初夢大妄想戦記・進撃の埼玉河川軍!

念のため、以下の駄文はフィクションです、現実の事件、実在の団体・人物などとは一切関係はありません。ええ、本当に。
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●昨年8月のことになります。ネット上を徘徊していたら、togetterの「埼玉海軍創設にあたって」なるまとめを発見。一読して、いや~、久しぶりに腹の底から笑わせていただきました!
●「超利根級軍艦」「見沼ックス」というあたりに、コメントされている方々の海事・海軍趣味がかいまみえて、ストレートど真ん中にツボはまりまくり。特に「こなたま」氏から、シレッと見沼通船堀を通航可能な舟艇の寸法が出てきて、それを無理やり艦艇に結びつける下り、もう最高でしたわ!
●ネット上では以前から、ローカルな笑いのネタをふくらませた、この手の妄想戦記がいくつかありますが、内水が話題になるのは本当に珍しく、すっかり嬉しくなってしまいました。
●もともとこの手が嫌いでない船頭も、嬉しくなった勢いでひとつものしてやろうと、水運趣味全開のヨタ話を書き散らしてみたくなったのです。
「伏字になっていないだろ!」「航空戦力はどうした!」など、突っ込みどころは多々ありましょうが‥‥というより、ほぼすべて突っ込みどころのようなもので恐縮ですが、病膏肓的内水原理主義世界を、恥もかえりみずご披露したく思います。

●埼玉河川軍揺籃の地の一つとなった大場川
(写真はキャプション・本文とは関係ありません)
埼玉河川軍創設まで
●さいたま市から四方へ進攻を開始した埼玉軍のうち、南方軍が戸田市~川口市~三郷市の県境ラインまで制圧。Sマリーナ、Oマリーナを接収。2つのマリーナに繋留・上架された艇を武装、南方軍隷下に舟艇部隊を創設。制海権ならぬ制河権の獲得に乗り出す。
●芝川舟艇隊、夜襲による渡河作戦を実施し、岩淵水門の奪取に成功。笹目橋以東の新河岸川を制圧、戦線を高島通りまで南下させる。
新河岸川は全区間が埼玉軍の制河権下となり、鹵獲した浚渫船による浚渫・航路整備が実施され、川越まで可航河川化される。
●大場川舟艇隊、陸上部隊と呼応して花畑運河を制圧。花畑運河を通って第一艇隊は綾瀬川、第二艇隊は大場川から中川を南下して、二河川から挟撃し足立区・葛飾区を占領、戦線を一気に荒川~総武線新小岩・小岩の線まで南下させ、舟艇部隊の名を上げる。
●荒川で、京葉道路・新小松川橋から上流の制河権は、ほぼ埼玉軍舟艇隊の手に落ちる。制河権エリアが広がるにつれて、接収した舟艇も増加、舟艇部隊が増強される。
同時に埼玉軍管轄下の水域にて、舟艇部隊による通航船舶への臨検と、通航税の徴収が開始される。
●数々の軍功により、埼玉軍舟艇隊、埼玉河川軍と改称。同時に埼玉軍の陸上部隊は埼玉陸軍となる。またSマリーナ、Oマリーナをそれぞれ芝川軍港、大場川軍港と改称。他の船溜、港湾施設は要港とされた。

●荒川制河権獲得の策源地・充実した設備を誇る大場川軍港
(写真はキャプション・本文とは関係ありません)
埼玉河川軍の躍進期
●東京都が反撃に出ようとするも、埼玉河川軍の声明、
「賊軍東京に姑息な動きがあれば、洪水時は岩淵水門を閉鎖せず無慈悲な水害を起こす」
に腰が引け、有効な打撃が与えられず、戦線は膠着する。
●膠着した状況を打破すべく、東京のR消防署、W警察署、Y・TW両マリーナの義勇艇隊から成る、東京都連合水上部隊が大挙して荒川を遡上。
埼玉河川軍は船堀橋上流で、辛うじてこれを撃退(後に『小松川沖水戦』と呼ばれた)するも、大きな打撃を受ける。
●東京都の反撃に怒った埼玉軍は、従来通航税を課して航行を認めていた独航艀、舟艇をすべて拿捕する挙に出る。これにより河川軍に大型船が複数隻導入され、大規模兵力の移動が可能になる。
●戦線は依然膠着していたが、あるとき埼玉軍が三郷放水路、小合溜に大兵力を集中しつつある兆候が察知され、隣接する千葉県側では不安が広がる。
●数カ月後、三郷放水路、小合溜の東口が突如切り開かれ、江戸川とつながった2水路から、埼玉河川軍が怒涛のように江戸川へ侵攻を開始。
同時に中川、新中川にも河川軍が急速に南下、荒川河口と旧江戸川河口まで進撃。荒川全域、旧江戸川と三郷以南の江戸川本流は、たった一日で制圧される。
●三郷放水路と小合溜は、秘密裏に運河として拡幅・整備され、中川~江戸川間の水位差を克服するため、閘門が設けられていたことが後に判明する。
千葉県側は江戸川本流にほとんど舟艇隊をもっておらず、埼玉軍侵攻時は、矢切の渡し付近で小規模な水戦があったのみで蹴散らされる。
●旧江戸川が制河権下に入ると、沿岸のF造船所を接収、篠崎河川軍工廠として運用を開始、造修能力が飛躍的に増強する。また中川の江戸川競艇場、新中川の暫定繋留場、旧江戸川・妙見島のNマリーナも接収、鹵獲船艇の数もうなぎ昇りとなり、ますます増強に拍車がかかる。

