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合同汽船・佐陀川航路覚え書き

(『生きている大運河・佐陀川…9』のつづき)

115098.jpg今年3月に出雲・佐陀川を訪ねた帰り、松江市立中央図書館に立ち寄って、佐陀川航路や合同汽船について、書かれた文献をいくつかご紹介いただきました。その中から、運河として躍動していた往時を髣髴できそうな部分を、以下に紹介させていただきます。

残念ながら、佐陀川を走る汽船の写真は見つけることができず、松江は大橋川を写した絵葉書が中心となりましたが、内水航路華やかなりし時代の雲伯地域、そして佐陀川を走っていたであろうフネブネをイメージできればと、6枚を選んでみました。
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「(松江)松江大橋」
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。

115100.jpg明治44年に竣工した16代目の松江大橋と、八軒屋町の汽船ターミナルを、北岸から写したもの。松江絵葉書ミュージアムの「松江の橋」によれば、北詰に5階建てのビルがあり、その上より写したものも掲載されているので、恐らく同一地点からの撮影によるものだろう。

船着場には、比較的大型の汽船が3隻と、小型の汽船が1隻接岸しているのが見える。大型のものは安来、米子、美保関に向かう中海航路(通称『東航路』)、小型のものは一畑、佐陀川航路(通称『西航路』)だろうか。



始まりは外輪川蒸気だった

雲伯地域の内水に、最初に登場した定期航路の汽船は、「波濤丸」なる外輪蒸気船で、明治11年のこと(同8年説もあり)。
内藤新七という人物が大阪に出かけた際、蒸気船の走るのを見て導入を決意し、地元戸長などから応援を仰いで、当時の金額で2000円の蒸気船を購入。30人乗りといいますから、川蒸気としても小型の部類に属するものだったでしょう。
明治一桁台の建造となれば、我が国の蒸気船の中でも初期の部類に属しますから、船型や造船所を知りたいところですが、残念ながら詳しいことはわかりません。

もっとも、「波濤丸」の活躍は短く、従来からある4丁艪漕ぎの早船が、8丁まで艪数を増やして競争を始めると、その速度に追いつかなかったことに加えて、地元業者の反発も根強かったので、わずか1年あまりで売却されてしまったそうです。

この後、明治15年に中島伊八が米子~松江間に就航させた、やはり外輪船の「第一玉島丸」に至って汽船航路が定着。その成功に刺激されて、蓬莱社、米子汽船などの船社が続々と、宍道湖や中海に航路を開設、群小船社による激しいサービス合戦の時代に入ってゆきます。



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「松江 出雲富士ノ遠望(伯耆大山)」
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。「名古屋・澤田文精社謹製」の銘あり。

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「(松江)出雲富士の遠望」
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。

115111.jpg松江大橋の上、偶然にもまったく同一地点から、東を望んで撮影された2枚。どちらが先に撮影されたかはわからないが、上のものにはない「汽船のりば」の看板が見られることから、下の方が少し後の撮影のように感じられる。いずれも出船入船賑やかな、汽船ターミナルの様子が見事にとらえられている。

下のものはめずらしく船名が判読でき、手前の岸を離れる船の船首に「千鳥丸」とある。松江城の別名、千鳥城から採った名前だろうか。かなり小型の客船だが、後半部の船室は2層のようで、また後ろには客用艀らしい、オーニングを張った船を曳航しているようだ。
ちなみに、「佐陀川の効用 ―新田開発と航路をめぐって―」によれば、「千鳥丸」は佐陀川航路の定期船だったという。




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「(松江名所)大橋川より出雲富士を望む」
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。

115102.jpgやはり小型発動機船を撮った一枚。屋根上は両舷灯のケーシングと、ハッチらしいものをのぞけば、モニターやベンチレーターも見られないフラットな造り。右舷後端に見える黒い棒状のものは、発動機の排気管だろうか。

船は東、中海へ向かっているので、右手は大橋川南岸ということになるが、多くの機付き木造漁船がもやっているのに目を引かれる。マストの高さから橋はくぐれそうもないので、中海~境水道経由で日本海へ出漁する漁船たちと思われる。



魚商人が支えた佐陀川航路

佐陀川が開鑿されて後、河口である恵曇は、雲伯各地から舟運によって集められてくる、回米の積出港として活況を呈しましたが、魚介類の供給路としても利用されるようになりました。日本海側で水揚げされた海産物は、米とは逆のルートをたどって佐陀川をさかのぼり、松江、米子をはじめとする内水沿岸の大消費地へ、舟で直接運ばれるようになったのです。

やがて恵曇には、漁師から海産物を買い取り、町へ行商することを専業とする、「魚商人」という業態が成立するようになりました。明治5年にはすでに47人の魚商人がおり、戦前の最盛期であった昭和8~14年に至っては、300人を数えたとのこと。当然移動には船を利用したので、航路の収益に及ぼす影響は、大きなものがあったことでしょう。

佐陀川に就航した最初の汽船は、明治40年設立の江角商業による貨客船「江角丸」といわれていますが、同年各船社の合併によって誕生した合同汽船も、遅れて明治45年から佐陀川航路を開設。艪走や帆走、曳船道からの人力曳航に頼っていた魚商人の往来も、乗り合いによる汽船時代を迎えることになりました。

