旧釜口水門の絵葉書
(『釜口水門を訪ねて…9』のつづき)
●釜口水門と旧舟通しが訪問できたのをよい機会に、旧釜口水門を題材にした絵葉書4枚から、諏訪湖・天竜川治水に大転換期をもたらした時代の、水門風景をしのんでみることとしました。
発行はいずれも昭和11年の竣工後、そう時間がたっていないころのようです。コンクリートの肌も白い清新な雰囲気と、地域を代表する大構造物への、信頼や誇らしさが感じられそうな構図を堪能してみましょう。
【▼「続きを読む」をクリックしてご覧ください】

●(諏訪湖名所)天龍川水門(岡谷釜口橋より望む)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。切手欄に「MANUFACTURED,BY TAISHO」の銘あり。
●晴れ渡った空に浮かぶ白い雲、さんさんと降り注ぐ陽射しの温かさが感じられるような一枚。釜口橋の上から水門を望んだものですが、現在はガードレールになっている高欄が、竣工当初はご覧のように品の良いデザインの、RC製だったことがわかります。
水門天端に、下の写真に見られるようなディテールがないことから、これは竣工直前の、まだ未施工部分がある時期を写したものなのかもしれません。左端の狭い径間は、上下の写真ともスピンドルや巻上機器が見られませんが、角落しか、あるいはマイタゲートだったのでしょうか。

●(諏訪湖勝景)遠く彼方に浮かぶ白雲,大氣玲瓏と眞澄みに澄んで,水音涼しい岡谷水門。
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。切手欄に「YAMADASHI KAIGAKENKYUKAI」の銘あり。
●「泥舟」タイプらしい地場の漁舟が、水門の下流側に点々と浮かぶのどかなシーン。安心して漁りにいそしむ泥舟たちの様子からも、中央の7径間は常時閉かつ越流していなかったことがわかります。左端径間のみ背割堤で仕切ってあるのは、おそらく平時はこの径間のみで、越流させていたためでしょう。
水門や舟通しの上に、動力用の電線らしいものや、電灯とおぼしきポールが立っているのも見られ、竣工後の雰囲気が濃厚です。舟通しは、水門との間に管理棟か動力室らしい建物と、結構な幅の背割堤を挟んでおり、ほぼ独立した構造物であることがわかります。舟通しのゲート間に、現在も残る階段がチラリと見えていますね。

●(岡谷市名勝)天龍釜口橋と天龍川水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらはむしろ、水門より釜口橋のディテールが興味深い一枚。橋脚上には親柱様のものが設けられ、行灯型の和風橋灯が立てられており、また鈑桁にもコンクリート製なのか、天端を丸みを帯びた白い手すりで被覆していることがわかります。現在とは異なり、渡る人の目線を意識した造りがなされていたのでしょう。
橋脚は左端径間の背割堤の上に乗った形で、背割堤と岸の間の流路のみさざ波が立っていることから、やはり放流はこの径間で行われていたようですね。

●(諏訪名所)岡谷市の景觀・天龍川釜口橋及水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。切手欄に「MANUFACTURED,BY TAISHO」の銘あり。
●南岸の高台から、水門と釜口橋、現在の天竜町・湖畔の街並みを俯瞰したもの。両岸に沿って釜口橋の下まで伸びる、背割堤の様子がよくわかります。水門や橋ばかりでなく、法面も白く陽光を反射して、竣工間もないことが感じられますね。
バックに広がる街並みも、遠方には工場建屋らしい大型建築が見え、河畔の家々も整然とし、活気にあふれた雰囲気。このころはまだ、水運の要衝として栄えた名残が見られたことでしょう。

●釜口水門
8枚セット絵葉書、監修:長野県諏訪建設事務所、企画・発行:諏訪土木振興会。
●こちらは、現水門竣工を記念して発行されたセットで、遅くとも昭和63年7月以降の発行。史料として扱うにはまだ差し障りがあるので、まとめてさわりのみ紹介します。
時代順にみてゆくと、大正末期、吊橋時代の天竜橋を写したもの1枚、旧水門の建設風景2枚、現役末期の旧水門3枚、同じく管理橋1枚、竣工時の現水門1枚といった構成。旧水門はまだ撤去されていなかったころで、いわば新旧の釜口水門が、共存していた時期に当たります。
キャプションで興味深かったのは、「(旧管理橋の)高欄の笠の部分は釜口水門河川公園のベンチとして利用されている」というくだりでしょうか。一部が現地保存されただけでなく、取り外された石材も、有効利用されたわけですね。