●埼玉戦史上の金字塔、江戸川電撃戦の進攻路となった三郷放水路
(写真はキャプション・本文とは関係ありません)
古墳級モニター艦隊登場
●江戸川進出にともない、京葉道路江戸川大橋東詰のTマリーナ、およびIマリーナを、江戸川軍港と改称。行徳可動堰に閘門の建設が始まると同時に、江戸川本流の浚渫と航路整備が進められ、野田付近まで大型船艇の遡上が可能になる。
●埼玉河川軍より公式発表があり、以前接収した独航艀6隻を、
「偉大なる埼玉(さきたま)古墳群より名を取り、丸墓山、稲荷山、将軍山、二子山、瓦塚、鉄砲山と命名する」
旨の声明が発表される。東京・千葉などの外部からは、なぜわざわざ名前を付けたのかいぶかしがられるが、この後6隻をまとめて「古墳級」と通称することが決められる。
●某日、古墳級6隻が独航艀による大規模な輸送船団と、浚渫船団、舟艇部隊をともなう大艦隊をもって江戸川を遡上、利根運河西口に集結するのが認められる。
古墳級による支援砲撃の下、上陸した埼玉陸軍は千葉県軍を蹴散らし利根運河全域を制圧、戦線を拡大しながら利根運河の浚渫・拡幅工事を始める。
●このとき、古墳級が強力な河用モニター(浅喫水装甲砲艦)として大改造されていたことが判明。
高い堤防を越えて降り注ぐ、古墳級が装備する重迫撃砲・大口径榴弾砲の曲射弾の雨になすすべもなく、千葉県軍は撤退を余儀なくされる。
●河川軍は、バケット浚渫艦、杭打艦、コンクリートプラント艦などの工作艦隊を揃え、キット化された水門構築材を開発しそれらを最大限活用。
河川軍得意のの急速土木施工により、利根運河の再運河化は短期間で成り、東口の閘門を通って、埼玉河川軍艦隊が利根川に侵攻。浅瀬を浚渫しながら下航を開始する。

●河川艦隊の主力戦闘艦、対地制圧に比類なき打撃力を誇る古墳級砲艦
(写真はキャプション・本文とは関係ありません)
進撃の埼玉河川軍
●千葉県軍、茨城県軍は内水沿岸から駆逐され、短日時のうちに中利根・下利根流域と近隣水系を制圧。手賀沼、印旛沼など狭水路のある湖沼には、艦隊に随伴していた特殊部隊・水上バイク艇隊が進攻。一部の部隊は印旛沼からさらに進み、新川の偵察・測量を開始。東京湾への航路開鑿を目論む。
●艦隊は外浪逆浦から霞ヶ浦・北浦に進撃、東関東内水を完全に制河権下に置き、新たに佐原軍港、銚子軍港、土浦軍港を設置。また鰐川から鹿島港へ運河を新規開鑿し、鹿島臨海工業地帯を占領、一大工業力を手中にする。
●作戦が一段落すると、工作艦隊は北浦北端部に集結、既存河川沿いに茨木軍の残存部隊を駆逐しながら、涸沼への運河開鑿を開始。既存河川と勘十郎堀跡を拡幅・浚渫し、複数の閘門を設け、涸沼~北浦航路が竣工。
涸沼川、那珂川下流部を制圧、東北関東ほぼ全域を手中に収める。
●他方、長門川、新川・花見川の大規模工事により、可航化改良と閘門設置が成り、利根川~印旛沼~東京湾航路が完成。湾奥進出が可能になり、千葉県沿海部も埼玉軍の脅威にさらされるようになる。
江戸川も関宿まで航路整備が完成、関宿閘門大型艦の通航ができるよう改修され、利根川上流までモニター艦の遡上が可能になる。
●東関東の内水完全制圧と、河川航路網の完成を祝い、古墳級モニター艦6隻を中心とした大観艦式が土浦軍港にて行われる。