汽船就航の初期には、魚商人の乗る和船が、ときに「江角丸」へ曳航を依頼することもあったとのこと。この点、利根川水系における高瀬舟と通運丸の関係を思い起こさせて、興味深いものがありますね。

大正末に至って、舶用内燃機関の普及から漁船の動力化が進むようになると、魚商人専用船にも発動機船が登場するようになります。恵曇の「正栄丸」がその草分けとされ、昭和3年の許可申請書によると、総トン数4.8t、主機石油発動機(焼玉エンジンと思われる)10馬力というスペックで、恵曇村の江角から松江、楫屋、遠く大根島までを結び、魚商人の商圏拡大に貢献しました。

もっとも多いときで、このような魚商人専用の運搬船が、10数隻も佐陀川に就航していたとのこと。昭和初期の佐陀川航路は、魚商人とともにまさに最盛期を迎えたのです。


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「(松江名勝)宍道湖上より千鳥城を望む」
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。「松江驛池田賣店」の銘あり。

115104.jpg松江城をバックに、客用艀を曳く小型汽船。2隻ともあふれんばかりの超満員状態で、撮影地点は大橋川西口、現在の宍道湖大橋の南詰あたりか。

船上の混雑ぶりからすると、あるいは佐太神社の祭礼の日で、佐陀川に向かう便なのだろうか。もっとも船の向きからすると、宍道湖南岸を目指しているようにも見える。いずれにせよ、汽船航路の利用度の高さがうかがえる一枚である。




戦後の佐陀川航路

戦時中、食料や燃料の統制が始まると、魚商人の活動はもとより、運搬船の運航は大きな打撃を受け、合同汽船の定期便を除いて、個人船主による発動機船は、全てが廃業の憂き目に遭うことになってしまいました。
戦後統制が解かれ、ふたたび魚商人の活動が盛んになると、戦前のように魚商人専用船が望まれるようになり、海運局に宛てて請願も出されましたがどういうわけか認可されず、隆盛を誇った魚商人運搬船は、ここに終止符を打たれたのです。

佐陀川を走る唯一の定期汽船となった、合同汽船恵曇線は、戦後急速に発達した、バスなど陸上交通に押されて、昭和33年に廃止。約170年続いた実用舟運路としての佐陀川に、終止符を打ちました。
末期といってよい、昭和27年の発着時刻は以下のとおりです。なお、同年の恵曇~松江間の料金は30円でした。

【往路】恵曇発6:40→本郷7:00→佐太7:10→松江着8:00
【復路】松江発14:00→佐太14:50→本郷15:00→恵曇着15:15



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「(伯耆)境港内及海岸通リ」
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。「JUSHINDO HATTORI Yodobashi Tokyo」の銘あり。

115106.jpgこれは合同汽船と関係ないが、珍しい写真なのであえて紹介。ご覧のとおり潜水艦を写したもので、場所は境港。外観と艦橋側面に書かれた数字から、第一次大戦後に、ドイツから取得した7隻の戦利潜水艦の1隻「〇七」(旧UB143)と思われる。

人々が集まっている様子から、一般公開中であることは間違いなく、戦利品として、各地を巡回展示させていたのだろう。ちなみに7隻は技術習得などの目的で調査研究された後、大正10~11年に解体されたという。

潜水艦の向こうには2隻の航洋汽船が見えるが、左手の汽船のファンネルマークは大阪商船の「大」に見える。大阪~境港航路の船だろうか。




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ここで現代に戻って、本年3月16日に訪ねた松江大橋の姿を。昭和12年10月竣工、鋼鈑桁橋ながら、擬宝珠をいただいた和風の高欄を設けたあたりに、長らく大橋川唯一の橋だった誇りが感じられます。

カメラを構えた場所こそ、南詰の八軒屋町、かつて合同汽船が一大汽船ターミナルを構えた河岸であります。現在は、小さいながらこぎれいな公園となって、一部に残る石垣護岸に往時をしのぶことができ、また現橋架橋時に殉職された深田清技師、慶長年間の初架橋時に人柱となった源助と、二人物の慰霊碑もあります。
撮影地点のMapion地図

115108.jpgおまけ…。上の写真の隅にポツンと入っていた、オオバン君が気になってしまい、ズームでたぐり寄せてみました。可愛らしく撮れて、トリ好き冥利であります(笑)。

いずれ再訪する機会があったら、今度は大橋川・宍道湖に唯一残る定期航路、白鳥観光の遊覧船に乗ってみたいですねえ。



【参考文献】
佐陀川の効用―新田開発と航路をめぐって― 清原太兵衛顕彰会
恵曇の魚商人 鹿島町教育委員会
鹿島町史 鹿島町
恵曇の今昔 恵曇公民館・恵曇の今昔を記録する会
新編 松江八百八町町内物語 荒木英信 ハーベスト出版
清原太兵衛―佐太川の開さく― 清原太兵衛顕彰会
「放送」あの日あの頃~JOTK70年のあゆみ~ 日本放送協会松江放送局
航路案内 合同汽船発行 (本記事冒頭、龍雲丸の写真を転載)
歴史群像シリーズ 日本の潜水艦パーフェクトガイド 学習研究社

(この項おわり)

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タグ : 大橋川合同汽船松江絵葉書・古写真

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