江戸川で貸しボートを楽しむ

幸いにも空は気持ちよく晴れて、水辺のお散歩にはいうことのない日和。今では貴重な存在となった、河川での貸ボート初体験とばかり、勢い込んで江戸川べりに立ったのでした。
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●江戸川はさておき、「川の貸しボート屋さん」への思い入れについて、そもそもに触れておきたいと思います。まずは下の古い絵葉書を買った理由から。話はそれからだ!(←何を威張っているのか)

●(大東京)淺草松屋・東武鐵道雷門驛
宛名・通信欄比率1:1、裏面切手欄下に「1932」、「MADE IN JAPAN SEKAIDO TOKYO」の銘あり。
●源森川、枕橋際にかつてあった、隅田公園駅から撮ったと思しき絵葉書。まだ竣工から間もない浅草雷門駅の威容、瀟洒なデザインの架線柱、向かってくる二挺パンタ・五枚窓の電車と、そそるディテールてんこ盛りな写真ですが、残念ながら、気になったのはそこではありません。

●この、「貸ボート」の赤い幟!
この幟が写っていることで、即購入決定。公園の池や濠などではない、「河川での貸ボート業」に、どういうわけだか、以前から妙に惹かれるものがあったのです。
●私の父の世代…戦前、昭和1ケタ~10年代前半生まれの方の話をうかがっていると、昭和2~30年代、隅田川はもとより、銀座・築地あたりの堀割では、ごく普通に貸しボート屋が見られたとのことでした。長じて、昔の東京を写した写真集を買い求めるようになり、当時の水辺が写っているのを見ると、なるほど話に聞いたとおり、貸しボートの看板をいくつか目にすることができました。
当たり前ながら、川ですから流れも干満もあり、汽船の往来による引き波もあるわけです。しかも、ブイで囲われたわけでもない、外界とつながった水面(ここ重要)で、自在に遊べる手漕ぎボートが、手軽に借りられた時代があったなんて! その事実だけで、なんだかもの凄くワクワクしてきます。水運の盛んだった時代、フネブネの間を縫って小舟を進めるなんて、ちょっとした冒険気分が味わえたのではないでしょうか。
●釣り師の視点から、明治~昭和初期の水辺を活写した随筆集、「わたしの隅田川 江戸前釣師七十年」(鈴木鱸生著)にも、「貸舟」に触れている一文がありました。
釣り人相手の船宿も、船頭付きの仕立舟だけでなく、ベカや小荷足などの小型舟を一日1円50銭~2円(大正末の値段)で貸したのだそうです。釣りの世界まで視野を広げてみると、「貸舟」という業態は、意外に歴史がありそうですね。
●もちろん、今の見方からすれば、都心の水路での貸しボート業が難しいことはいうまでもなく、絵葉書のような幟が見られたのは、残念ながら、遠い過去の風景となりました。
それでも都内から遠くないところに、今なおこうして、貸しボートで遊べる場所が現存しているのは、釣りという趣味があってこそでしょう。釣り愛好家の皆さんに、お礼を申し上げたいくらいです。

●…というわけで、やってきたのは地下鉄東西線のトラス橋上流、千葉県市川市は妙典小学校にほど近い堤防上。道に迷ってしまい、途中お店で道案内を請いながら、無料駐車場のあるここにたどりつきました。周りではバーベキューをしたり、お弁当を広げる家族連れで賑わっています。
堤防上から見下ろすと、高水敷から伸びる桟橋や小屋がいくつも見られ、ちょっとした船宿街といったところ。いや、船宿という呼び名は使われておらず、ここでは「〇〇遊船」という屋号が一般的のようですね。
【撮影地点のMapion地図】

●「遊船屋さん」がいくつもあって、目移りしていたところ、左に目を転じると、保安庁船艇らしい青い艇が…。事務所も、何かの船を転用したと思しきあたり、どこか惹かれるものがあって、堤防を下りてみました。

●ああ、この「貸しボート」の赤い幟…(涙)。都内ですでに失われた風景が、近郊に生き残ってくれていることに、ただ感謝。
外界と通じている大河川の本流とはいえ、上流を行徳可動堰で常時閉鎖されているという、いわば袋小路的な環境が、この「遊船屋さん」たちを今日まで盛業させたのでしょう。

