瀬閘門跡を訪ねて
(『酒田港の官船2隻』のつづき)
●酒田港を訪ねた第一の目的は、最上川本流と酒田港の間にかつて存在した、下瀬閘門の跡をぜひ見ておきたかったからです。
この閘門を知ったのは、以前入手した古い絵葉書の写真から。この絵葉書こそ、私が最上川舟運を意識したきっかけでもあります。今回の小旅行は、この一枚から始まったといってもいい過ぎではありません。まずはその絵葉書からご覧いただきましょう。
【▼「続きを読む」をクリックしてご覧ください】

●酒田市 一、閘門 二、入船 三、釣(突堤)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●和船が続々と入閘するマイタゲートの閘門、大河を順風を得て下る、天地に帆桁を持った小舟の一群に、波浪で傾いたコンクリートケーソンの防波堤上で、釣りを楽しむ人々という3点を一枚に刷った絵葉書。
今思えば、改修成った新生酒田港の名物施設2件と、古来から続き当時なお盛んだった最上川舟運という、対照的な二題を一組に掲げた点に、作り手のメッセージが込められていたのだと思いますが、手に入れた当初は「酒田にも、こんな立派な閘門があったのか!」と興奮するばかりでした。

●(酒田市)水門 船場町
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●上のしばらく後に、同じ写真から焼かれた別バージョンを入手。こちらの方が、上のものではトリミングされていた部分も写っており、ディテールもより鮮明で嬉しかったものでした。
下は酒田港の岸壁風景で、もやう大小の曳船や、沖がかりする本船の姿も見えて、港が賑わっている様子が見てとれます。このときはまだ、閘門の名前も設けられた場所も知らず、なぜ港とセットで絵葉書にされるのかすら判じかねたものでした。この閘門が、実は酒田港整備の一環として造られたことを知ったのは、ずっと後のことです。

●上の絵葉書から、閘門の写真だけ楽しもうと大判で。閘室から見てゆくと、ゲート左右の壁面にはそれぞれ一対、繋留用チェーンが下がっているのがわかります。閘室の法面は少し仕上げの荒い石垣で、こちらは特に繋留設備はないようですね。
手前に数隻見える、地場独特のタイプらしい和船は、深い喫水や箱造りの船尾から、いかにも積載量がありそう。ちょうどゲートを通過している小舟は、細身でまた違ったタイプに見えますね。1枚目の絵葉書で、帆走している舟と同じ型に思えます。また帆柱を倒さずに通っているあたり、マイタゲートの長所が一目瞭然でよいものです。

ホンモノのGoogleマップで酒田港を見る(上は単なる画像)
●現在の酒田港は、中洲や浅瀬が点在していた最上川河口一帯を整理し、突堤と埋立地で河道と港域を完全に分け、岸壁の整備と浚渫で大型船の入港を可能にした一大工事によって成り、昭和7年に「河海分離」が竣工しました。下瀬閘門はその一環として造られたもので、上の写真の赤矢印がかつてあった位置です。
最上川を下ってくる荷舟は、物資の集積地である酒田市街を目指したわけですが、荷を下ろすいわば河岸地だったのが、酒田の中心部を貫流する新井田川(赤矢印の右上に見える小河川)。荷舟が新井田川に最短距離で入れるよう、新井田川河口の延長線上に閘門を設けたことが、地図からもわかります。
河道を整理・分離して造られた近代港湾施設に、既存の河川舟運ルートを活かすため設けられた通船設備という意味では、富山の富岩運河と、牛島閘門の関係に近いものを感じますね。

