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三栖閘門の図面

176037.jpg図録や書籍で目にし、慣れ親しみかつ憧れていた史料や、写真の現物と出会ったときの嬉しさは、また格別のものがあります。今回出会うことができた史料もその伝ですが、印刷物上に掲載されたものでなく、展示物と同じものという点が変わっていました。

21年9月11日に、伏見は三栖閘門(『三栖閘門…1』ほか参照)を訪ねた際に見かけたのですから、6年ぶりということになりますが、まさか展示物と寸分たがわぬものが入手できるとは思わなかったので、驚きもひとしおだったものです。

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176026.jpg閘室内を観光船・十石舟の船着場として再利用しながら、現地静態保存されている三栖閘門。旧操作室は資料館として整備され、舟の通航から閘室の注排水までギミックで再現しているという、閘門模型としては出色の出来の情景展示をはじめとして、小さいながら充実した展示がなされています。

くだんの「図面」に出会ったのは、この資料館。あまたあるパネル展示の中で、ちょっと気になる一枚ではありました。

176027.jpgご覧のとおり、洗堰・閘門のそれぞれ正・縦断面図とスペック、それに河相を主にした周辺の地図と、併せて行われた治水工事の概略を説明したもの。

一見して、閘門の竣工とほぼ同時期に発行されたものと察しましたが、気になった、というのは、その展示方法。四隅をいかにも無造作に、ボードに直接画鋲で留めており、紙がすっかりたるんでしまって、痛々しい感じです。

しかも、「三栖閘門概略図」というスチレンボードに貼ったタイトル(ボードにはセロテープで貼られているというのが、また何とも)のほか、説明のたぐいは一切ないのも異様で、気になった点ではありました。時間がなかったので、書かれた内容まで読むことはしませんでしたが、その扱われ方とともに、図版の雰囲気が妙に気に入って、心に残ったことは確かです。

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三栖洗堰及三栖閘門
394㎜×548㎜。発行年月記載無し、昭和4年ごろか。

さて、6年を経て現物と向き合ってみて、展示されていたものを目にしたときの印象以上に、印刷・内容とも丁寧で、質の良いものであることがわかりました。上に掲げたものは、スキャナーで分割して取り込んだものを切り貼ったものですので、お見苦しい点もありましょうがご容赦ください。

用紙は黄色味がかった、薄手の片面塗工紙で、昔の辞書の本文用紙を思わせる上品なもの。内容から、竣功前後(三栖閘門の竣工は昭和4年)に施工者によって、施設や事業への理解を得るために配布されたものであろう、という見当はついたものの、発行者・発行年月とも記載がないことから、元は表題を記した袋か何かに入っていたのか、冊子の添付物だったのかもしれません。本紙の性格からして、多くの部数が発行されたことでしょう。

洗堰、閘門とも正横の断面図の下に概略が記され、外観・構造と諸元がそれぞれ理解できるようになっているほか、右手には二色刷りで一帯の地図を付し、広範囲にわたる治水事業の一環として、洗堰と閘門が手がけられたことが解説されています。

いずれの図版も、関係者向けの説明図として新たに起されたのか、適度に略されながらも情報量は十二分にあり、眺めていて楽しいものでした。以下、例によって思いのたけ(含む妄想)を垂れ流させていただきます。

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三栖閘門の魅力を際立たせ、ある種「顔」ともいえるのがこの、4本ある堰柱の先端部分。

図面を見ると、屋根は装飾の内側に設けられた、凹部にはまり込むような形になっており、また巻上機構を載せたトラスや、中空になった堰柱内部を上下する扉体の対重(カウンターウェイト)など、隠れていたディテールも細部まで描かれています。

176030.jpg中でも嬉しかったのが、カウンターウェイトの形状がおおよそでもわかったこと。「三栖閘門…3」でも触れたように、巻上機周り(ただし片側のみ)は、取り外して地上に展示されていたものの、カウンターウェイトは外されていたからです。

図面から推察するに、鋼材で作った“かご”がチェーンの先にスイブルを介してぶら下がり、そこへコンクリートや鋳鉄なりの重錘を積んだのでしょう。

運用していれば泥の付着や、塗料の塗り重ねなどで、扉体の重さは当然変わってくるでしょうから、重錘は分割したものを積み重ねるような、微調整ができる形をとっていたに違いありません。