●おまけを一つ。「水の資料室」に備え付けられていた、釜口水門のスタンプです。インクを入念につけたつもりでしたが‥‥、あらら、残念ながらかすれてしまいました。
(『超狭小閘門! 西天竜頭首工舟通し…1』につづく)

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発行はいずれも昭和11年の竣工後、そう時間がたっていないころのようです。コンクリートの肌も白い清新な雰囲気と、地域を代表する大構造物への、信頼や誇らしさが感じられそうな構図を堪能してみましょう。
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●(諏訪湖名所)天龍川水門(岡谷釜口橋より望む)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。切手欄に「MANUFACTURED,BY TAISHO」の銘あり。
●晴れ渡った空に浮かぶ白い雲、さんさんと降り注ぐ陽射しの温かさが感じられるような一枚。釜口橋の上から水門を望んだものですが、現在はガードレールになっている高欄が、竣工当初はご覧のように品の良いデザインの、RC製だったことがわかります。
水門天端に、下の写真に見られるようなディテールがないことから、これは竣工直前の、まだ未施工部分がある時期を写したものなのかもしれません。左端の狭い径間は、上下の写真ともスピンドルや巻上機器が見られませんが、角落しか、あるいはマイタゲートだったのでしょうか。

●(諏訪湖勝景)遠く彼方に浮かぶ白雲,大氣玲瓏と眞澄みに澄んで,水音涼しい岡谷水門。
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。切手欄に「YAMADASHI KAIGAKENKYUKAI」の銘あり。
●「泥舟」タイプらしい地場の漁舟が、水門の下流側に点々と浮かぶのどかなシーン。安心して漁りにいそしむ泥舟たちの様子からも、中央の7径間は常時閉かつ越流していなかったことがわかります。左端径間のみ背割堤で仕切ってあるのは、おそらく平時はこの径間のみで、越流させていたためでしょう。
水門や舟通しの上に、動力用の電線らしいものや、電灯とおぼしきポールが立っているのも見られ、竣工後の雰囲気が濃厚です。舟通しは、水門との間に管理棟か動力室らしい建物と、結構な幅の背割堤を挟んでおり、ほぼ独立した構造物であることがわかります。舟通しのゲート間に、現在も残る階段がチラリと見えていますね。

●(岡谷市名勝)天龍釜口橋と天龍川水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらはむしろ、水門より釜口橋のディテールが興味深い一枚。橋脚上には親柱様のものが設けられ、行灯型の和風橋灯が立てられており、また鈑桁にもコンクリート製なのか、天端を丸みを帯びた白い手すりで被覆していることがわかります。現在とは異なり、渡る人の目線を意識した造りがなされていたのでしょう。
橋脚は左端径間の背割堤の上に乗った形で、背割堤と岸の間の流路のみさざ波が立っていることから、やはり放流はこの径間で行われていたようですね。

●(諏訪名所)岡谷市の景觀・天龍川釜口橋及水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。切手欄に「MANUFACTURED,BY TAISHO」の銘あり。
●南岸の高台から、水門と釜口橋、現在の天竜町・湖畔の街並みを俯瞰したもの。両岸に沿って釜口橋の下まで伸びる、背割堤の様子がよくわかります。水門や橋ばかりでなく、法面も白く陽光を反射して、竣工間もないことが感じられますね。
バックに広がる街並みも、遠方には工場建屋らしい大型建築が見え、河畔の家々も整然とし、活気にあふれた雰囲気。このころはまだ、水運の要衝として栄えた名残が見られたことでしょう。

●釜口水門
8枚セット絵葉書、監修:長野県諏訪建設事務所、企画・発行:諏訪土木振興会。
●こちらは、現水門竣工を記念して発行されたセットで、遅くとも昭和63年7月以降の発行。史料として扱うにはまだ差し障りがあるので、まとめてさわりのみ紹介します。
時代順にみてゆくと、大正末期、吊橋時代の天竜橋を写したもの1枚、旧水門の建設風景2枚、現役末期の旧水門3枚、同じく管理橋1枚、竣工時の現水門1枚といった構成。旧水門はまだ撤去されていなかったころで、いわば新旧の釜口水門が、共存していた時期に当たります。
キャプションで興味深かったのは、「(旧管理橋の)高欄の笠の部分は釜口水門河川公園のベンチとして利用されている」というくだりでしょうか。一部が現地保存されただけでなく、取り外された石材も、有効利用されたわけですね。

●おまけを一つ。「水の資料室」に備え付けられていた、釜口水門のスタンプです。インクを入念につけたつもりでしたが‥‥、あらら、残念ながらかすれてしまいました。
(『超狭小閘門! 西天竜頭首工舟通し…1』につづく)

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