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●「超利根級軍艦」「見沼ックス」というあたりに、コメントされている方々の海事・海軍趣味がかいまみえて、ストレートど真ん中にツボはまりまくり。特に「こなたま」氏から、シレッと見沼通船堀を通航可能な舟艇の寸法が出てきて、それを無理やり艦艇に結びつける下り、もう最高でしたわ!
●ネット上では以前から、ローカルな笑いのネタをふくらませた、この手の妄想戦記がいくつかありますが、内水が話題になるのは本当に珍しく、すっかり嬉しくなってしまいました。
●もともとこの手が嫌いでない船頭も、嬉しくなった勢いでひとつものしてやろうと、水運趣味全開のヨタ話を書き散らしてみたくなったのです。
「伏字になっていないだろ!」「航空戦力はどうした!」など、突っ込みどころは多々ありましょうが‥‥というより、ほぼすべて突っ込みどころのようなもので恐縮ですが、病膏肓的内水原理主義世界を、恥もかえりみずご披露したく思います。

●埼玉河川軍揺籃の地の一つとなった大場川
(写真はキャプション・本文とは関係ありません)

●さいたま市から四方へ進攻を開始した埼玉軍のうち、南方軍が戸田市~川口市~三郷市の県境ラインまで制圧。Sマリーナ、Oマリーナを接収。2つのマリーナに繋留・上架された艇を武装、南方軍隷下に舟艇部隊を創設。制海権ならぬ制河権の獲得に乗り出す。
●芝川舟艇隊、夜襲による渡河作戦を実施し、岩淵水門の奪取に成功。笹目橋以東の新河岸川を制圧、戦線を高島通りまで南下させる。
新河岸川は全区間が埼玉軍の制河権下となり、鹵獲した浚渫船による浚渫・航路整備が実施され、川越まで可航河川化される。
●大場川舟艇隊、陸上部隊と呼応して花畑運河を制圧。花畑運河を通って第一艇隊は綾瀬川、第二艇隊は大場川から中川を南下して、二河川から挟撃し足立区・葛飾区を占領、戦線を一気に荒川~総武線新小岩・小岩の線まで南下させ、舟艇部隊の名を上げる。
●荒川で、京葉道路・新小松川橋から上流の制河権は、ほぼ埼玉軍舟艇隊の手に落ちる。制河権エリアが広がるにつれて、接収した舟艇も増加、舟艇部隊が増強される。
同時に埼玉軍管轄下の水域にて、舟艇部隊による通航船舶への臨検と、通航税の徴収が開始される。
●数々の軍功により、埼玉軍舟艇隊、埼玉河川軍と改称。同時に埼玉軍の陸上部隊は埼玉陸軍となる。またSマリーナ、Oマリーナをそれぞれ芝川軍港、大場川軍港と改称。他の船溜、港湾施設は要港とされた。

●荒川制河権獲得の策源地・充実した設備を誇る大場川軍港
(写真はキャプション・本文とは関係ありません)

●東京都が反撃に出ようとするも、埼玉河川軍の声明、
「賊軍東京に姑息な動きがあれば、洪水時は岩淵水門を閉鎖せず無慈悲な水害を起こす」
に腰が引け、有効な打撃が与えられず、戦線は膠着する。
●膠着した状況を打破すべく、東京のR消防署、W警察署、Y・TW両マリーナの義勇艇隊から成る、東京都連合水上部隊が大挙して荒川を遡上。
埼玉河川軍は船堀橋上流で、辛うじてこれを撃退(後に『小松川沖水戦』と呼ばれた)するも、大きな打撃を受ける。
●東京都の反撃に怒った埼玉軍は、従来通航税を課して航行を認めていた独航艀、舟艇をすべて拿捕する挙に出る。これにより河川軍に大型船が複数隻導入され、大規模兵力の移動が可能になる。
●戦線は依然膠着していたが、あるとき埼玉軍が三郷放水路、小合溜に大兵力を集中しつつある兆候が察知され、隣接する千葉県側では不安が広がる。
●数カ月後、三郷放水路、小合溜の東口が突如切り開かれ、江戸川とつながった2水路から、埼玉河川軍が怒涛のように江戸川へ侵攻を開始。
同時に中川、新中川にも河川軍が急速に南下、荒川河口と旧江戸川河口まで進撃。荒川全域、旧江戸川と三郷以南の江戸川本流は、たった一日で制圧される。
●三郷放水路と小合溜は、秘密裏に運河として拡幅・整備され、中川~江戸川間の水位差を克服するため、閘門が設けられていたことが後に判明する。
千葉県側は江戸川本流にほとんど舟艇隊をもっておらず、埼玉軍侵攻時は、矢切の渡し付近で小規模な水戦があったのみで蹴散らされる。
●旧江戸川が制河権下に入ると、沿岸のF造船所を接収、篠崎河川軍工廠として運用を開始、造修能力が飛躍的に増強する。また中川の江戸川競艇場、新中川の暫定繋留場、旧江戸川・妙見島のNマリーナも接収、鹵獲船艇の数もうなぎ昇りとなり、ますます増強に拍車がかかる。

