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雨の猊鼻渓…2

(『雨の猊鼻渓…1』のつづき)

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検温・消毒を済ませて待合室から乗り場に出てみると、すでに先客が乗っていて、船頭さんも艫にスタンバイしていました。雨天の朝に我々以外にもお客さんがあるとは、さすが日本百景に選ばれた景勝地、あなどれません。

264012.jpgビニールの屋根をたたく雨音を聞きつつ、船頭さんの竿さばきで桟橋を解纜。舟はいったん下流側を向いてから、堰と大船渡線の鉄橋を眺めつつ、ぐるりと船首をめぐらして上流へ。

写真左手、法面に樋門の開口部と扉体の巻上機が見えますね。あそこが用水の取水口なのでしょう。


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遡上を始めて間もなく、さっそく右手に「鏡明岩 kyomei-Gan」と看板を掲げた岩が出現。なるほど名のとおり、鏡を思わせる平らかさ。ローマ字の横に番号がふってあるのも、水郷の十二橋などを思わせて微笑ましい感じです。

猊鼻渓に見られる岩たちは、「古生代の堆積岩類の一部である石炭紀~二畳紀の石灰岩」(『地質ニュース 606号 みちのく石便り(その4)岩手の石と岩』63頁より)だそう。なるほど、このあたりは石灰石が産物の一つで、鉱山があちこちにあり、大船渡線も石灰石の積み出しで賑わった時代があったのですよね。

264014.jpg舟は進むにつれ、左手の岸にぐっと寄せてきました。水面を見ると、河床が透けて見えるほどの浅場。竿を突いているので、深いところを避けて舟行きするということでしょう。

船頭さんは、竿を突きながら枯れたいい声で説明をしてくれているのですが、ビニール屋根と水面をたたく雨音で、よく聞こえないのが何とも‥‥ううう。自分の日ごろの行いをうらむこと、しきりであります。

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気を取り直して、自分の座っている足元を観察。ちなみに、救命具を兼ねた座布団を、簀の子の上に置いて座っています。

左右に走る角材は和船の部材名称でいうトネギで、船底材であるシキの左右方向の結合と補強を担っているもの。これに両舷側のアバラが立ち上がって、棚板との角度を保っているわけですね。アバラは覆うようにあつらえた鋼材で、しっかりとボルト止めされているのがわかります。

左奥、アカ汲み(排水具)がさりげなく置いてあるのに目を引かれました。塩ビや金属製の市販品もありますが、これは木とアクリル板か何かであつらえた手製のようです。

右側、傘立てで隠れてしまい見づらいですが、ネームプレートが貼られているのも気になります。「新雪」でしょうか、板に文字を彫ったうえで塗料を入れた丁寧なつくりで、舟へのほのぼのとした愛情が感じられたものでした。

(令和3年4月17日撮影)

(『雨の猊鼻渓…3』につづく)

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タグ : 猊鼻渓砂鉄川一関市

雨の猊鼻渓…1

(『雨の猊鼻渓…0』のつづき)

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乗り場に向かって河畔を進むとまず目を奪われるのが、小瀑布をなすコンクリート製の堰。手前に長く伸びる魚道と、土砂吐でしょうか、複数のスリットを設けた簡潔な外観です。

テラスに設けられた説明板によると、この堰は松川堰といって、農業水利のため江戸時代に創設されたものだそう。堰の設置以前より、もともとここには落差があって、鮎や鮭が滝を乗り越えて遡上するさまから故事「登龍門」が連想され、「龍門ノ滝」と名付けられ、堰ができた後もその呼び名を継承しているようです。

疏水名鑑 松川堰」によれば、用水路の受益面積50.5ha、安永年間(1770年ごろ)には古文書の記載で堰の存在が確認でき、コンクリート堰になったのは昭和11年からだとか。

264007.jpg対岸近く、堰の天端に鴨さんカップルが! 越流する水に足を浸して立ち、よく流されないものだと感心したものでした。

流水が快いのか、食べ物が流れてくるのか、わざわざそこに立っているのは、何か理由があるのでしょうか。この後舟に乗ってからも、たびたび鴨さんとは顔を合わせることになります。

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堰を正横に見るあたり、一本の桜がまだ花を咲かせていて、かたわらには石碑や標柱がひと固まりに設けられた、どこか聖域(?)ぽい一角が。銅像は猊鼻渓の生みの親ともいわれる、佐藤猊厳翁(文久2~昭和16)のもの。

猊厳は号で本名は佐藤衡といい、父の佐藤洞潭(本名:謙治)とともに、猊鼻渓の保護と宣伝に努めた地元長坂出身の人物。猊鼻渓を開発から守るため、帝大の植物学者に調査を依頼したり、一方で景勝案内などを著し、広く内外に紹介したそう。

そうそう、意外なことに猊鼻渓駅の開設は割と最近で、昭和61年11月。それまでは大正14年の大船渡線開通以来、約2㎞離れた陸中松川が最寄駅でした。

264009.jpgげいび観光センターの乗り場の出札口で乗船券を購入、軒先に掲げられた案内図をスナップ。

航程は約1㎞とささやかなものですが、奇岩が織りなす川景色はどんなものか、楽しみです。かつては筏による赤松などの流下が行われていたとのこと、河相が険しいので舟航は恐らく無理だったでしょうが、ここ砂鉄川も立派な物流路だったことがしのばれます。

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雨脚ますます強く川面に水しぶきを上げ、少々気が滅入りますが、せっかく訪ねたのですから楽しみましょう。この雨とて、客扱いをする舟にはビニール張りの屋根がかかっていますが、たまたま目の前に露天の舟があったので、オッ、と身を乗り出し和船好きタイムに。

船首尾のしぼりがごく少ない幅広、扁平な船型で、船首は四角いオモテタテイタ風、船尾は垂直に近い戸立でしょうか。舷側は、一枚の棚板から構成された一階造りのようです。舷側内側には、アバラと通称される肋材が入っています。以前紹介した江戸時代の川船図鑑「船鑑」掲載のものだと、「馬渡船」と呼ばれた、馬匹などの大物でも載せられるよう工夫した船型に近いかたちですね。

水郷十六島のサッパ、近江八幡水郷のマルコブネなど、各地の河川や内水で乗った遊覧航路でも経験しましたが、これも地域の伝統船型が残る事例なのでしょうか? この点史料が手元になくわかりませんが、ご存じの方のご教示を願いたいところです。

(令和3年4月17日撮影)

(『雨の猊鼻渓…2』につづく)

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