CT07614-C14-4より下瀬閘門付近をトリミング(昭和51年9月26日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●さて、この下瀬閘門、下の方で触れる説明板によると、現役だったかどうかは別にして、昭和57年までこの地にあったとのこと。ということは、カラーの航空写真も撮影されているはず‥‥と、国土変遷アーカイブを探してみたら、ありました。トリミングしたものを、上にありがたく掲げさせていただきます。
昭和51年、現役最末期といったところで、すでに航路を塞ぐように埋立地の拡張が始まっており、いかにもお役目御免といわんばかりの、もの悲しい雰囲気が漂う一枚ではありますね。それでも、マイタゲートの形状がはっきり見てとれ、本流側の高水敷は今なお形状を留めているあたり、興味深く拝見。
●そうそう、絵葉書の写真を撮った位置ですが、最上川の堤防上、閘室の南側と推定しました。
理由は、ゲートの高さより少し小高い位置から見下ろしており、堤防上と思われること、遠景に市街地が見えること、写真左端に大型の本船が停泊しており、バックの水面は本流でなく、港内と思われることからです。そう考えると、閘室内の水位が低いこと、荷舟たちがすべて空舟である(酒田で荷を降ろした後)ことも、しっくりと合点がいきました。
●話を戻して、Google航空写真やストリートビューを見ても、どうやら撤去は徹底して行われ、痕跡を探すのすら難しいであろうことは、じゅうじゅう承知していましたが‥‥。
酒田と最上川を意識したそもそもであり、最上川流域初(?)の近代閘門があった場所を、訪ねてみたい気持ちが強くあったのです。カケラくらい残っていないかしらと、淡い期待を抱きながら‥‥。

●最上川北東岸の堤防道をたどり、下瀬閘門跡地に到着。河口近くとあって、先ほど体験した急流とはうって変わった穏やかさと、雄大さを見せつける最上川!
目線を少し落とせばご覧のとおり、閘門跡には小さな樋門がちんまりと立ち、視界内にあるかつての名残りは、上流に向かって角度をつけた、高水敷の掘り込みのみという寂しさです‥‥。気をとりなおし、まずは現在のヌシたる、樋門から眺めてゆこうかいと、堤防の法面を降りることに。

●高水敷に積もった流木をバリバリと踏んで、痩せっぽちの樋門に近づいてみました。まあ、本当に小さいですね。左右の堰柱を合わせても、幅は1mあるかないか。スピンドルの巻上機は手動のみであることを見ても、動かす頻度の少なさが感じられます。
違和感を感じたのは、樋門の規模にくらべて、法面のコンクリート部分が、やけに広いこと。閘門がかつてあった名残の一つといえなくもありませんが、それが樋門の小ささを強調して、何やらユーモラスではありました。
まあ、高水敷が閘門のあった当時のまま、切り開かれていて水際に接している幅員があるのですから、致し方のないことではあります。

●側面に銘板が掲げられていました。名前は下瀬樋管、閘門の名をそのまま襲名したのですね。しかし、径間わずか0.7mに対して、延長124.2m! 堤防と埋立地を貫き、港内と通水している暗渠部分の長さがこの数字ですが、コンクリート敷きが広いのと合わせて、印象的ではありました。
ちなみに、下瀬閘門の寸法を書き出しておくと、閘室長は42m、ゲート径間5m、前扉高さ3.5m、後扉3.2m。昭和3年8月起工、同5年3月竣工とのこと(『運河と閘門』全国閘門一覧表より)。

●堤防上から港の方を眺めると‥‥‥‥ううむ、いかにも「カケラも残っていなさそう」な雰囲気に、ちょっと絶句。右手からは堤防道の立派な取り付け道路が伸びていて、左右も結構な盛り土が‥‥。望み薄でしょうが、とりあえずいってみましょう。

●しばらく周りをうろつきましたが、何も発見できませんでした。もしかしたら、石垣の一つくらい残っているかしら‥‥と期待していたので、残念でしたが、これで思い残すことはありません。
取り付け道路が地平に降りたあたりで、下瀬樋管の片割れ(?)を発見。こちらも簡素な巻上機器があるのみ。本当に通水しているのかなあ‥‥。

●取り付け道路の南側には、資材置き場がありました。岸壁にボルト留めするような、巨大なゴムフェンダーに惹かれます、ここも、痕跡はないかしらと外からしつこく眺めたのですが、しっかり舗装されているものね‥‥。あきらめて堤防上に戻りましょう。

●というわけで、撤去の徹底ぶりを実地確認いたしたわけですが、偲ぶよすがが何もないわけではありません!
堤防上には、ささやかながら立派な説明板が設けられていて、写真や図とともに下瀬閘門がここに在ったことを、しっかり顕彰していてくれているのです。状態から察して、設けられてからまだ数年と経っていないでしょう。下瀬閘門を思い出して、説明板を設けてくださった河川国道事務所の皆さん、ありがとうございました!