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そうそう、「三栖閘門…3」では割愛しましたが、モーター軸には人力操作のクランクもありました。長さからして一人で操作すると思しきもので、ギヤで大減速してあるとはいえ、何百回渾身の力で回さなければならないのか、ぞっとしない代物ではありますね。

話を図面に戻すと、興味をそそられたものの一つに、前後扉室の基礎部分があります。最も大きな重量を支える部分で、東京の閘門なら、それこそ無数の杭が、支持層に達するまで深々と打ち込まれるところ。図面ではきわめてシンプルなのに目を引かれたのです。

説明を読むと、「鐵筋混凝土沈凾」とあり、コンクリートケーソンであることがわかりました。側面図左右の地層を表にしたものには、ちょうど基礎のあたりに、「砂交り砂利」とあり、礫層と見てよいのでしょうか。東京の低地と違って、浅いところに堅固な支持層があったということなのでしょう(間違っていたらごめんなさい)。

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図面でも左側の後扉室、すなわち宇治川に接する側が高く造ってあることからもわかるように、宇治川の通常水位は現在よりはるかに高く、O.P.+15m前後までの増水を見込んで設計されていたことがわかります。

上の写真のとおり、扉体はもとより、バイパスゲートの開口部までがすっかり露出してなお、宇治川の水面ははるか下という変わり果てた姿で、この角度から見るかぎり、竣工時の閘門風景を思い起こすのは難しいでしょう。もし今、通船を復活させようとしたら、それこそ、もう一組閘門が必要になるほどの、大きな水位差が生じてしまっているのです。

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洗堰の図面も眺めてみましょう。扉体右にカウンターウェイトが確認でき、基礎は閘門同様コンクリートケーソン、塔屋がない分絵的には地味ですが、ここでも現物を眺めただけではわからない、興味深いものが見つかりました。

「川裏正面」図の左端、「排水ポンプ室」と記入されているのがわかりますね。宇治川の増水に備えての設備ですから、排水機場がないわけはないのですが、伏兵のように堤内へ併設されているとは思わず、意外ではありました。ただポンプ室の大きさや、「縦断図」にある排水管の直径(836ミリ)からして、左右一対備えていたにせよ、能力はきわめて限定的だったことが想像できます。

説明文によると、「洗堰閉鎖後ノ降雨ニヨル市内湛水害ニ備フ」、能力を見ると、「揚程二.四米ニ對シ毎秒一.一九立方米」もしくは「一.八米ニ對シ毎秒一.四二立方米」とありました。昨今の排水機場から見れば、実にささやかなものだったわけですが、宇治川の水位が下がる前に排水が可能になった、というだけでも、当時としては大変な進歩だったことでしょう。

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図面を眺めてから、上の写真をよく見ると、写真右端、側壁にうっすらと排水口を埋めた跡があるのに気づかされました。図面に出会っていなければ、まず見過ごしたであろうかすかな痕跡、嬉しくなろうというものです。

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最後に、水面を水色に刷り分けた伏見一帯の地図、「附近平面圖」を。

176035.jpg面積を大幅に減じていたとはいえ、巨椋池が存在し、旧来の高瀬川に加え、伏見(墨染)インクラインを控えた疏水もありと、文字どおり内陸の水郷地帯だった時代の伏見が描かれていて、「京都の外港として輝いていた、最後の時代だったんだなあ‥‥」とおっさん一人しみじみ。川蒸気から三十石舟に至るまで、フネブネで輻輳した川景色が髣髴されるような一枚であります。

ちょっと寂しかったのは、図中の「宇治川」と書かれた「治」の字がある上あたりに、平戸樋門が記入されていなかったところ。まあ、こちらの竣工は大正末年で、三栖閘門を含む水防工事計画とは関連がありませんから、仕方のないことではあります。

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しつこいようですが、平戸樋門の繋船用チェーンを眺めて、水運時代の高かった水位に思いを致し、これまたしみじみ。大阪湾から長躯、琵琶湖に至る通船路が躍動していた時代は、本当に遠いものとなってしまったのですね。

ともあれ、この図面に出会うことができたおかげで、三栖閘門の竣工に沸いた伏見とその水路の空気に、ほんの少しでもひたることができた気がして、楽しいひとときでした。また機会があったら伏見を訪ねて、閘門だけでなく疏水や橋たちも堪能してみたいものです。

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タグ : 三栖閘門三栖洗堰平戸樋門宇治川濠川閘門

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