来原岩樋を訪ねて…2
(『来原岩樋を訪ねて…1』のつづき)
●散策道を登りきって、岩樋の直上から西側をのぞき込んでみたものの、ご覧のとおり、水門の天端が少し見えるのみ。繁みがもうちょっと刈り込まれていたら、せめて切通し区間の岩肌が見えるのに…。
「岩樋公園」を名乗りながら、肝心のご本尊がなかなか拝めないことに、少々がっかりしていたのですが、この後、興味深い物件の出現に、下がりかけていたテンションが再上昇することになりました。
【▼「続きを読む」をクリックしてご覧ください】
●岩樋の直上を過ぎると、落ち葉の積もった階段は、曲がりくねった下り坂に。この下に行けば、岩樋の呑口が見られるのかしら。
ウェブ上の記事に載せられた写真では、水門の前や上から、間歩をのぞきこんだアングルが多く、斐伊川側の様子は紹介されていなかった(私が知らないだけかも)ので、どんな風になっているのか、楽しみではあります。

●階段を下りきったところに現われたのは…、おおお、コンクリート製の小屋が。岩肌にへばりついたような建て方からして、呑口の上に設けられた、巻上機室みたいなものかしら? 妻板上部中央と、右端の中ほどには、それぞれ青銅色の銘板らしきものも見えますね。
小屋も大いに気になったものの、その立地の異様さの方に、まず意識が持ってゆかれてしまいました。何しろ…。

●三方が壁や法面に囲まれた、竪穴のような場所だったからです。しかも、つい今しがた完成したばかり、といった感じの、でき立てホヤホヤなま新しさ。左手を走る道路は県道26号線、ひっきりなしにクルマが通る賑やかさも、岩樋の置かれた異様さを助長しているようです。
どうやら、道路を含めた斐伊川の堤防に、大改修が行われたようですね。昔からこんな風だったのでしょうか?

●道路に面した散策道の出口に、岩樋公園の案内図がありました。すっかり色あせて図のディテールは判然とせず、説明の文字に至っては消えかかっているありさまで、ガードレールや舗装の真新しさと対照的ですが、古いものをそのまま移設したのかしら。
ともあれ、図を見ると、以前の道路はもっと岩樋寄りを走っていた模様。今以上に閉塞感のある、ぎゅう詰めの光景が展開されていたのか…。それとも、堤防と道路の高さは、もっと低かったのでしょうか。

●道路に出たついでと、渡って斐伊川を眺めることにしました。古くから、砂鉄採取の「鉄穴流し」による堆砂で河床が上がり、天井川となっただけでなく、元来西へ向かっていた河道が、洪水で東へ変わってしまったという、変わった歴史を持つ川ですが、ここから眺めた川面も、それを髣髴させる砂洲の多さでした。
手前に見える、これまたピカピカの樋門は、来原岩樋の現在の呑口に当たるものですね。法面や階段のコンクリートもまぶしい白さ、本当に最近の完成なのが実感できました。

●表に回って、ホヤホヤの樋門君を記念撮影してから、堰柱に近寄って銘板を読んでみると…。
何と、昨年の今月竣工。満一歳の誕生月だったのですね。名前は居越水門。樋門と水門の類別が、地方によってあいまいなのを見ると、過去ログ「知多半島の水門」で紹介した、新江川樋門を思い出します。

●居越水門の下流側には、重機が盛んに動き回って土工中。堤防だけでなく、高水敷も併せて大改修といったところでしょうか。
岩樋公園に着いたころから、流水が茶色なのがちょっと気になっていたのですが、すぐそばで土をかきまわしているのですから、むべなるかなであります。

●さて、斐伊川や水門も眺めたことだし、ご本尊の岩樋へ、呑口の気になる小屋へと戻りましょう。しかし、道路からのぞくと、改めてその異様さが際立ちますね。建物をかぶせた中で現地保存されている、発掘済みの遺跡のようでもあります。
まあ、堤防の機能だけ考えれば、通水は樋管で確保しておき、岩山に接するまで埋め立ててしまった方がよいものを、こうして残しているのですから、少なくとも、顕彰してゆく気持ちはあるに違いありません。

