大貫運河跡を訪ねて

(『大洗磯前神社にて』のつづき)

117026.jpg大洗磯前神社に参拝した後は、鹿島臨海鉄道大洗駅にほど近い、江戸時代に造られた水路・大貫運河の跡を訪ねてみました。

大貫運河は、勘十郎堀ともいわれ、涸沼~巴川間に開鑿されながらも、実用に堪えず短期間で廃止された同名の運河(別名紅葉運河、過去ログ『勘十郎堀…1』『勘十郎堀…2』参照)と同じく、経綸家の松波勘十郎によって造られた運河でした。かつては涸沼川の中流部から、大洗の海浜に至る約1kmの全長がありましたが、現在はほとんどが埋め立てられ、わずかな水面を残すのみとなっています。

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117027.jpg上の写真は、涸沼川に接する大貫運河の残存区間、東端から西を望んで。

右の写真は、同じ場所から振り返って東側を見たところで、しばらく空き地が続いた後、旧水路敷は道路に吸収されています。左手の金網で囲まれた一角は、下に掲げたゲートに続く、暗渠の排水機場のスペースです。
撮影地点のMapion地図

大貫運河は、暗礁が多く、難船の危険が高い当時の那珂川河口の代替航路、いわば人工の河口港として計画されたそうです。同時に施工された紅葉運河と併せて、涸沼~紅葉運河~巴川~北浦から利根川筋へと結ぶ、内陸舟運ルートの一端として機能させることを目指した、壮大な構想でありました。

涸沼川の拡幅など、周辺の航路整備も同時に行われ、宝永4(1707)年の秋に竣工したものの、同年年末には流砂で早くも河口が閉塞し、紅葉運河同様、所期の目的を達しないまま放棄されたとのこと。
袋小路となった水路はその後も長く残り、地元では堀川と通称され、近年までかなりの区間が残存していましたが、昭和62年8月からの工事で一部を残して埋め立てられ、水路敷は道路などに転用されました。
(参考:常陽藝文・昭和63年7月号、『藝文風土記・幻の運河・勘十郎堀』)

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残存区間は、ご覧のとおり現在は船溜として活用されています。両岸はテラス状の岸壁として整備され、手前には階段とスロープが設けられていました。写真右手には、漁協の詰所もあったことから、この船溜は漁協の設備として管理されているのでしょう。整頓されてはいますが、船影は決して多くなく、閑散とした印象ではあります。

仙台などから回米を輸送してきた大型和船が、大洗の長汀に切り開かれたこの運河に、巨体をねじ込むようにして静々と入港し、涸沼川に碇を降ろすシーンを妄想。廻船の航路としては、ちょっと狭いようではありますが、元はもっと幅が広かったのかもしれません。

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117030.jpg船溜の東端には、小さなスライドゲートがありました。埋め立てられたとはいえ、もともと運河へ排水していた下水のたぐいを動かすことは難しいわけで、かつての沿岸の雑排水は、今もここへ集められているのでしょう。

銘板はないかな…と探してみたものの、それらしきものはなし。それに近いものは、ゲート巻上装置のメーカーズプレートのみでした。福岡県、西部電機とのこと。


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117032.jpg水面にあった数少ない漁船たち。先ほど中丸川で見たそれと似た雰囲気ながら、船首の造りが一本ミヨシなのが違います。細身の船体や舷側の低さからして、内水専用の舟なのでしょうね。

船影は、むしろ船溜から出た、涸沼川沿岸の方が賑やかでした。新緑も鮮やかな木々や、桜(?)のさしかける枝の下という風流な船溜。南西側は、ご覧のとおり緑濃い丘で、涸沼川を走る艇から眺めたら、大屈曲区間ということも手伝って、さぞ風光明媚な川景色でしょう。

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船溜の出口から西側、ズームでたぐり寄せた国道51号線・涸沼川橋を望んで。ゆったりとした流れと、沿岸に点々とみられる船溜がいい雰囲気です。

江戸時代以来、いくつかのルートが何度も計画されては潰えた、涸沼~北浦間の水路開鑿が成っていれば、東北・北関東と江戸を結ぶ、物流のメインラインたりえたかもしれない、この川面…。利根運河とともに、可航水路として残されていれば、それこそ東京から水戸まで、自分の艇でロングランすることもできたわけだ! …と、例によって詮ない妄想がむくむくと。

117034.jpg船溜を南岸の出口近くから眺めて。周囲の標高は比較的高く、南北は小高い丘に挟まれていることから、開鑿に当たっては結構な土工量があったのではないでしょうか。南北の丘はもともと連続していて、丘そのものを切り崩した可能性もあるように思える地勢でした。

視線を左に転じると、ちょっと意識を吸い寄せられるものが…。


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おおお、すごく立派な舟屋ですね! 三方に壁も造りつけられて、ちょっとしたガレージのおもむき。これで2階に住居でもついていれば、ボートオーナー垂涎の好物件といったところでしょうか。

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最後に船溜北側にある河畔の公園、桜道公園のあたりから、涸沼川を見下ろして。写真中央の丘が、先ほど見た桜の下の船溜があった丘で、その左手が運河跡の入口です。

大貫運河の開鑿が成功していて、ここが「新・那珂湊」となっていれば、南と東側に丘があるため、海からの風を防ぐ良港となっていたことが想像されます。河口の堆砂を防ぐ、砂防堤などの手だて(当時の技術では、難しかったとは思いますが)が講じられていれば、あるいは大洗港の出現が、2世紀以上早まっていたかもしれませんね。
撮影地点のMapion地図

(25年4月14日撮影)

(この項おわり)

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タグ : 大貫運河 勘十郎堀 涸沼川

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