小原橋跡を訪ねて…3
(『小原橋跡を訪ねて…2』のつづき)

●旧橋脚を改めてアップで。本当に、よくぞ残っていてくれたものです。これもテラス延伸までの命脈とあれば、よ~く眺めておきたくなるもの。
たびたび引用させていただいている「東京の橋」(石川悌二著)によると、「昭和17年刊の城東区史によればこの橋はまだ木橋であって、長19.6メートル、幅3.8メートル」とあり、戦前からすでにあったことがわかります。
もっとも、「江東地区の橋めぐり」の小原橋の項を拝見すると、「昭和27年(1952)初架橋(木橋)」とあり、今回撤去された鋼桁橋は、昭和40年3月架設とのこと。この違いはよくわかりませんが、戦前の木橋は、もしかすると私設橋だったのかもしれません。
●さて、両岸をウロウロしながら小原橋跡を眺めまわした後は、せっかく訪ねたのだからと、周りの気になる物件も見てゆくことに。北詰にいたら、よいタイミングで踏切が閉まったので、東武亀戸線の電車を一枚。
そうそう、以前「東武亀戸線橋梁のひたひた緊迫写真」でも触れましたが、ここを渡る鉄橋も、水位低下化以前は満潮時に線路が冠水(!)していたという、いわくつきのものなのだった! そのころがしのばれるものといえば‥‥。
●この陸閘です。写真は南詰のものですが、対岸も略同の形で、角落としをはめる溝が二つ設けられているあたり、かつての厳しさが想像できますね。
本来、線路を横断してあるべき水平面の戸当りは、水位低下化後に撤去されたのでしょう。堰柱(?)のみが石碑のように3本、線路を挟んで立っていました。テラスが延伸され、コンクリート堤防が低められても、この陸閘跡は残していただきたいものです。

●南詰の踏切から、北側を見たところ。この先代橋は、満潮のつど桁が水没するという、今から思うと信じられないような、過酷かつ凄惨な環境にあったわけですね‥‥。
鉄橋を挟んで両岸に踏切があるせいか、線路わきの犬走りを、ヒョイヒョイと気軽に渡れてしまえそうな感じすらします(絶対に渡ってはいけません!)。実際に渡ってしまう人が後を絶たないのか、北詰の陸閘跡には、「線路内に進入した人を見たら、すぐ警察に連絡してほしい」旨、厳重な警告が張り出されていました。
【撮影地点のMapion地図】
(26年5月18日撮影)
(『小原橋跡を訪ねて…4』につづく)

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●旧橋脚を改めてアップで。本当に、よくぞ残っていてくれたものです。これもテラス延伸までの命脈とあれば、よ~く眺めておきたくなるもの。
たびたび引用させていただいている「東京の橋」(石川悌二著)によると、「昭和17年刊の城東区史によればこの橋はまだ木橋であって、長19.6メートル、幅3.8メートル」とあり、戦前からすでにあったことがわかります。
もっとも、「江東地区の橋めぐり」の小原橋の項を拝見すると、「昭和27年(1952)初架橋(木橋)」とあり、今回撤去された鋼桁橋は、昭和40年3月架設とのこと。この違いはよくわかりませんが、戦前の木橋は、もしかすると私設橋だったのかもしれません。

そうそう、以前「東武亀戸線橋梁のひたひた緊迫写真」でも触れましたが、ここを渡る鉄橋も、水位低下化以前は満潮時に線路が冠水(!)していたという、いわくつきのものなのだった! そのころがしのばれるものといえば‥‥。

本来、線路を横断してあるべき水平面の戸当りは、水位低下化後に撤去されたのでしょう。堰柱(?)のみが石碑のように3本、線路を挟んで立っていました。テラスが延伸され、コンクリート堤防が低められても、この陸閘跡は残していただきたいものです。


鉄橋を挟んで両岸に踏切があるせいか、線路わきの犬走りを、ヒョイヒョイと気軽に渡れてしまえそうな感じすらします(絶対に渡ってはいけません!)。実際に渡ってしまう人が後を絶たないのか、北詰の陸閘跡には、「線路内に進入した人を見たら、すぐ警察に連絡してほしい」旨、厳重な警告が張り出されていました。
【撮影地点のMapion地図】
(26年5月18日撮影)
(『小原橋跡を訪ねて…4』につづく)

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