●小屋の簡素な外観とはうらはらに、銘板は、思った以上に立派なものでした。篆書体というのでしょうか、「来原岩樋 元禄年間 大梶氏開鑿 島根県知事 男爵 大森佳一毫」(間違っていたら乞うご指摘)とあります。
文字数の限られた中で、簡潔に歩んできた星霜と、高瀬川開鑿から関わってきた、大梶家をも顕彰したその心意気。書体のかもし出す、荘厳な雰囲気も手伝っていたのでしょうが、深い、深い感動がありました。
●この小屋、一見きれいに見えるけれど、かなり古いものかもと、右端に掲げられた、もう一枚に近づいてみると…。「岩樋上屋改築 昭和五年五月」。昭和一桁だったか! 改築とくれば、少なくともそれ以前から、この上屋は存在していたことになります。
改築が成った昭和初期、まだそのころは閘門として機能していて、通船はあったのかなあ…。関東を代表する江戸期の閘門・見沼通船堀は、外観はそのまま、大正時代まで稼働していたそうですから、そんな妄想もしたくなろうというものです。

●上屋が貴重なものとわかったからには、中を見ずして帰るわけにはまいりませなんだ。鉄格子の間から、のぞき込んでみると…おおおお!
横に寝かせた荒削りな軸に、二本の車力棒が差し込まれ、クサビで留められている…神楽算(カグラサン)、和船でいう轆轤(ロクロ)…つまり、人力の巻上機だ!
上屋の壁はコンクリート製ながら、軸受けのある部分は御影石。旧来からある扉体と巻上機構に、新たな上屋をそのままかぶせた雰囲気が濃厚です。何と、岩樋の上流側ゲートは、昭和に至っても、江戸期とさして変わらない姿で運用されていたのか! いや、それとも、旧来の機構を最近になって復元し、保存してきたのかしら?
真ん中に立っている太い角棒は、かつて扉体がついていたのでしょうか。上からロープが垂れ下がっているところを見ると、軸の直上に定滑車があって、轆轤で引き絞ると、扉体が上がってゆくような仕掛けだったように思われます。

●御影石の柱にはめ込まれた梁の間から、ほんの少しだけ下がのぞけました。土色の水面と、ノミの跡も生々しい岩樋の内側が見えます。

●鉄格子の間にカメラを突っ込んで、天井を撮ってみました。これだけしっかりと上屋が造られたのなら、機械類とか、動力化の痕跡か何かがあっても、おかしくないと思ったからです。
結果は…見事なくらい何もなし。蛍光灯とその電路だけは、きっちり備えてあるだけになおさら妙ですね。蜂の巣が天井の角にあるとか、生物の痕跡すらほとんど見られないさっぱり感が、少々不気味ですらありました。管理されている方がおられて、まめに清掃をされているのでしょうか。

●外の水路脇から、上屋の下をのぞき込んだところ。左側に、御影石の戸溝がはっきりと見え、その奥にほぼ円断面の岩樋が口を開けていました。幅3mに満たない、素掘りの岩穴での舟行き…、高瀬舟の船頭たちは、頭を低くし、竿を倒して通ったことでしょう。
扉体を取り付けていたと思しき角材、釘とかホゾなどの痕跡が見られるかしらと思ったら、少なくともこの距離からでは、何らの凹凸も見られず。扉体ごと折れてしまったにしては、下端がきれいに過ぎるし、この点よくわかりません。
ともあれ、来原岩樋が、このような近代の遺産を併せ持っていたことに気づかされたのは、大きな収穫で、訪ねた甲斐があったと心の中でガッツポーズをとったものでした。もし、明治以降に写した通航風景の写真があったら、ぜひ拝見してみたいものです!

●土嚢がずらりと積まれて、改修工事たけなわの斐伊川と対岸を眺めて。この対岸にも、来原岩樋よりずっと前に造られた閘門、出西岩樋があったんですよねえ。残念ながら、現存はしていないようですが…。
岩にうがたれた、複数の閘門が大河をはさんで対峙し、運河を満載状態の小舟が連なって上下する、まさに水運先進国! 素晴らしい水路情景だったに違いありません。

