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生きている大運河・佐陀川…0

(『新内藤川水門』のつづき)

115046_20130407183647.jpg江戸期かそれ以前に開鑿・整備された川や運河が、今も昔と変わらぬ可航状態を維持している例は、残念ながら少ないといってよいでしょう。

水こそかつて同様に流れていても、河床が上がるなど航路としては荒廃しているか、治水・利水用途に限った整備がなされ、舟航機能は切り捨てられたかたちになっているものがほとんどです。

ところが、ここ雲伯地域には、江戸時代に開鑿されながら、今なお可航水路として息づいている運河があるのです。それも、島根半島を横断し、山並を縫って宍道湖から日本海へ抜ける、文字どおりの大運河が! 遅ればせながら、それに気づかされたときの感動ったらありませんでした。まずはそもそもからお話ししたいと思います。

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だいぶ前のことになります。米子を何度か訪ねてから興味を覚え、このあたりを写した昔の絵葉書(『21年2月6日の旧加茂川』参照)や、鳥瞰図のついた観光案内を、折りに触れては買い求めるようになりました。

入手した観光案内のうち、「合同汽船」なる船社の発行したものがいくつかあり、「さすが宍道湖・中海の二大内水を擁する雲伯地方、近代に入っても、水上交通が盛んだったんだなあ」と、さらに興味をそそられて、鳥瞰図をまじまじと眺めるようになったのです。

興味が湧いてきたとはいえ、川汽船の姿を目にできたわけではないので、この時点ではさほど惹かれていたわけではありませんでした。

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「中海宍道湖 航路御案内」
522mm×127mm 発行者:合同汽船株式会社 
発行年不詳(昭和3~5年か)

ところが、上に掲げた合同汽船発行になる鳥瞰図を、改めて眺めていたら…。

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河川航路が描いてある!!

松江のすぐ西の宍道湖畔から、山間を縫うように蛇行して、日本海側に抜けている水路! 赤い線で囲まれた地名は、寄港地を示していますから、川の途中にも「河岸」がある(あった)ことになります!

いや~、素敵じゃないですか! 松江にも河川航路があったなんて、知りませんでした! どんな船が走っていたんだろう? 外輪蒸気船か、それとも暗車発動機船かな? 大きさはどのくらいだっただろう? 航路はいつ廃止になったんだろうか? …など、など、気になることが次々と浮かんで、頭の中をぐるんぐるんと回ります。

115050.jpg現金なもので、河川航路の登場にがぜんヤル気が奮い立ち、あわてて裏面の説明文を読んでみると、航路の説明がありました。

松江から中海に出て、境港・美保関に至る「美保関線」。安来など中海南部の諸港を経て、米子に至る「東航路」、そして最後に本命、「西航路」。恵曇(えとも)港の項目に、「宍道湖より日本海に通ずる運河の終點にあり、漁港として修築中、海水浴場あり。」

この水路、運河だったんだ! いつごろ、どんな理由で造られたものだったんだろう? 何か手掛かりはないかしらと、手持ちの本をひっくり返したり、検索したりと調べてみると…。

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ホンモノのGoogleマップで佐陀川を見る

まず「明治前 日本土木史」(真田秀吉著、昭和31年5月発行、日本学術振興会)に、「佐陀運河」の項目を発見。う~ん、ずいぶん前から本棚にあったのに、ここに載っているのに気づかなかったとは、うかつでありました。
(ちなみにたびたび引用している、矢野剛の『運河論』には記述なし。なぜ?)

冒頭には注記として、「佐陀川とも称し」、とありました。現在はむしろ、後者の名で呼ばれているようですね。

記事を要約してみましょう。
佐陀川は「宍道湖畔佐陀浜から日本海の江角港に達する延長二里余の水路で、宍道湖の排水を兼ねたもの」、開鑿の動機を「宍道湖の排水を良くし、湖岸の水害を免るると共に航通の利便を得る目的」であると、まずは簡潔に紹介。

古代の宍道湖が入り海で、周辺河川からの流砂の堆積などにより、東西が次第に陸化し閉塞したことに触れ、寛永12(1635)年の大洪水で、西の杵築海(大社湾)に注いでいた斐伊川が、河道を東遷させて、宍道湖に河口を向けたことから、松江城下を含む湖畔には水害が頻繁に起こるようになり、ためにこのころから、排水路の建設が唱えられるようになったそうです。

佐陀川の開鑿が許されたのは、それから約150年を経た、天明4(1784)年のこと。松江藩につかえていた清原太兵衛という人物が、長年に渡り、12回も運河開鑿を願い出て、この年ようやく許可されたとのこと。清原太兵衛の役職は普請方吟味役といって、寛保4(1744)年の松江大橋架け替えも担当したそうですから、いうなれば土木工事を差配する役職だったのでしょう。

