関宿水閘門と横利根閘門の写真

なので、高所から俯瞰したものというだけでも動悸が高まるのですが、加えて被写体が大好物の閘門で、それも昭和初期の撮影、さらに組で航空写真付きとくれば、確実にオフィシャルなものですから、動悸どころかお熱も上がろうというもの。
他にもさまざまな意味で印象深い4枚でしたので、熱の上がるにまかせてあれこれと、暑苦しく…もとい、アツく語ってみたいと思います。お付き合いいただければ幸いです。
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●まず1枚目は、「關宿閘門及水堰」と題された、江戸川流頭部にある関宿水閘門(『関宿再訪…1』以下のシリーズ参照)の写真。まだコンクリートの肌も真新しく、水門右手には仮小屋らしいものも見られることから、昭和2年の竣工後、まだ間もないころの撮影とみてよいでしょう。
現在とは異なり、閘門のゲート上には橋や管路がなく、また扉体の形も異なり、歩み板と扉体天端の間が広いこと、岸には河岸棒を突いてもやう利根川高瀬舟の姿があるとことなど、ディテールが鮮明に写し出されています。
●この写真、「写真集 利根川高瀬船」(過去ログ『関宿城博物館で購入した書籍』参照)に掲載されており、よく眺めていたので、現物と向き合ったときの嬉しさもひとしおでした。
本書のキャプションによると、撮影は「昭和5年ごろ」、また「船はオモカジ側にクレーンを備えている」とありますが、これは間違いで、帆柱を起こしているか、もしくは倒している途中の様子がたまたま写ったものです。確かに一見すると、デリックのように見えなくもありませんね。
●いま一つ、水門の上に「関宿水堰」と書き込みがありますが、この「水堰」(『スイゼキ』と読むようです)という言葉が、以前から気になっていたんですよ。
この呼び名、昔の文献にはよく出てくるのですが、「堰」の一文字だけで、水をせき止める設備を意味するはずですから、それにわざわざ「水」をかぶせたのはなぜなんだろうと…。「水堰」の反対語で、「陸堰」という言葉でもあるのかしら? ご存知の方に、ご教示いただきたいものです。
●ちなみに、裏面の宛名・通信欄の比率は1:1、「Printed by Nihon Kotaku Shashin Co.」の銘が入っていました。特に興味深かったのは、印刷ではなく、種板から直接印画紙に焼き付けたものらしいこと。
鮮明さは印刷の比ではなく、ルーペでためつすがめつして眺めるのも、一段と熱を帯びるわけです。以上の3点はここに掲げた4枚とも同様で、書き込みの筆跡も似ていることから、組写真であることはほぼ確実でしょう。

●2枚目は「關宿閘門及水堰附近」と題した航空写真! 閘門下流側には通航待ちの船が列をなしているあたり、昭和に入ってもあなどれない通船量があったことが感じられます。水閘門右手の中之島には、すでに公園らしいものが造成されているのも気になりますね。
中之島の上、高水敷には浸食を防ぐためか、横堤のようなものが何本か突き出しています。また高水敷は今と異なり、水を湛えているあたり、ダムによる調節がなく流量が多かったのか、はたまたこの区間の河床が上がったのか、いずれにせよ興味を惹かれます。
●惜しむらくは、もう少し引いて、南側(写真下側)まで入れて撮っていたら、旧流頭にかつてあった人工狭窄部、「関宿棒出し」(昭和4年撤去)の有無から、撮影年がしぼれたのですが…。
上にも触れた、「写真集 利根川高瀬船」のキャプションを信じるなら、昭和5年、棒出し撤去後の撮影ということになります。