●以下3枚はいずれも岩樋公園を離れてから、道々に撮ったものです。
上は公園を離れて間もなく、高瀬川が最初に分流するところで見かけた、3径間の可愛らしいスライドゲート。扉体は錆びて穴があき、もう使われなくなって久しいのでしょう。このような小さな水門がところどころに見られ、高瀬川の分かつ恵みの大きさが実感できるようでもありました。
右は…ううん、逆光でよく撮れませんでした、高瀬川の開鑿者、大梶七兵衛の銅像。ご当地の偉人として周知され、学校でも教えられるとのこと。台座には「昭和37年4月建之」とありました。
●大梶七兵衛像のある今市町のあたりは、河畔にテラスを兼ねた自転車道もあり、橋の高欄にも軽い装飾を施したものが多く、きれいに整備されていました。
反対に市街地を離れると、高欄のない板状のコンクリート橋が、個人宅の私有橋としてたくさん架けられていたり、道の狭いところは歩道が水面上に思い切り張り出していたりと、いい感じに無骨な都市河川らしい区間も。可航河川であった時代を思い描きながら、さまざまな表情が楽しめた水路ではありました。
(25年3月15日撮影)
【25年4月7日追記】
●岩樋上屋の写真を改めて眺めていて、上に書いた想像は、実はほとんど当たっていないのでは…、と思えるくらい、いくつも疑問が出てきたので、お詫びかたがた、以下にメモしておきます。
1)スライドゲートなら、戸溝が少なくとも扉体天地寸法の倍、つまり上屋の天井くらいまではないと、扉体の上下ができないことになります。しかし、戸溝は下の梁の直下で終わっていて、しかも手前(写真左側)に向かって、水平に切られている部分が見えますね。このことから、一枚板の扉体でなく、板材を一本一本戸溝にはめ込んでは落とした、角落としの可能性が高いように思えてきました。
2)とすると、真ん中に立っている角棒は、扉体に取り付けられて一緒に上下していたのではなく、別の用途ということになります。表面に何か固定されていた様子が見えないことから、角落としを積み重ねた際、水圧によるふくらみや破損を防ぐため、裏側から支えた補強のようなものでは、と想像。固定されているらしいことも、これなら説明がつきそうです。
3)上のことから、轆轤は角落としの上下に使った、と考えるのが自然ではありますが、その使用法はどうだったのでしょうか。無理があるのを承知で想像すると、最初に入れた(つまり一番下にくる)角落としのみ縄をつけておいて、その上に縄をつけないものを積み重ねて閉鎖し、開放するときは轆轤を引き絞って、上がってきた角落としを一本一本外していった…とか?
●【右の絵葉書】タイトルなし
裏面はすべて宛名欄、明治33~明治40年の発行、「第二軍 38‐10‐2(軍事郵便)」の消印。「東都三條便利堂発行」の銘あり
●もうひとつ、手持ちの絵葉書でよいものがあったので、備前系高瀬舟をイメージする上で助けになればと思って掲げておきます。これは出雲ではなく、京都の高瀬川の様子を明治時代に写したものですが、その運用風景は、これとさして変わらなかったのではないでしょうか。
荷を満載した小舟がずらりと、列車のように船首尾を接して連なり、曳舟人夫に曳かれて遡ってゆくさまを見事にとらえています。水路幅や水深が限られる街場の水路では、小舟を連ねるこのような方法で、大量輸送を行うのが定石だったのでしょう。
●舟から右手に伸びている棒は、瀬張棒といって、元来はこれを直接人夫がつかんで押し、岸と距離を保ちながら曳き舟のできる道具でしたが、写真ではこの棒と船首から曳き綱が伸びて、二人で曳いているのがわかります。後ろの舟の引き綱が、前の舟の瀬張棒を乗り越え、クロスした形で人夫の肩に伸びているのが面白いですね。
(『新内藤川水門』につづく)

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ウェブ上の記事に載せられた写真では、水門の前や上から、間歩をのぞきこんだアングルが多く、斐伊川側の様子は紹介されていなかった(私が知らないだけかも)ので、どんな風になっているのか、楽しみではあります。

●階段を下りきったところに現われたのは…、おおお、コンクリート製の小屋が。岩肌にへばりついたような建て方からして、呑口の上に設けられた、巻上機室みたいなものかしら? 妻板上部中央と、右端の中ほどには、それぞれ青銅色の銘板らしきものも見えますね。
小屋も大いに気になったものの、その立地の異様さの方に、まず意識が持ってゆかれてしまいました。何しろ…。

●三方が壁や法面に囲まれた、竪穴のような場所だったからです。しかも、つい今しがた完成したばかり、といった感じの、でき立てホヤホヤなま新しさ。左手を走る道路は県道26号線、ひっきりなしにクルマが通る賑やかさも、岩樋の置かれた異様さを助長しているようです。
どうやら、道路を含めた斐伊川の堤防に、大改修が行われたようですね。昔からこんな風だったのでしょうか?

