来原岩樋を訪ねて…1

●最初に訪れたのは、出雲平野の母なる大河・斐伊川の河畔。名だたる天井川ともなれば、その堤防高も見上げるよう。一つ目の物件、来原岩樋(くりはらいわひ)は、そんな視界を圧する大堤防に面した、小さな集落のはずれにひっそりとありました。
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ともかく、水路沿いを遡上してゆくと、やがて小ぎれいに整備された一角で、水路は途切れることとなりました。この水路こそ、江戸時代に開鑿され、かつて砂塵の荒野だった出雲平野をうるおし、備前系高瀬舟による舟運の便を拓いた、名高い高瀬川。来原岩樋は、その最上流部、呑口でもあるわけです。

公園内は駐車場、東屋、お手洗いが完備されており、公園入口前の民家には、自販機もあります。ちなみに、ここまで来る途中の高瀬川畔の道路は、ガードレールや駒止めのない区間が多く、初めて訪ねる身には少々スリリングではありました。
●そうそう、何をそんなに思い焦がれて、ここまで訪ねて来たかというと、この来原岩樋、数少ない江戸時代に造られた閘門だからです! 元禄13(1700)年の竣工という、国内の閘門では間違いなく5指に入る古さ、しかも本流に面した岩山をうがち、今でいう樋門に近い構造という点にも、強く惹かれるものがあったのです。
来原岩樋の存在に気づかされたのが、過去ログ「閘門の話、二題」のころですから、足掛け7年温めた想いが、ようやくかなったというわけで、この駄文もシレッと流しているように装っていますが、その実、鼻息も荒くコーフンしていたのでありました。
●ちなみに、高瀬川・来原岩樋開鑿については、水文化研究家・安斎忠雄氏の執筆による「農業土木遺産を訪ねて 『出雲平野を拓く』― 高瀬川・荒木浜開拓 ―」(PDF)が、基本的なデータが押さえられ、簡潔で読みやすくまとまっているので、ご一読をお勧めします。3つの扉体を持つ閘門の仕組みについては、「コラム―来原の岩樋(いわひ)」(中国四国農政局)に図があります、ご参考まで。

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右の写真は、同じ橋から反対側を見たところ。落差のつくる小瀑布が、高瀬川のまさに最上流部。その向こうは現在、沈砂池として機能しているかつての船溜で、いま一つの灌漑水路、間府(まぶ)川を分かつ分水工でもあります。

なるほど、栗原岩樋以前から、この地には「石見流」の開鑿技法が存在していたわけだ…。こちらも大いに惹かれるものがあったのですが、今回はガマンして、目の前にある岩樋へ意識を集中することに。

●沈砂池の西側に立てば、来原岩樋は真っ正面に見える…はずなのですが、周囲の山に繁る木立は思ったより深く、切通しの部分が影となって、黒く目に映るばかり。
正確にいえば、岩樋の前には後年造られた水門があり、そのゲートが見えてもいいはずなのだけれど…。せめてチラリとでも拝めないかしらと、写真右手に駆けだして、切通し部分へ肉薄することにしました。

…見えない。
いや、水門のコンクリート構造部が、左上にチラリとのぞけるのですが、とても見えたうちには入りますまい。草木を大切にするのはよいですが、せっかくの水運史跡、眺められなくては意味がないでしょうと、木々の逞しさを一人フンガイする船頭。

●木の幹から恐る恐る降りて、沈砂池の方を振り返ると…おお! 西側から眺めたときより、ぐっと広く見えて、船溜らしさが味わえますね。かつてはここに、角ばった備前系の高瀬舟が、荷を満載しみっちり詰まっていたことを、妄想させる眺めです。
背後に見える、集落の黒光りした瓦屋根たち、そしてその向こうに顔を出す小山の緑と、こじんまりとまとまったロケーションが箱庭を思わせ、静かで、実によい雰囲気。この集落の中には、来原岩樋が現役時代のころから、住まわれているお宅もあるのかなあ…。

この道をたどれば、岩山を越えて岩樋の反対側にも出られるはず。いくつか説明板も立っているので、興味を引くものはないか、期待してのしのし登ってゆくと…。

舟航施設としての説明があるにもかかわらず、閘門であったことにまったく触れられていないのは、閘門バカならずとも、首をかしげてしまう部分でしょう。

岩樋の閘門に関して、触れられたサイトは少なくないものの、その3基あったとされる扉体が、スライドゲートなのか角落としなのか、肝心のディテールが語られていないのは残念なところ。「相伝の技法」とあるからには、どこかにそのあたりの記録が、残されているような気はするのですが。ご存知の方、ぜひご教示ください!

●石碑の左、ようやく趣味の琴線(?)に触れるものが登場しました。岩樋の切通し部分に後年設けられた、2径間スライドゲートの調節水門を、正側面図とともに説明したもの。
コンクリート躯体の高さが、切通しの天端近くまであるところを見ると、斐伊川の計画高水位に合わせたものでしょうか。各サイトで見られる、岩樋を水面近くから撮った写真(例:『(28)来原岩樋(KURIHARAIWAHI) 出雲市大津町 』山陰中央新報)は、どこから狙ったのでしょう? 水門の上流側に、ハシゴでもあるのかしら。

木々の繁みは相変わらず深く、どこからのぞき込もうとしても、岩樋の片鱗すら拝むことがかないません。せっかく訪ねてきたのにと、泣きたくなった矢先のコレ。水門君に救いを求めたとしても、バチはあたりますまいと、身勝手かつ好都合が熟成した解釈をする船頭。
というわけで…。
本当に申しわけございません。

●来原岩樋、初対面。
足がすくんだのは、思ったより切通しが深かったからか、それとも苔むし、層をなした岩肌の、蒼然たる雰囲気に呑まれたからか…。
先の安斎忠雄氏の記事によれば、間歩(トンネル)の内法、左右2.58m、天地4.2m、全長9m。切通し区間の全長36m。幅からすると、切通しの深さは10m近くはあるでしょうか。
●右に差し込まれた水位尺の向こう、岩肌に縦に走るのは、戸溝でしょうか? この深さまで、角落としを一本一本付け外しするのは、ちょっと無理があるような気がします。やはり、切通しの上に台などが渡してあり、神楽算のような巻上機で、一枚ものの扉を上下させたのかしら? 水音とひんやりした冷気を肌に感じながら、妄想は尽きません。
50m近くある岩山を、ここまで切り開けたのなら、すべて切通しにしてもよさそうに思えますが、そうせずにトンネルを残したのは、この岩山自身が斐伊川の堤防として機能していた、何よりの証しなのかも…。などなど、あれこれとあらぬ方に考えが及んでしまうのは、それだけ感動が深い初対面だったのでしょう。何はともあれ、来てよかった!
【撮影地点のMapion地図】
(25年3月15日撮影)
(『来原岩樋を訪ねて…2』につづく)

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