太兵衛は着工のとき実に74歳、潟湖の泥濘地での難工事や、住民の反対に遭うなど苦心の末、天明8(1788)年1月に完成。盛大な竣工式が行われたものの、残念ながら太兵衛はその前年11月、76歳で没したとのことです。

延長二里…つまり約8㎞!
大運河じゃないですか。 

74歳という、当時としては超高齢で世紀の大工事の指揮をとった、太兵衛という人物への畏敬の念もさることながら、これだけの大運河が225年前に造られ、なお現存していることに感動しました。潟湖や既存の河道をつなげる形で開鑿したにせよ、8kmあまりもの水路を維持してゆくのは、並大抵のことではありません。

それに、後年汽船航路にまでなったということは、排水路としてだけでなく、長きに渡って航路としての利用があり、そのための整備もされてきたということでしょう。
ぜひ、ぜひ現地を訪ねて、佐陀川をこの目で見てみたい!

115049.jpgさて、合同汽船の方はというと、検索してまずヒットしたのが、「昭和の残像 合同汽船(松江市)」(島根県HP)。宍道湖・中海全域に航路網を広げたこの船社も、陸上交通の発達に押され、最後は松江~大根島航路のみとなり、それも昭和55年9月30日に廃止されたとのこと。

掲載された客船の写真を見ると、錆が目立ちいかにも廃止直前、といったくたびれた風情で、物悲しい雰囲気が漂っています。操舵室横に旧郵政省のマークが描かれていることから、郵便業務も行っていたことが知れ、興味深いものがありますね。

ちなみに、右の回数券は、観光案内や絵葉書とともに入手したものですが、まさにこの大根島航路のもの。地紋もない、文字だけの印刷がチープな感じですね。表示された運賃からすると、昭和40年代前後? この点ご教示いただきたいものです。

合同汽船の消長はもとより、雲伯地方の内水汽船史をまとめられていたのが、船舶ファン・ななまる氏のブログ「津々浦々 漂泊の旅」の記事、「合同汽船設立の頃」。

貴重な船影の古写真とともに、草創期から船社乱立時代を経て、合同汽船が設立され、さらに現在の湖上観光船まで、簡潔かつ濃厚(?)にまとめられた、船好きの氏ならではの興味深い記事です。ぜひご覧ください。

以上のように、佐陀川や合同汽船については、お陰さまでひととおりの知識が得られたものの、佐陀川航路そのものについては、この時点では極めてソースが少ない状態。特に写真が乏しく、佐陀川を走る船の写真が載っていたウェブ上の記事は、私が探したかぎりでは、以下の二つのみでした。

一つは、松江市のサイト上にあったPDF(タイトル不明)のうち、「6.宍道湖、佐陀川に見られる歴史的風致」の95ページに2枚の写真があり、うち1枚は、発動機船らしい合同汽船の一隻が、佐陀川を走っているものでした。この記事、佐陀川開鑿についても、古地図を掲げて詳しく述べられており、他の歴史記事も読みでがあります。

もう一つは、市報松江2006年7月号のコラム、「佐陀川の新たな恵み」に、小さな写真ながら「昭和初期の合同汽船 佐太神社お忌みさん参拝の様子」とキャプションをつけた、やはり発動機船らしい写真が。

恵曇から汽船に乗って魚を行商する人や、佐太神社参詣に利用されたことが触れられ、やはり地域にとって、重要な交通手段だったことがうかがえます。 記事中、佐陀川再航路化の取り組みに触れられているのも、気になりますね。

仕方のないこととはいえ、これではいかにも物足りません。佐陀川を訪ねるだけでは飽き足らず、機会があったら、現地の図書館で調べてみたいものだと、もりもりと欲望が肥大しはじめ、このときから計画を練り始めたのでありました。

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さて、お話は3月15日に戻ります。用足しを済ませた後、この日は松江に1泊しました。松江しんじ湖温泉駅の近くで、宍道湖畔へお散歩に出て、美しく暮れなずむ空を一枚。

明日はいよいよ、生きている大運河・佐陀川を訪ねるんだと思うと、武者震いのする思い。時間が限られているので、毎度のことながら駆け足になるでしょうが、どんな川景色が息づいているのか、この目でしっかりと眺め回したいものです。
撮影地点のMapion地図

(25年3月15日撮影)

(『生きている大運河・佐陀川…1』につづく)

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タグ : 佐陀川合同汽船

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