●保安庁船艇らしいあのフネが気になったこともあり、「佐野遊船」さんにお世話になることに。来意を告げて1時間分の料金を払うと、係のお姉さんが人数分の救命胴衣と座布団を持って、桟橋の先まで案内してくれました。

●桟橋から例の艇に最接近できるところ、ちょうど真正面から。なんと、カディや錨甲板の上には鉢植えがぎっしり並べられていて、観葉植物というより作物っぽいものが、青々と葉を茂らせていました。
船体は干潟の上にどすんと座り込んで、もう久しいようです。これで人が住まっていたら、それこそ「青べか物語」のもっとも印象的な章、「芦の中の一夜」に登場する老人、幸山船長が住まう廃蒸気船さながら。その魅力にすっかり吸い寄せられてしまい、しばらく前から動けませんでした。
廃船にもかかわらず、物悲しい感じはみじんもなく、のどかで、どこか楽しげな感じもしますね。艇名は「はやて」、かつては海を疾駆したであろう堂々たる鋼製艇の、幸せな老後の姿といっていいかもしれません。

●事務所となっている船を後ろから。こちらは干潟からつっかい棒がかまされていて、水上の建屋として固定されているようでした。手続きをしていると、入口から可愛らしい子猫がミューミューと鳴きながら出てきて、思わずニッコリ。

●桟橋は結構な長さがあり、艇の預かりもされているのか、プレジャーボートも何隻か繋留されていて、小マリーナのおもむき。増水に備えてか、打ち込まれた鋼管の杭は3mくらいの高さが取ってあり、天端どうしは横木でつながれて、ジャングルジムのようでもあります。

●初めてのこととてもの珍しくて、あちこち引っかかってしまいました。ようやくお題のボートであります。乗る直前、お姉さんに、事務所と携帯の電話番号が入った名刺を渡され、もし戻れなくなったら、ここに電話してくれれば(機付きボートで)迎えに行きます、とのこと。
なるほど、広大な川で遊ぶのですから、こうした気遣いは大切ですね。昔の貸しボートは、このあたり、どうしていたのでしょうか。流されて戻れなくなったり、乗り捨ててそのまま、という例も、少なくなかったのかもしれませんね…。

●さて、勇躍漕ぎいだしてみたものの、加齢による衰えも手伝ってか、なかなか前に進みません。この日は北東寄りの風がやや強く、筋骨薄弱な船頭には、予想以上の抵抗になったのです。
写真を撮ろうと、少しでも櫂を休んだらてきめん、小面憎いほどスルスルスルッと、もといたところに吹き戻されてしまうありさま!

●そんなわけで、むしろボートに乗ってからの方が、写真が少ないという、だらしのない結果になってしまいました。
もしできるなら、更新工事中の行徳可動堰に近づいて、写真を撮りたいと思っていたのに…。桟橋から離れるだけでも、汗だくで一苦労するていたらく、夢のまた夢であることは、いうまでもありませなんだ(いや、それ以前に、可動堰から1km近く離れたところでボートを借りてしまった、というあたり)。

●風圧面積をできるだけ少なくするよう、風向きに正対して切り上がるのが精一杯。河道中央に碇泊している漁船を一周して、戻るだけに終わったのであります。
それでも、船首をたたくさざ波の音、ときおり水面から跳ね上がる魚の水音など、普段聞くことのない音を耳にできるのは楽しいもので、エンジンの爆音がない舟行きの醍醐味を味わったものでした。

●こちらは桟橋を離れた直後に撮った、「はやて」の姿。陽光を反射する干潟に、緑の土手を背にして悠然と座り込んだ青い船体。潮焼けた船員帽をかむった老船長が、甲板室からひょっこり姿を現わしそうなシーンでした。

●河道中央の漁船まで、およそ300mほどでしたか、30分以上をかけてかせいだ航程は、帰路の追い風で10分もたたず消費してしまい、たちまちもとの桟橋へ到着。翌日はお約束のように、筋肉痛に苦しみました。次は、風の穏やかなときに来てみたいなあ…。
ともあれ、気持ちのよい青空の下、あこがれていた「川の貸しボート」が体験できて、満足満足。ずらりと並んだ「遊船屋さん」がかもし出す、江戸川畔ののどかな雰囲気も、予想以上によいものでした。また訪ねてみたいものです。
(25年6月23日撮影)

