柳川堀割めぐり…4

(『柳川堀割めぐり…3』のつづき)

109056.jpg柳川城堀水門が近づいてきました。城の外堀・内堀に出入りできる水路は、この水門をおいて他にないとのこと。手前側の側壁に溝が切られている(タイトル参照)のを見てもわかるように、短冊形の板を何枚も落としこんで堰上げる、角落とし式の水門です。渡された分厚い石の板橋は、角落としを抜き差しするための足場、今風にいえば管理橋でしょう。

ここで船頭さんが、水門は水の入口でもあって、ここから入った水が中の堀を流れ、城の南西で排水される仕組みであることを話してくれました。なるほど、そういわれてみると、水門付近から中にかけての水面には、かすかな波が立って、流れが西に向かっていることに気づかされました。

実は、ご当地柳川の舟での観光が「川下り」を称していることに、疑問を感じていたのです。しかし水門での流れを見て、堀割とはいえ上(かみ)と下(しも)があること、舟は間違いなく流れを「下って」いることが実感でき、ようやく腑に落ちたというオソマツでした。

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流れに乗って、水門の内部へ。寸法は径間2.6m、全長15.7m、高さ3.8m(下船後に見た、水門の史跡説明板より)。両側に迫る石垣の量感と、その組み合わせの巧みさ、精密さに圧倒される思い。布積くずしというそうですが、普通の石垣とは、加工精度の桁が凄まじく違います。やはり水圧がかかる部分ということで、堅固さと水密性が求められたゆえでしょう。

特に素晴らしく思ったのは、この水門が今もって現役であるということ! 年に一度、河底の日光消毒と清掃を兼ねて、堀の水をすべて抜く通称「水落ち」のため、この水門に角落としを入れて閉じるのだそう!(ぼん天棒さんのブログ『私の自然遊歩道』で、その様子を公開されています)

干満の差が大きい、有明海を控えていればこそできることで、この点他の水郷ではマネのできない特徴といえますが、江戸期に造られた水門が、今なお役立っているという事実、水門好きとしても感動モノでありました。
撮影地点のMapion地図

109058.jpg水門の西端に架かる、水門橋をくぐった先に広がったのは、今までとはがらりと雰囲気が変わった、家並みが水際に迫る街場の狭水路! 十六島の新左衛門川を思い出させますが、各戸の庭に立つ老木がうっそうと枝を垂れて、また違った趣きがありそうですね。

帰宅後、「近世以前の土木遺産」の福岡県の一覧で、柳川城城堀の項目を見ていたら、「豊臣秀次の筆頭家老格として八幡城下の町割を行った田中吉政が、三河国岡崎城主(10万石)を経て筑後国主(32万石)となってから整備した掘割り水路(近江八幡では八幡堀、岡崎では田中掘を開削)」とあり、驚かされました。何と、近江八幡と柳川、二つの水郷の景観が、同じ人物によって造られていたとは!

109059.jpg上の写真にもチラリと写っていますが、水門を出た右手には、白秋の全身像の写真と、直筆らしい文を掲げた看板がありました。夜間はライトアップされるようですね。

文は読みなれたものだったので、すぐに思い当りました。写真集「水の構圖」の巻頭にある、「はしがき」の冒頭を抜粋したものですね。「この水の構圖この地相」、という下りにシビレたものです。

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各戸の護岸に、思い思いの形で切られた、水面に下りる石段! 舟の便のみならず、生活用水をも水路に頼る地域では、なくてはならないもので、「ガンギ」、「ダシ」など、各地それぞれ呼び名は異なるあたりに興味が注がれます。「水の構圖」には、「汲水場」と書いて、「くみづ」とルビを打ったキャプションがついていました。のどかな、いい響きですよね。

もっとも、「水と光につつまれて 50年の歩み」(柳川観光協会・平成16年6月発行)の「聞き書き 川下りが始まったころ」を読むと、「汲ん場」と呼ばれていたそうで、この点時代によって違いがあるのかもしれません。

興味深かったのが、「汲ん場」での水汲みのやり方で、各家での水汲みは早朝の澄んでいるうちに限られ、一家総出で行ったそう。これは遅い時間になると、舟が通航して水が濁り、水質が悪くなってしまうからで、いわば棲み分けといったところですが、真水が得がたかったかつての、ご苦労がしのばれるお話でした。


(24年11月3日撮影)

(『柳川堀割めぐり…5』につづく)

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タグ : 柳川城堀水門 柳川川下り 柳川市

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