●道路に面した散策道の出口に、岩樋公園の案内図がありました。すっかり色あせて図のディテールは判然とせず、説明の文字に至っては消えかかっているありさまで、ガードレールや舗装の真新しさと対照的ですが、古いものをそのまま移設したのかしら。
ともあれ、図を見ると、以前の道路はもっと岩樋寄りを走っていた模様。今以上に閉塞感のある、ぎゅう詰めの光景が展開されていたのか…。それとも、堤防と道路の高さは、もっと低かったのでしょうか。

●道路に出たついでと、渡って斐伊川を眺めることにしました。古くから、砂鉄採取の「鉄穴流し」による堆砂で河床が上がり、天井川となっただけでなく、元来西へ向かっていた河道が、洪水で東へ変わってしまったという、変わった歴史を持つ川ですが、ここから眺めた川面も、それを髣髴させる砂洲の多さでした。
手前に見える、これまたピカピカの樋門は、来原岩樋の現在の呑口に当たるものですね。法面や階段のコンクリートもまぶしい白さ、本当に最近の完成なのが実感できました。


何と、昨年の今月竣工。満一歳の誕生月だったのですね。名前は居越水門。樋門と水門の類別が、地方によってあいまいなのを見ると、過去ログ「知多半島の水門」で紹介した、新江川樋門を思い出します。

●居越水門の下流側には、重機が盛んに動き回って土工中。堤防だけでなく、高水敷も併せて大改修といったところでしょうか。
岩樋公園に着いたころから、流水が茶色なのがちょっと気になっていたのですが、すぐそばで土をかきまわしているのですから、むべなるかなであります。

●さて、斐伊川や水門も眺めたことだし、ご本尊の岩樋へ、呑口の気になる小屋へと戻りましょう。しかし、道路からのぞくと、改めてその異様さが際立ちますね。建物をかぶせた中で現地保存されている、発掘済みの遺跡のようでもあります。
まあ、堤防の機能だけ考えれば、通水は樋管で確保しておき、岩山に接するまで埋め立ててしまった方がよいものを、こうして残しているのですから、少なくとも、顕彰してゆく気持ちはあるに違いありません。

●小屋の簡素な外観とはうらはらに、銘板は、思った以上に立派なものでした。篆書体というのでしょうか、「来原岩樋 元禄年間 大梶氏開鑿 島根県知事 男爵 大森佳一毫」(間違っていたら乞うご指摘)とあります。
文字数の限られた中で、簡潔に歩んできた星霜と、高瀬川開鑿から関わってきた、大梶家をも顕彰したその心意気。書体のかもし出す、荘厳な雰囲気も手伝っていたのでしょうが、深い、深い感動がありました。

改築が成った昭和初期、まだそのころは閘門として機能していて、通船はあったのかなあ…。関東を代表する江戸期の閘門・見沼通船堀は、外観はそのまま、大正時代まで稼働していたそうですから、そんな妄想もしたくなろうというものです。

●上屋が貴重なものとわかったからには、中を見ずして帰るわけにはまいりませなんだ。鉄格子の間から、のぞき込んでみると…おおおお!
横に寝かせた荒削りな軸に、二本の車力棒が差し込まれ、クサビで留められている…神楽算(カグラサン)、和船でいう轆轤(ロクロ)…つまり、人力の巻上機だ!
上屋の壁はコンクリート製ながら、軸受けのある部分は御影石。旧来からある扉体と巻上機構に、新たな上屋をそのままかぶせた雰囲気が濃厚です。何と、岩樋の上流側ゲートは、昭和に至っても、江戸期とさして変わらない姿で運用されていたのか! いや、それとも、旧来の機構を最近になって復元し、保存してきたのかしら?
真ん中に立っている太い角棒は、かつて扉体がついていたのでしょうか。上からロープが垂れ下がっているところを見ると、軸の直上に定滑車があって、轆轤で引き絞ると、扉体が上がってゆくような仕掛けだったように思われます。

●御影石の柱にはめ込まれた梁の間から、ほんの少しだけ下がのぞけました。土色の水面と、ノミの跡も生々しい岩樋の内側が見えます。

●鉄格子の間にカメラを突っ込んで、天井を撮ってみました。これだけしっかりと上屋が造られたのなら、機械類とか、動力化の痕跡か何かがあっても、おかしくないと思ったからです。
結果は…見事なくらい何もなし。蛍光灯とその電路だけは、きっちり備えてあるだけになおさら妙ですね。蜂の巣が天井の角にあるとか、生物の痕跡すらほとんど見られないさっぱり感が、少々不気味ですらありました。管理されている方がおられて、まめに清掃をされているのでしょうか。

●外の水路脇から、上屋の下をのぞき込んだところ。左側に、御影石の戸溝がはっきりと見え、その奥にほぼ円断面の岩樋が口を開けていました。幅3mに満たない、素掘りの岩穴での舟行き…、高瀬舟の船頭たちは、頭を低くし、竿を倒して通ったことでしょう。
扉体を取り付けていたと思しき角材、釘とかホゾなどの痕跡が見られるかしらと思ったら、少なくともこの距離からでは、何らの凹凸も見られず。扉体ごと折れてしまったにしては、下端がきれいに過ぎるし、この点よくわかりません。
ともあれ、来原岩樋が、このような近代の遺産を併せ持っていたことに気づかされたのは、大きな収穫で、訪ねた甲斐があったと心の中でガッツポーズをとったものでした。もし、明治以降に写した通航風景の写真があったら、ぜひ拝見してみたいものです!

