「里帰り」した話…2
(『「里帰り」した話…1』のつづき)
●緑濃い山裾をめぐる水辺の小径を、小網代湾最奥部に向かってお散歩です。子供のころから何度も歩いた道ですが、夏以外の季節に訪ねたのは数えるほどなので、草いきれもセミの鳴き声もない、静まり返ったようなこの地の雰囲気が、新鮮に感じられたものでした。
この先、水辺の風景は少くなりますが、小網代の歴史を語る上でも見逃せない、海運や漁業とも縁の深い大切な場所。「里帰り」したご挨拶をかねて、また改めてアレを拝見しようと、次の目的地へ。
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●道はご覧のとおり、軽自動車がギリギリ通れるだけの、ガードレールもないコンクリート舗装で、山肌を固めた格子状の保護工が物々しい感じ。水面からの高さがそれほどでもないことをのぞけば、山道といってもよい雰囲気です。
下の写真は、ほぼ同じ地点から、次の目的地一帯を眺めたところ。狭い谷の出口にあたるささやかな平地に、数軒の家が固まっています。海岸は、洗濯板のような浸食を見せる平たい岩の磯を主に、わずかですが砂浜もあるなだらかな水辺で、シーボニアから西に見るような、岩勢荒々しい磯の姿はありません。


●道が下り坂になり平地に下りると、そこはもう神社の境内です。老松が頭上に枝をさしかける、いかにもめでたい雰囲気の石の鳥居を前に一枚。ここが一つ目の目的地、白髭神社。
三浦七福神(七福神めぐり―三浦七福神公式サイト)の一柱とされ、祭神は中筒男命、一名白髭明神。下の説明板にもあるように、長い禿げ頭でおなじみの、福禄寿さまを指すようですね。
【撮影地点のMapion地図】
●さて、この白髭神社、水運趣味的にどのあたりが興味をそそられるかと申しますと…。この説明板の文中、「小網代湾が昔から廻船寄港地、また三崎の避難港として全国的に知られ」…そう、ここの下りです!
今でこそ、いち漁港(プレジャーボート基地としては有数の規模ですが、遊びの方なのでここではおきます)として航路からも外れた形の小網代が、かつての花形であった廻船寄港地、すなわち商港としての機能もあったなんて!
子供のころこれを読んだときは、いま一つピンと来なかったものの、長じて水運史に興味を持つようになってからは、次第にこの一文が、心の中で存在感を増すようになりました。
●長躯、西からやってきた大型和船が、荷を満載して小網代に入港し、地場の業者と取り引きするシーンもあったわけだ…。背後に大きな街を抱えているわけではありませんでしたから、帆柱が林立する活況まではいかなかったであろうものの、海運のネットワークによって全国と結ばれ、各地の産物や文化に触れる機会があったということでしょう。
昔は草深い静かな入り江で、近隣との交通もごくささやかなものだったのだろう、とばかり思っていた小網代のイメージが、一変したときでもありました。すごいぞ小網代湾!

●拝殿は階段を少し登った、山の中腹を削平したと思われる、小高いところにおわします。周りはうっそうと木々が覆って昼なお暗く、特に葉の茂る夏は暗さが増して、子供がお参りするには、少々勇気のいる場所でした。
まずはお賽銭をして、「里帰り」のご挨拶と、航行の安全をお祈り。その後、ちょっと失礼させていただきますとお断りしてから、お賽銭箱の横に手を伸ばし、拝殿の中に掲げられたあるものを、撮らせていただきました。
説明文だけでは物足りなかった、「商港としての小網代」が、これの存在に気づいたとき、真に迫って感じられたもの…それは!