●これはいうまでもなく、水郷は横利根閘門(大正10年竣工)の俯瞰写真ですが……。いやあ、もう…ねえ? と、隣の人にわけのわからない同意を強要したくなる素晴らしさ!
横利根閘門の写真絵葉書は数あれど、これほど素敵なものは、少なくとも船頭は見たことがありませなんだ。タイトル写真にしたくてたまらなくなるくらい。
(その後、若干加工してタイトル写真にしました⇒こちら)
●レンガ一つ一つが見分けられそうな、画像の鮮やかさもさることながら、ド真ん中、近からず遠からずの距離から見下ろした構図の完璧さ!
ゲート横にテコを握って立つ閘門守たちの姿、護岸上のディテールや木々、そして閘室内にもやう船がくっきりと影を落とす水鏡まで、細部がことごとく看取でき、情報量の多さには目まいがするほど。閘門の息吹が聞こえてきそう! もう惚れこみましたわ!
●下の航空写真と併せて、撮影年について考察してみると、下流側(写真奥)に横利根橋がないことが、手がかりとしてまず挙げられると思います。横利根橋の竣工年は資料がないのですが、利根川を渡る旧水郷大橋(昭和11年竣工)と、ほぼ同時期とすると、写真はそれ以前の撮影ということになるでしょう。下の航空写真では、まだ旧水郷大橋が架かっていないからです。
また、閘室両側の木々の育ち方や、法面に芝が根付いているあたりも、竣工時の写真とくらべられれば、手がかりになりそうですね。まあ、組写真ですから、関宿閘門と同時期の撮影と考えた方が自然ではあります。
●しかしこの写真、いったいどこから撮ったのかが気になりますね。写真手前側には、過去はもとより、現在でも橋はありません。汽船のデッキにしては、あまりにも目線が高すぎますし、こんなに背の高い汽船は当時、当地に就航していません。高瀬舟など帆船のマストの上から? だとすれば帆桁にカメラマンを縛り付けて、引き上げたのかしら? 当時のカメラの鈍重さを考えると、これもちょっと非現実的ですね。
●色々と妄想してみたものの、やはり飛行機から撮ったとしか思えません。低空飛行でコースを定めて、通りすぎざまパチリとやったのか…。失敗の許されない一航過に、カメラマンも緊張したことでしょう。想像するだに、桁違いの手間をかけた贅沢な一枚であることが感じられて、なおさら感動が深くなってしまいます。
●長くなりましたが、それだけ見どころの多い写真ということで、あともう一つ。閘室内にもやっている船(冒頭の写真)のことです。一見して目を引かれるのが、船尾に備えられた舵らしきものが、二枚並列して設けられていることでしょう。アッと思い当るものがありました。これ、「トンネル船」じゃないか?
●「トンネル船」とは、「利根川高瀬船」(渡辺貢二著、崙書房)で触れられている、和船由来の木造動力船です。利根川下流で和船の動力化が模索された結果、大正後期ごろより登場した型式で、一本水押とご覧の二枚舵を外観上の特徴とし、「二枚の舵にはさまれたトンネルの中にスクリュー」(同書より)が突き出していたことから、「トンネル船」の通称があったとのこと。
川舟の必須条件である浅喫水を保ちながら、スクリュープロペラをうまくレイアウトするための工夫というわけですね。河川舟運の衰退期を飾った珍考案といったところで、二枚舵は本船でも多くありませんから、さぞ目立ったことと思われます。
●脱線しますが、この「トンネル船」の由来の真偽はさておくとして、個人的に「トンネル」で反射的に思い出されるのは、河用舟艇の船底形状。よい例が、国会図書館の近代デジタルライブラリーにありました。「日本近世造船史 附図」からの1ページ、「さつき丸舩體圖」をご覧ください。
●エンジンスペースの前後にベンチシートをめぐらした、いかにも軽快そうなオープンの川蒸気を描いたものです。側面図の船尾を見ると、プロペラが前後に二つ見えますね。
平面図のエンジンの配置から、この船は3軸船であることがわかりますから、後ろのプロペラは中央軸、前のプロペラは外側の軸を示したものでしょう。
●プロペラの周囲を注意して眺めると、喫水線はプロペラ軸とほぼ同じ高さで、船底のラインはプロペラを避けるようにカーブを描いて盛り上がり、喫水線の上に碗を伏せたような空間をつくっています。つまりプロペラは、半分を水面上に露出させており、船底ははそれを覆うような構造になっているのです。
スクリュープロペラは、暗車という別名のとおり、水面下にあって初めて効率よく推進力を発揮するものですから、これでは空回りしてしまうように思えます。
●実は、図では横断面図がないのでわかりづらいですが、プロペラ前後の船底は、プロペラの外形に合わせたような形で、まさにトンネル状にえぐられていて、船が前進すればトンネルは水で満たされ、プロペラは全面で水をかくことができるのです。
軸が複数あるのは、プロペラの直径を抑える目的があり、トンネルに収められ、船体にめり込んだ格好に配されたプロペラと併せて、喫水を浅くしながら推進力を得る工夫となっているというわけです。
●このようなやり方は、国内の河用船はもとより、戦前の長江で居留民保護に活躍した、各国の河用砲艦にも採用されていました。
以上のことから、利根川の「トンネル船」も実は、舵の間に云々ではなくて、船尾船底にこのようなトンネルが備えられてことから名づけられたのかも、と想像しています。閑話休題。

●最後に紹介する「横利根閘門附近」は、関宿のそれ同様航空写真です。天地が逆さまになっているのは、文字を入れた際の間違いで、写真としてはこれが正しい向きになります。横利根川と閘門を手前に、奥が利根川の下流方向で、右手には佐原の街並みが見えますね。
利根川本流はもともと、手前は写真左手・横利根川方向に、奥は写真右手の佐原寄りに、それぞれ大きく蛇行していたので、河道改修の様子も含めて写したものでしょう。佐原の左手には、蛇行の跡がまだ残っているのが見えます。
●先にも触れたように、閘門右手の利根川には、まだ水郷大橋が架かっていないころの撮影で、幹線道路らしいものはわずかに堤防道が見られる程度という、水上交通が主役だった時代を感じさせます。
左手、水郷十六島の光景は、沼沢地と高水敷が目立つ佐原側と対照的に、葉脈のような模様を描く、美しい田圃がすき間なく造成されているのが印象的ですね。
●この細かい葉脈の一本一本が、すべて農舟がいきかう小水路・エンマだと思うと、本当に目まいがしてくる思いがします。
水の便が良いだけに標高は低く、水害の避けられない土地柄でしたが、一周七里半といわれる十六島の外縁は自然堤防の微高地で、集落は大河川に沿って肩を寄せ合うようにかたちづくられました。写真でも利根川の左側沿いに、家屋が密集しているのをみることができます。これは現在でも変わっていません。

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