●完全に一致。
‥‥わざわざ絵葉書を持ってきた甲斐がありました。
【撮影地点のMapion地図】
(27年11月22日撮影)
(『日和山公園と山居倉庫』につづく)

にほんブログ村

この閘門を知ったのは、以前入手した古い絵葉書の写真から。この絵葉書こそ、私が最上川舟運を意識したきっかけでもあります。今回の小旅行は、この一枚から始まったといってもいい過ぎではありません。まずはその絵葉書からご覧いただきましょう。
【▼「続きを読む」をクリックしてご覧ください】

●酒田市 一、閘門 二、入船 三、釣(突堤)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●和船が続々と入閘するマイタゲートの閘門、大河を順風を得て下る、天地に帆桁を持った小舟の一群に、波浪で傾いたコンクリートケーソンの防波堤上で、釣りを楽しむ人々という3点を一枚に刷った絵葉書。
今思えば、改修成った新生酒田港の名物施設2件と、古来から続き当時なお盛んだった最上川舟運という、対照的な二題を一組に掲げた点に、作り手のメッセージが込められていたのだと思いますが、手に入れた当初は「酒田にも、こんな立派な閘門があったのか!」と興奮するばかりでした。

●(酒田市)水門 船場町
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●上のしばらく後に、同じ写真から焼かれた別バージョンを入手。こちらの方が、上のものではトリミングされていた部分も写っており、ディテールもより鮮明で嬉しかったものでした。
下は酒田港の岸壁風景で、もやう大小の曳船や、沖がかりする本船の姿も見えて、港が賑わっている様子が見てとれます。このときはまだ、閘門の名前も設けられた場所も知らず、なぜ港とセットで絵葉書にされるのかすら判じかねたものでした。この閘門が、実は酒田港整備の一環として造られたことを知ったのは、ずっと後のことです。

●上の絵葉書から、閘門の写真だけ楽しもうと大判で。閘室から見てゆくと、ゲート左右の壁面にはそれぞれ一対、繋留用チェーンが下がっているのがわかります。閘室の法面は少し仕上げの荒い石垣で、こちらは特に繋留設備はないようですね。
手前に数隻見える、地場独特のタイプらしい和船は、深い喫水や箱造りの船尾から、いかにも積載量がありそう。ちょうどゲートを通過している小舟は、細身でまた違ったタイプに見えますね。1枚目の絵葉書で、帆走している舟と同じ型に思えます。また帆柱を倒さずに通っているあたり、マイタゲートの長所が一目瞭然でよいものです。

ホンモノのGoogleマップで酒田港を見る(上は単なる画像)
●現在の酒田港は、中洲や浅瀬が点在していた最上川河口一帯を整理し、突堤と埋立地で河道と港域を完全に分け、岸壁の整備と浚渫で大型船の入港を可能にした一大工事によって成り、昭和7年に「河海分離」が竣工しました。下瀬閘門はその一環として造られたもので、上の写真の赤矢印がかつてあった位置です。
最上川を下ってくる荷舟は、物資の集積地である酒田市街を目指したわけですが、荷を下ろすいわば河岸地だったのが、酒田の中心部を貫流する新井田川(赤矢印の右上に見える小河川)。荷舟が新井田川に最短距離で入れるよう、新井田川河口の延長線上に閘門を設けたことが、地図からもわかります。
河道を整理・分離して造られた近代港湾施設に、既存の河川舟運ルートを活かすため設けられた通船設備という意味では、富山の富岩運河と、牛島閘門の関係に近いものを感じますね。

CT07614-C14-4より下瀬閘門付近をトリミング(昭和51年9月26日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●さて、この下瀬閘門、下の方で触れる説明板によると、現役だったかどうかは別にして、昭和57年までこの地にあったとのこと。ということは、カラーの航空写真も撮影されているはず‥‥と、国土変遷アーカイブを探してみたら、ありました。トリミングしたものを、上にありがたく掲げさせていただきます。
昭和51年、現役最末期といったところで、すでに航路を塞ぐように埋立地の拡張が始まっており、いかにもお役目御免といわんばかりの、もの悲しい雰囲気が漂う一枚ではありますね。それでも、マイタゲートの形状がはっきり見てとれ、本流側の高水敷は今なお形状を留めているあたり、興味深く拝見。
●そうそう、絵葉書の写真を撮った位置ですが、最上川の堤防上、閘室の南側と推定しました。
理由は、ゲートの高さより少し小高い位置から見下ろしており、堤防上と思われること、遠景に市街地が見えること、写真左端に大型の本船が停泊しており、バックの水面は本流でなく、港内と思われることからです。そう考えると、閘室内の水位が低いこと、荷舟たちがすべて空舟である(酒田で荷を降ろした後)ことも、しっくりと合点がいきました。
●話を戻して、Google航空写真やストリートビューを見ても、どうやら撤去は徹底して行われ、痕跡を探すのすら難しいであろうことは、じゅうじゅう承知していましたが‥‥。
酒田と最上川を意識したそもそもであり、最上川流域初(?)の近代閘門があった場所を、訪ねてみたい気持ちが強くあったのです。カケラくらい残っていないかしらと、淡い期待を抱きながら‥‥。