●大型和船を描いた奉納額!
弁才船(江戸期の大型和船の代表的型式)の側面が、細部まで正確に、レリーフ状に再現された見事なもの。よく見ると、中央やや船尾寄りに、伝馬船(装載艇)も描かれているのが、ぬかりのない感じで興味をそそられますね。
上部に横たえてある棒は、倒した状態の帆柱です。和船はかなりの大型船でも、長期碇泊時や、修繕のため陸揚げするときは、帆柱を抜いて倒すのが普通でした。
●これは「造り出し奉納額」というタイプの奉納額で、航海の安全をお祈りするためのものですが、船尾部分が展開図状になっているのが気になりました。こうした手法は、船大工が板に描く和船の設計図、「板図」でよく見られるやり方だからです。もしかしたら、造船時に実際に用いた板図をベースに、薄板のディテールを貼って仕上げたものかもしれませんね。
写真を拡大して、額の左端に描かれた文字を読むと、「文政十戊子 七月吉日 願主 大工 元右衛門」…でしょうか。年号の行は特に薄くなっていて、これで正しいのかは自信がありません。しかも辞典で調べたら、文政10年は丁亥(ひのとい)で、戊子(つちのえね)は翌11年。やはり読み間違いかも…。ご教示いただけるとありがたいです。
●年号はともかく、これを奉納したのは大工…おそらく船大工の、元右衛門さんということはわかりました。もうちょっと近寄って撮れば、船名までわかったのでしょうが、さすがに無断で上がり込むのは、はばかられたのです。
文政年間が正しければ、もう200年近くも昔のことですね。元右衛門さんのお陰で、小網代が商港であったころの記憶が残ったわけで、この額に気づいたときは、それはもう嬉しかったものでした!
●思い入れが白髭明神に通じたのか、奉納額の存在に気づいてずいぶん経ってから、さらに驚きの出会いがありました。
長年懇意にしていただいている地元の方から、
「天井裏から古い台帳みたいなものが出てきたのだが、あなた興味があるかと思って」
…と、その本の複写を見せてくださったのです。
これ、入船帳じゃないですか!
●正しいタイトルは「御客船控帳」といって、廻船業者である船宿が、取り扱った船の船名、帆印、舟印、沖船頭の名前や、入出港年月日などを書き留めた江戸~明治期の台帳です。
史料としての貴重さもさることながら、そのお宅が江戸時代以来の、しかも船宿を務めるような由緒正しい家だったことを初めて知って、恐れ入ったものでした。
●ちなみに舟印とは、ヤマサのマークのような船主の商標で、船尾の幟に掲げました。写真にも「○に松」や、「¬に吉」などが見えますね。沖船頭は雇われ船長のことで、オーナーが船頭を兼ねる「直乗船頭」と、区別するためにこの名がありました。
帆印は、縮帆時にも遠くからどこの船かわかるよう、主に帆の上部に墨で描かれた、識別のための模様です。縦線や横線を墨一色で入れるのが一般的で、いくつかのパターンがあり、それぞれ呼び名がありました。写真左上の2点に見られるような、帆の両端に縦線が入るのは「リョウテンビン」と呼ばれていたそうです。
●…いやもう、拝見したときは興奮のきわみで、夢中でページを繰るばかりでしたが、ツボそのものといってよい貴重な資料を見せていただいて、本当にありがたく思ったものでした。
漠然としたイメージでしかなかった「商港としての小網代」が、船主の屋号や船頭の名前といった、細をうがったディテールをともなって、しかも結構な物量で現われたのですから、往時の賑わいが、眼前にパノラマとなって再現されたような気すらしたものでした。

●さて、神社の境内に戻って、拝殿の左側に置かれたこの細長い石が、説明板にもあった「カンカン石」。木で作った碇に重りとして挟んで用いた、今でいえば、ストックアンカーのストックに当たるパーツでしょう。大型和船ともなれば、結構な大きさの碇だったことがわかりますね。
その名のとおり、上に置かれている小石で叩くと、見てくれに似合わず、カンカンと金属質の音がします。久しぶりに叩いてみると、子供のころと変わらない、澄んだ音色を聞かせてくれました。
●「カンカン石」のさらに左手、崖っぷちにある旧ハイキングコースの道標。もう使われなくなってずいぶん経つので、表面に書かれた字は風化して読めません。
かつては道標の右手奥から、斜面を下りて海岸に出て、干潟沿いの山裾をめぐる、未舗装の人道がありました。当時のハイキングコースでは、小網代湾北方の三戸浜が終点だったと思います。
私の子供のころは、まだこの道が生きていて、湾奥まで海沿いを行けたのですが、確か満潮時になると足元まで水が来た記憶があり、そのせいか、早い時期に廃道となったようですね。

