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土浦のマイタゲートと川口港

102005.jpg『保立食堂』で通運丸に出会う!」で、かつて土浦市街を貫流し、舟運路として利用されていた川口川の存在を知ってからしばらく後のこと。「土浦閘門の景」と題した、古い絵葉書に出会ったのです。

「えっ、土浦に閘門が?」と驚かされたその一枚について、また、絵葉書アルバムを探したら出てきた、「川口の港」の風景3枚もあわせて掲げ、内水航路の要衝として賑わっていたころの土浦に、思いをはせてみたいと思います。

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「土浦閘門の景」
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。

写真の鮮明さから、竣工記念など公式に撮られたものでしょうか。鋼桁橋ながら美しく装飾された高欄、レンガや石材の肌の真新しさなど、完成間もないであろう質感が伝わってくるようで、惚れ惚れと見入りました。

もの珍しそうに眺める見物人の多さも、竣工からそう時間がたっていないことを裏付けているようです。あるいはこの写真を撮っているカメラと、写真師の一行目当てで繰り出してきた人たちかもしれません。橋やゲートのディテール、見物人の装いいずれをとっても、明治の香りが濃厚にする一枚でもあります。

さて、キャプションにもある「閘門」ですが、右に見える扉体から、マイタゲートであることがわかります。右の橋台上、人物の前には、ゲートを開閉するためらしいハンドルも見られますね。珍しく思ったのは、扉体のスキンプレートにキャンバーがついた、カマボコ型ともいうべき断面をしていること。マイタゲートでは、あまり見られないタイプの扉体ではないでしょうか。

橋の向こうには、和船が多くもやい、河岸棒が林立する船溜らしい水面と、その奥には小さな木橋が見られ、少なくとも閘室でないことはわかります。写真手前が閘室である、という可能性もありますが、土浦市街の周辺に、閘門を設ける必然性のある水路があったとは、まず考えにくいこと、単なる水門であっても、マイタゲートを「閘門」と呼んでしまう例は少なくないことから、これは単なる逆水防止のための水門なのでは、と推測しました。

検索してみると、「川口川閘門の鉄扉と揚水ポンプ」(tsuchiura.tv)がヒット。絵葉書とそっくりな、キャンバーつきの扉体の写真が掲載されている! これに間違いなさそうです。やはり、逆水防止用の水門だったのですね。明治39年竣工、のち昭和13年に、排水機場を併設したとのこと。水門のあった場所は、現在鉄道との立体交差になっており、扉体の一枚とポンプは、別途保存されているのだそう。元あった場所は、このあたり(Mapion地図)ですね。

国土変遷アーカイブ・空中写真の「USA-M177-A-7-188」(昭和21年撮影)を見ると、常磐線が川口川の河口を渡るすぐ左に、蛇行する道に続く小さな橋のようなものが見られます。このころはまだきっと、竣工時の姿をとどめていたことでしょう。

保立食堂の前を流れていた川口川は、昭和10年に暗渠化されてしまいましたが、河口に近い、ぐっと南へ屈曲した区間は、水門が備えられていたおかげで、その後も長きにわたり「土浦港」の一部として活用できたわけですね。

土浦は典型的な「河口港」の街であり、早くも明治末にして、立派な水門が設けられるような重要度の高い河口港だったことが、この一枚からも実感できました。

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「川口賑ふ 土浦市の盛觀」
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。

まず最初は、川口川河口の屈曲区間の最奥部、恐らくこのあたりから西を眺めたもの。整備された護岸に沿って、柳並木が水面に枝を垂れる美しい街場の水辺風景! 奥には塔屋を備えた洋館も見られ、キャプションのように「市の心臓部」、経済の中心が港にあったことが感じられます。

港湾機能を埋立てにより沖合に移転させたとしても、この舟入が残っていたら、明治のレンガ水門とともに、土浦市の名物になっていたかもしれません。

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「水都の港 土浦市の盛觀」
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。

これはどちらかというと、「地先」ということばがしっくりくるような、埋め立てか発達した洲を整備した、沖の新開地の雰囲気で街場ではありませんが、気になるのは接岸しているフネブネ。かつての水郷汽船が擁していた船隊です。

一番奥の船は、水郷汽船を代表する一隻であった客船「あやめ丸」に違いありません。それだけでも興奮させられるものがあるのですが、個人的には中央の船にすんごく惹かれるものがありました。これ、通運丸か銚子丸かはわかりませんが、かつての川蒸気を改造した、いわばなれの果て(言葉は悪いですが)ではないでしょうか。

操舵室は屋上にあり、煙突はだいぶ太いとはいっても、船室のラインはまさに川蒸気そのもの。もとから暗車(スクリュープロペラ)船だったのか、外輪船から改造されたのかは不明ながら、明治生まれのフネブネが化粧を直し、老骨に鞭打って昭和の初めまで働いていたことがしのばれる一枚です。

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「水郷土浦の入江」
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。

こちらは彩色写真で、「川蒸気タイプ」の船が二隻向かい合わせにもやう、これまたそそる川口風景。背後には市街地が迫っていますが、船の全高から橋はくぐれないと思われますので、水門の内側ではないでしょう。活版のためディテールは判然としませんが、純白の船体塗色がわかるのはありがたいです。

これらのフネブネが、土浦から潮来や佐原へ、また鹿島大船津へと通っていた時代もあったわけで、内水航路のターミナルとして、この時代の国内でも、一二を争う存在だったことでしょう。なお、水郷汽船に関しては、リンク先でもある「水郷汽船史」(HAL東関東アクアライン)に詳しいので、ぜひご覧ください。

【追記】
操舵室が甲板室上に載ったタイプのフネブネ、明治の川蒸気を改造したものなどではなく、鹿島参宮鉄道が建造した蒸気船を、水郷汽船が引き取ったもののようです。お詫びして訂正します。詳しくは「『参宮丸』船隊? の面影を拾う」(29年4月13日更新)をご覧ください。

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タグ : 川蒸気船 霞ヶ浦 絵葉書・古写真 川口川閘門

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