●埼玉戦史上の金字塔、江戸川電撃戦の進攻路となった三郷放水路
(写真はキャプション・本文とは関係ありません)

●江戸川進出にともない、京葉道路江戸川大橋東詰のTマリーナ、およびIマリーナを、江戸川軍港と改称。行徳可動堰に閘門の建設が始まると同時に、江戸川本流の浚渫と航路整備が進められ、野田付近まで大型船艇の遡上が可能になる。
●埼玉河川軍より公式発表があり、以前接収した独航艀6隻を、
「偉大なる埼玉(さきたま)古墳群より名を取り、丸墓山、稲荷山、将軍山、二子山、瓦塚、鉄砲山と命名する」
旨の声明が発表される。東京・千葉などの外部からは、なぜわざわざ名前を付けたのかいぶかしがられるが、この後6隻をまとめて「古墳級」と通称することが決められる。
●某日、古墳級6隻が独航艀による大規模な輸送船団と、浚渫船団、舟艇部隊をともなう大艦隊をもって江戸川を遡上、利根運河西口に集結するのが認められる。
古墳級による支援砲撃の下、上陸した埼玉陸軍は千葉県軍を蹴散らし利根運河全域を制圧、戦線を拡大しながら利根運河の浚渫・拡幅工事を始める。
●このとき、古墳級が強力な河用モニター(浅喫水装甲砲艦)として大改造されていたことが判明。
高い堤防を越えて降り注ぐ、古墳級が装備する重迫撃砲・大口径榴弾砲の曲射弾の雨になすすべもなく、千葉県軍は撤退を余儀なくされる。
●河川軍は、バケット浚渫艦、杭打艦、コンクリートプラント艦などの工作艦隊を揃え、キット化された水門構築材を開発しそれらを最大限活用。
河川軍得意のの急速土木施工により、利根運河の再運河化は短期間で成り、東口の閘門を通って、埼玉河川軍艦隊が利根川に侵攻。浅瀬を浚渫しながら下航を開始する。

●河川艦隊の主力戦闘艦、対地制圧に比類なき打撃力を誇る古墳級砲艦
(写真はキャプション・本文とは関係ありません)

●千葉県軍、茨城県軍は内水沿岸から駆逐され、短日時のうちに中利根・下利根流域と近隣水系を制圧。手賀沼、印旛沼など狭水路のある湖沼には、艦隊に随伴していた特殊部隊・水上バイク艇隊が進攻。一部の部隊は印旛沼からさらに進み、新川の偵察・測量を開始。東京湾への航路開鑿を目論む。
●艦隊は外浪逆浦から霞ヶ浦・北浦に進撃、東関東内水を完全に制河権下に置き、新たに佐原軍港、銚子軍港、土浦軍港を設置。また鰐川から鹿島港へ運河を新規開鑿し、鹿島臨海工業地帯を占領、一大工業力を手中にする。
●作戦が一段落すると、工作艦隊は北浦北端部に集結、既存河川沿いに茨木軍の残存部隊を駆逐しながら、涸沼への運河開鑿を開始。既存河川と勘十郎堀跡を拡幅・浚渫し、複数の閘門を設け、涸沼~北浦航路が竣工。
涸沼川、那珂川下流部を制圧、東北関東ほぼ全域を手中に収める。
●他方、長門川、新川・花見川の大規模工事により、可航化改良と閘門設置が成り、利根川~印旛沼~東京湾航路が完成。湾奥進出が可能になり、千葉県沿海部も埼玉軍の脅威にさらされるようになる。
江戸川も関宿まで航路整備が完成、関宿閘門大型艦の通航ができるよう改修され、利根川上流までモニター艦の遡上が可能になる。
●東関東の内水完全制圧と、河川航路網の完成を祝い、古墳級モニター艦6隻を中心とした大観艦式が土浦軍港にて行われる。

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タグ : 埼玉河川軍
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