●拝殿のある高台から降りて、鳥居の手前まで参道を戻り、向かって右手、谷地に分け入るような未舗装の道を進みます。水辺から離れる形になりますが、これが現在も生きている、湾奥へ向かえる唯一の道なのです。
左手の藪は、かつて田畑だったのでしょうか。谷地とあって小川が流れ、途中に右写真のような、簡素な板橋で川を渡ったりと、何やら廃道趣味テイスト濃厚な雰囲気の中、次の目的地・小網代湾最奥部へ。
(24年3月11日撮影)
(『「里帰り」した話…3』につづく)

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この先、水辺の風景は少くなりますが、小網代の歴史を語る上でも見逃せない、海運や漁業とも縁の深い大切な場所。「里帰り」したご挨拶をかねて、また改めてアレを拝見しようと、次の目的地へ。
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下の写真は、ほぼ同じ地点から、次の目的地一帯を眺めたところ。狭い谷の出口にあたるささやかな平地に、数軒の家が固まっています。海岸は、洗濯板のような浸食を見せる平たい岩の磯を主に、わずかですが砂浜もあるなだらかな水辺で、シーボニアから西に見るような、岩勢荒々しい磯の姿はありません。


●道が下り坂になり平地に下りると、そこはもう神社の境内です。老松が頭上に枝をさしかける、いかにもめでたい雰囲気の石の鳥居を前に一枚。ここが一つ目の目的地、白髭神社。
三浦七福神(七福神めぐり―三浦七福神公式サイト)の一柱とされ、祭神は中筒男命、一名白髭明神。下の説明板にもあるように、長い禿げ頭でおなじみの、福禄寿さまを指すようですね。
【撮影地点のMapion地図】

今でこそ、いち漁港(プレジャーボート基地としては有数の規模ですが、遊びの方なのでここではおきます)として航路からも外れた形の小網代が、かつての花形であった廻船寄港地、すなわち商港としての機能もあったなんて!
子供のころこれを読んだときは、いま一つピンと来なかったものの、長じて水運史に興味を持つようになってからは、次第にこの一文が、心の中で存在感を増すようになりました。
●長躯、西からやってきた大型和船が、荷を満載して小網代に入港し、地場の業者と取り引きするシーンもあったわけだ…。背後に大きな街を抱えているわけではありませんでしたから、帆柱が林立する活況まではいかなかったであろうものの、海運のネットワークによって全国と結ばれ、各地の産物や文化に触れる機会があったということでしょう。
昔は草深い静かな入り江で、近隣との交通もごくささやかなものだったのだろう、とばかり思っていた小網代のイメージが、一変したときでもありました。すごいぞ小網代湾!

●拝殿は階段を少し登った、山の中腹を削平したと思われる、小高いところにおわします。周りはうっそうと木々が覆って昼なお暗く、特に葉の茂る夏は暗さが増して、子供がお参りするには、少々勇気のいる場所でした。
まずはお賽銭をして、「里帰り」のご挨拶と、航行の安全をお祈り。その後、ちょっと失礼させていただきますとお断りしてから、お賽銭箱の横に手を伸ばし、拝殿の中に掲げられたあるものを、撮らせていただきました。
説明文だけでは物足りなかった、「商港としての小網代」が、これの存在に気づいたとき、真に迫って感じられたもの…それは!