●土嚢がずらりと積まれて、改修工事たけなわの斐伊川と対岸を眺めて。この対岸にも、来原岩樋よりずっと前に造られた閘門、出西岩樋があったんですよねえ。残念ながら、現存はしていないようですが…。
岩にうがたれた、複数の閘門が大河をはさんで対峙し、運河を満載状態の小舟が連なって上下する、まさに水運先進国! 素晴らしい水路情景だったに違いありません。


上は公園を離れて間もなく、高瀬川が最初に分流するところで見かけた、3径間の可愛らしいスライドゲート。扉体は錆びて穴があき、もう使われなくなって久しいのでしょう。このような小さな水門がところどころに見られ、高瀬川の分かつ恵みの大きさが実感できるようでもありました。
右は…ううん、逆光でよく撮れませんでした、高瀬川の開鑿者、大梶七兵衛の銅像。ご当地の偉人として周知され、学校でも教えられるとのこと。台座には「昭和37年4月建之」とありました。

反対に市街地を離れると、高欄のない板状のコンクリート橋が、個人宅の私有橋としてたくさん架けられていたり、道の狭いところは歩道が水面上に思い切り張り出していたりと、いい感じに無骨な都市河川らしい区間も。可航河川であった時代を思い描きながら、さまざまな表情が楽しめた水路ではありました。
(25年3月15日撮影)
【25年4月7日追記】
●岩樋上屋の写真を改めて眺めていて、上に書いた想像は、実はほとんど当たっていないのでは…、と思えるくらい、いくつも疑問が出てきたので、お詫びかたがた、以下にメモしておきます。
1)スライドゲートなら、戸溝が少なくとも扉体天地寸法の倍、つまり上屋の天井くらいまではないと、扉体の上下ができないことになります。しかし、戸溝は下の梁の直下で終わっていて、しかも手前(写真左側)に向かって、水平に切られている部分が見えますね。このことから、一枚板の扉体でなく、板材を一本一本戸溝にはめ込んでは落とした、角落としの可能性が高いように思えてきました。
2)とすると、真ん中に立っている角棒は、扉体に取り付けられて一緒に上下していたのではなく、別の用途ということになります。表面に何か固定されていた様子が見えないことから、角落としを積み重ねた際、水圧によるふくらみや破損を防ぐため、裏側から支えた補強のようなものでは、と想像。固定されているらしいことも、これなら説明がつきそうです。
3)上のことから、轆轤は角落としの上下に使った、と考えるのが自然ではありますが、その使用法はどうだったのでしょうか。無理があるのを承知で想像すると、最初に入れた(つまり一番下にくる)角落としのみ縄をつけておいて、その上に縄をつけないものを積み重ねて閉鎖し、開放するときは轆轤を引き絞って、上がってきた角落としを一本一本外していった…とか?

裏面はすべて宛名欄、明治33~明治40年の発行、「第二軍 38‐10‐2(軍事郵便)」の消印。「東都三條便利堂発行」の銘あり
●もうひとつ、手持ちの絵葉書でよいものがあったので、備前系高瀬舟をイメージする上で助けになればと思って掲げておきます。これは出雲ではなく、京都の高瀬川の様子を明治時代に写したものですが、その運用風景は、これとさして変わらなかったのではないでしょうか。
荷を満載した小舟がずらりと、列車のように船首尾を接して連なり、曳舟人夫に曳かれて遡ってゆくさまを見事にとらえています。水路幅や水深が限られる街場の水路では、小舟を連ねるこのような方法で、大量輸送を行うのが定石だったのでしょう。
●舟から右手に伸びている棒は、瀬張棒といって、元来はこれを直接人夫がつかんで押し、岸と距離を保ちながら曳き舟のできる道具でしたが、写真ではこの棒と船首から曳き綱が伸びて、二人で曳いているのがわかります。後ろの舟の引き綱が、前の舟の瀬張棒を乗り越え、クロスした形で人夫の肩に伸びているのが面白いですね。
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