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●(大東京)淺草松屋・東武鐵道雷門驛
宛名・通信欄比率1:1、裏面切手欄下に「1932」、「MADE IN JAPAN SEKAIDO TOKYO」の銘あり。
●源森川、枕橋際にかつてあった、隅田公園駅から撮ったと思しき絵葉書。まだ竣工から間もない浅草雷門駅の威容、瀟洒なデザインの架線柱、向かってくる二挺パンタ・五枚窓の電車と、そそるディテールてんこ盛りな写真ですが、残念ながら、気になったのはそこではありません。

●この、「貸ボート」の赤い幟!
この幟が写っていることで、即購入決定。公園の池や濠などではない、「河川での貸ボート業」に、どういうわけだか、以前から妙に惹かれるものがあったのです。
●私の父の世代…戦前、昭和1ケタ~10年代前半生まれの方の話をうかがっていると、昭和2~30年代、隅田川はもとより、銀座・築地あたりの堀割では、ごく普通に貸しボート屋が見られたとのことでした。長じて、昔の東京を写した写真集を買い求めるようになり、当時の水辺が写っているのを見ると、なるほど話に聞いたとおり、貸しボートの看板をいくつか目にすることができました。
当たり前ながら、川ですから流れも干満もあり、汽船の往来による引き波もあるわけです。しかも、ブイで囲われたわけでもない、外界とつながった水面(ここ重要)で、自在に遊べる手漕ぎボートが、手軽に借りられた時代があったなんて! その事実だけで、なんだかもの凄くワクワクしてきます。水運の盛んだった時代、フネブネの間を縫って小舟を進めるなんて、ちょっとした冒険気分が味わえたのではないでしょうか。
●釣り師の視点から、明治~昭和初期の水辺を活写した随筆集、「わたしの隅田川 江戸前釣師七十年」(鈴木鱸生著)にも、「貸舟」に触れている一文がありました。
釣り人相手の船宿も、船頭付きの仕立舟だけでなく、ベカや小荷足などの小型舟を一日1円50銭~2円(大正末の値段)で貸したのだそうです。釣りの世界まで視野を広げてみると、「貸舟」という業態は、意外に歴史がありそうですね。
●もちろん、今の見方からすれば、都心の水路での貸しボート業が難しいことはいうまでもなく、絵葉書のような幟が見られたのは、残念ながら、遠い過去の風景となりました。
それでも都内から遠くないところに、今なおこうして、貸しボートで遊べる場所が現存しているのは、釣りという趣味があってこそでしょう。釣り愛好家の皆さんに、お礼を申し上げたいくらいです。

●…というわけで、やってきたのは地下鉄東西線のトラス橋上流、千葉県市川市は妙典小学校にほど近い堤防上。道に迷ってしまい、途中お店で道案内を請いながら、無料駐車場のあるここにたどりつきました。周りではバーベキューをしたり、お弁当を広げる家族連れで賑わっています。
堤防上から見下ろすと、高水敷から伸びる桟橋や小屋がいくつも見られ、ちょっとした船宿街といったところ。いや、船宿という呼び名は使われておらず、ここでは「〇〇遊船」という屋号が一般的のようですね。
【撮影地点のMapion地図】

●「遊船屋さん」がいくつもあって、目移りしていたところ、左に目を転じると、保安庁船艇らしい青い艇が…。事務所も、何かの船を転用したと思しきあたり、どこか惹かれるものがあって、堤防を下りてみました。

●ああ、この「貸しボート」の赤い幟…(涙)。都内ですでに失われた風景が、近郊に生き残ってくれていることに、ただ感謝。
外界と通じている大河川の本流とはいえ、上流を行徳可動堰で常時閉鎖されているという、いわば袋小路的な環境が、この「遊船屋さん」たちを今日まで盛業させたのでしょう。

●保安庁船艇らしいあのフネが気になったこともあり、「佐野遊船」さんにお世話になることに。来意を告げて1時間分の料金を払うと、係のお姉さんが人数分の救命胴衣と座布団を持って、桟橋の先まで案内してくれました。