●大型和船を描いた奉納額!
弁才船(江戸期の大型和船の代表的型式)の側面が、細部まで正確に、レリーフ状に再現された見事なもの。よく見ると、中央やや船尾寄りに、伝馬船(装載艇)も描かれているのが、ぬかりのない感じで興味をそそられますね。
上部に横たえてある棒は、倒した状態の帆柱です。和船はかなりの大型船でも、長期碇泊時や、修繕のため陸揚げするときは、帆柱を抜いて倒すのが普通でした。
●これは「造り出し奉納額」というタイプの奉納額で、航海の安全をお祈りするためのものですが、船尾部分が展開図状になっているのが気になりました。こうした手法は、船大工が板に描く和船の設計図、「板図」でよく見られるやり方だからです。もしかしたら、造船時に実際に用いた板図をベースに、薄板のディテールを貼って仕上げたものかもしれませんね。
写真を拡大して、額の左端に描かれた文字を読むと、「文政十戊子 七月吉日 願主 大工 元右衛門」…でしょうか。年号の行は特に薄くなっていて、これで正しいのかは自信がありません。しかも辞典で調べたら、文政10年は丁亥(ひのとい)で、戊子(つちのえね)は翌11年。やはり読み間違いかも…。ご教示いただけるとありがたいです。
●年号はともかく、これを奉納したのは大工…おそらく船大工の、元右衛門さんということはわかりました。もうちょっと近寄って撮れば、船名までわかったのでしょうが、さすがに無断で上がり込むのは、はばかられたのです。
文政年間が正しければ、もう200年近くも昔のことですね。元右衛門さんのお陰で、小網代が商港であったころの記憶が残ったわけで、この額に気づいたときは、それはもう嬉しかったものでした!

長年懇意にしていただいている地元の方から、
「天井裏から古い台帳みたいなものが出てきたのだが、あなた興味があるかと思って」
…と、その本の複写を見せてくださったのです。
これ、入船帳じゃないですか!
●正しいタイトルは「御客船控帳」といって、廻船業者である船宿が、取り扱った船の船名、帆印、舟印、沖船頭の名前や、入出港年月日などを書き留めた江戸~明治期の台帳です。
史料としての貴重さもさることながら、そのお宅が江戸時代以来の、しかも船宿を務めるような由緒正しい家だったことを初めて知って、恐れ入ったものでした。
●ちなみに舟印とは、ヤマサのマークのような船主の商標で、船尾の幟に掲げました。写真にも「○に松」や、「¬に吉」などが見えますね。沖船頭は雇われ船長のことで、オーナーが船頭を兼ねる「直乗船頭」と、区別するためにこの名がありました。
帆印は、縮帆時にも遠くからどこの船かわかるよう、主に帆の上部に墨で描かれた、識別のための模様です。縦線や横線を墨一色で入れるのが一般的で、いくつかのパターンがあり、それぞれ呼び名がありました。写真左上の2点に見られるような、帆の両端に縦線が入るのは「リョウテンビン」と呼ばれていたそうです。
●…いやもう、拝見したときは興奮のきわみで、夢中でページを繰るばかりでしたが、ツボそのものといってよい貴重な資料を見せていただいて、本当にありがたく思ったものでした。
漠然としたイメージでしかなかった「商港としての小網代」が、船主の屋号や船頭の名前といった、細をうがったディテールをともなって、しかも結構な物量で現われたのですから、往時の賑わいが、眼前にパノラマとなって再現されたような気すらしたものでした。

●さて、神社の境内に戻って、拝殿の左側に置かれたこの細長い石が、説明板にもあった「カンカン石」。木で作った碇に重りとして挟んで用いた、今でいえば、ストックアンカーのストックに当たるパーツでしょう。大型和船ともなれば、結構な大きさの碇だったことがわかりますね。
その名のとおり、上に置かれている小石で叩くと、見てくれに似合わず、カンカンと金属質の音がします。久しぶりに叩いてみると、子供のころと変わらない、澄んだ音色を聞かせてくれました。

かつては道標の右手奥から、斜面を下りて海岸に出て、干潟沿いの山裾をめぐる、未舗装の人道がありました。当時のハイキングコースでは、小網代湾北方の三戸浜が終点だったと思います。
私の子供のころは、まだこの道が生きていて、湾奥まで海沿いを行けたのですが、確か満潮時になると足元まで水が来た記憶があり、そのせいか、早い時期に廃道となったようですね。


左手の藪は、かつて田畑だったのでしょうか。谷地とあって小川が流れ、途中に右写真のような、簡素な板橋で川を渡ったりと、何やら廃道趣味テイスト濃厚な雰囲気の中、次の目的地・小網代湾最奥部へ。
(24年3月11日撮影)
(『「里帰り」した話…3』につづく)

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