●最上川北東岸の堤防道をたどり、下瀬閘門跡地に到着。河口近くとあって、先ほど体験した急流とはうって変わった穏やかさと、雄大さを見せつける最上川!
目線を少し落とせばご覧のとおり、閘門跡には小さな樋門がちんまりと立ち、視界内にあるかつての名残りは、上流に向かって角度をつけた、高水敷の掘り込みのみという寂しさです‥‥。気をとりなおし、まずは現在のヌシたる、樋門から眺めてゆこうかいと、堤防の法面を降りることに。


違和感を感じたのは、樋門の規模にくらべて、法面のコンクリート部分が、やけに広いこと。閘門がかつてあった名残の一つといえなくもありませんが、それが樋門の小ささを強調して、何やらユーモラスではありました。
まあ、高水敷が閘門のあった当時のまま、切り開かれていて水際に接している幅員があるのですから、致し方のないことではあります。

●側面に銘板が掲げられていました。名前は下瀬樋管、閘門の名をそのまま襲名したのですね。しかし、径間わずか0.7mに対して、延長124.2m! 堤防と埋立地を貫き、港内と通水している暗渠部分の長さがこの数字ですが、コンクリート敷きが広いのと合わせて、印象的ではありました。
ちなみに、下瀬閘門の寸法を書き出しておくと、閘室長は42m、ゲート径間5m、前扉高さ3.5m、後扉3.2m。昭和3年8月起工、同5年3月竣工とのこと(『運河と閘門』全国閘門一覧表より)。

●堤防上から港の方を眺めると‥‥‥‥ううむ、いかにも「カケラも残っていなさそう」な雰囲気に、ちょっと絶句。右手からは堤防道の立派な取り付け道路が伸びていて、左右も結構な盛り土が‥‥。望み薄でしょうが、とりあえずいってみましょう。

●しばらく周りをうろつきましたが、何も発見できませんでした。もしかしたら、石垣の一つくらい残っているかしら‥‥と期待していたので、残念でしたが、これで思い残すことはありません。
取り付け道路が地平に降りたあたりで、下瀬樋管の片割れ(?)を発見。こちらも簡素な巻上機器があるのみ。本当に通水しているのかなあ‥‥。

●取り付け道路の南側には、資材置き場がありました。岸壁にボルト留めするような、巨大なゴムフェンダーに惹かれます、ここも、痕跡はないかしらと外からしつこく眺めたのですが、しっかり舗装されているものね‥‥。あきらめて堤防上に戻りましょう。

●というわけで、撤去の徹底ぶりを実地確認いたしたわけですが、偲ぶよすがが何もないわけではありません!
堤防上には、ささやかながら立派な説明板が設けられていて、写真や図とともに下瀬閘門がここに在ったことを、しっかり顕彰していてくれているのです。状態から察して、設けられてからまだ数年と経っていないでしょう。下瀬閘門を思い出して、説明板を設けてくださった河川国道事務所の皆さん、ありがとうございました!

●完全に一致。
‥‥わざわざ絵葉書を持ってきた甲斐がありました。
【撮影地点のMapion地図】
(27年11月22日撮影)
(『日和山公園と山居倉庫』につづく)

にほんブログ村
- 関連記事
-
- 松重閘門ふたたび…1
- 日和山公園と山居倉庫
- 下瀬閘門跡を訪ねて
- 釜口水門を訪ねて…9
- 釜口水門を訪ねて…8
コメント
コメントの投稿