●桟橋から例の艇に最接近できるところ、ちょうど真正面から。なんと、カディや錨甲板の上には鉢植えがぎっしり並べられていて、観葉植物というより作物っぽいものが、青々と葉を茂らせていました。
船体は干潟の上にどすんと座り込んで、もう久しいようです。これで人が住まっていたら、それこそ「青べか物語」のもっとも印象的な章、「芦の中の一夜」に登場する老人、幸山船長が住まう廃蒸気船さながら。その魅力にすっかり吸い寄せられてしまい、しばらく前から動けませんでした。
廃船にもかかわらず、物悲しい感じはみじんもなく、のどかで、どこか楽しげな感じもしますね。艇名は「はやて」、かつては海を疾駆したであろう堂々たる鋼製艇の、幸せな老後の姿といっていいかもしれません。

●事務所となっている船を後ろから。こちらは干潟からつっかい棒がかまされていて、水上の建屋として固定されているようでした。手続きをしていると、入口から可愛らしい子猫がミューミューと鳴きながら出てきて、思わずニッコリ。

●桟橋は結構な長さがあり、艇の預かりもされているのか、プレジャーボートも何隻か繋留されていて、小マリーナのおもむき。増水に備えてか、打ち込まれた鋼管の杭は3mくらいの高さが取ってあり、天端どうしは横木でつながれて、ジャングルジムのようでもあります。

●初めてのこととてもの珍しくて、あちこち引っかかってしまいました。ようやくお題のボートであります。乗る直前、お姉さんに、事務所と携帯の電話番号が入った名刺を渡され、もし戻れなくなったら、ここに電話してくれれば(機付きボートで)迎えに行きます、とのこと。
なるほど、広大な川で遊ぶのですから、こうした気遣いは大切ですね。昔の貸しボートは、このあたり、どうしていたのでしょうか。流されて戻れなくなったり、乗り捨ててそのまま、という例も、少なくなかったのかもしれませんね…。

●さて、勇躍漕ぎいだしてみたものの、加齢による衰えも手伝ってか、なかなか前に進みません。この日は北東寄りの風がやや強く、筋骨薄弱な船頭には、予想以上の抵抗になったのです。
写真を撮ろうと、少しでも櫂を休んだらてきめん、小面憎いほどスルスルスルッと、もといたところに吹き戻されてしまうありさま!

●そんなわけで、むしろボートに乗ってからの方が、写真が少ないという、だらしのない結果になってしまいました。
もしできるなら、更新工事中の行徳可動堰に近づいて、写真を撮りたいと思っていたのに…。桟橋から離れるだけでも、汗だくで一苦労するていたらく、夢のまた夢であることは、いうまでもありませなんだ(いや、それ以前に、可動堰から1km近く離れたところでボートを借りてしまった、というあたり)。

●風圧面積をできるだけ少なくするよう、風向きに正対して切り上がるのが精一杯。河道中央に碇泊している漁船を一周して、戻るだけに終わったのであります。
それでも、船首をたたくさざ波の音、ときおり水面から跳ね上がる魚の水音など、普段聞くことのない音を耳にできるのは楽しいもので、エンジンの爆音がない舟行きの醍醐味を味わったものでした。

●こちらは桟橋を離れた直後に撮った、「はやて」の姿。陽光を反射する干潟に、緑の土手を背にして悠然と座り込んだ青い船体。潮焼けた船員帽をかむった老船長が、甲板室からひょっこり姿を現わしそうなシーンでした。

●河道中央の漁船まで、およそ300mほどでしたか、30分以上をかけてかせいだ航程は、帰路の追い風で10分もたたず消費してしまい、たちまちもとの桟橋へ到着。翌日はお約束のように、筋肉痛に苦しみました。次は、風の穏やかなときに来てみたいなあ…。
ともあれ、気持ちのよい青空の下、あこがれていた「川の貸しボート」が体験できて、満足満足。ずらりと並んだ「遊船屋さん」がかもし出す、江戸川畔ののどかな雰囲気も、予想以上によいものでした。また訪ねてみたいものです。
(25年6月23日撮影)

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