松潟堰…1

気持のよい好天の下、湾岸から東関道へと順調に進んで外房を目指します。陽射しは強く、風も穏やかなこともあり暑いくらい。絶好の閘門日和ですね。

さんさんと秋の陽が降り注ぐ堤防の向こう、堰柱の巻上機室が顔を出しているのが見えますね。さっそく農道を横切り、ざくざくと半ば枯れた草を踏んで、法面を登りました。

●天端に立つと、河道が大きく屈曲していることも手伝い、堰のほぼ正面を望むことができる位置でした。手前にこんもりと、硬く締まっていそうな砂洲ができているのも目を引きますね。暖かで風も微か、河水も青く澄んで、まことにうららかな水門風景です。
この松潟堰、受益面積17,970haを誇る巨大灌漑水路、両総用水の一翼を担う取水堰で、平成21年の竣工というまだ若い施設。ゴム引布製の洪水吐ゲート(径間30.24m)2門を中心に、左手に見える鋼製ローラーゲートの土砂吐ゲート(径間10.5m)、右手の舟通し、そして魚道から成っています。
両総用水の概要や施設の詳細については、「両総用水のあゆみ」(PDF)および、「両総用水の各施設(4)東部幹線系ほか」(千葉県HP)が参考になりました。初代の堰はこれより下流260mにあり、汐止堰として昭和12年に竣工したとのこと。この堰は2代目なのですね。

●同じ場所からズームでたぐって、土砂吐ゲートを一枚。農閑期とあって、すべてのゲートが開放され休憩中といった風情。巻上機室が細身の堰柱にくらべずいぶん幅があり、頭でっかちでユーモラスな印象です。

●そして本命、舟通しです! 遠くから望んでも径間の狭小ぶりがわかって、大いにそそるものが。正確に測ったわけではありませんが、ウェブ上の地図を見たかぎり、横浜の新山下貯木場閘門よりわずかに南にあるようです。ということは、関東で一番南に位置する閘門かもしれません。竣工年からみても、更新された扇橋閘門を除いて、一からの新設では最も新しい閘門といってよいのではないでしょうか。
ここから眺めtだけでも、前後の扉室で倍も違う扉体の天地寸法、妙に高いところに設けられた信号、バイパスゲートのものらしい青いさやや巻上機らしきものなど、興味を引くディテールがいくつか目に留まりました。早く近くへ駆け寄りたくて、ウズウズするものが!
この閘門、例によってGoogleマップとストリートビューで徘徊中にたまたま見つけたのですが、ストリートビューで見たかぎりでは、管理橋は通行禁止、ゲート周りも高いフェンスで厳重に囲われ、近寄っての観察は難しそうな感触。ということは、対岸など離れたところから、ズームで狙うしかないかもしれません。まずは今いる北岸から、できるだけ視点を得ておくことにしました。
【撮影地点のMapion地図】
(元年11月4日撮影)
(『松潟堰…2』につづく)

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徳島城址と眉山
(『ひょうたん島周遊船…10』のつづき)

●ひょうたん島周遊船を降りた後は、徳島城博物館を訪ねました。収蔵品に和船好きとして見逃せない、御召鯨船の千山丸があるからです。参勤交代に使われた水軍船団の一隻かつ、国内唯一の現存する江戸期の和船を堪能して、売店前のベンチで休憩していると‥‥。
青石を組んだ石垣の櫓の上に、こんなものが立っているのが目に入りました。う~ん、これはどう見ても船のマストっぽい‥‥。いや、何かで見た記憶があるぞ、軍艦のマストじゃないか?
さっそく石段を踏んで、櫓上に登って近づいてみました。基礎部分には手すりがめぐらされ、明治時代の水雷艇や駆逐艦のちんまりとした艦橋を想わせる造り。はめ込まれた碑文を読んでみると‥‥。

●「大日本駆逐艦追風 記念マスト」とありました。おお、やはり。しかし、読み下してゆくうちに「え? え?」と引っかかる部分が。「日清・日露に歴戦した駆逐艦追風」‥‥えーと、無粋な突っ込みではありますが、駆逐艦は日清戦争時に存在していなかったような。
帰宅してから、「日本駆逐艦史」(海人社・平成24年)をひもといてみました。追風(おいて)は32隻が量産された神風型(381t)の一隻で、明治39年8月竣工、大正13年12月除籍、大正14年11月雑役船という艦歴。竣工が日露戦争後なので、日清・日露とも関係がないことになりますね。ううむ。
掲載されていた現役時、大正元年の写真と今のマストを見くらべても、ずいぶん形が違います。まあこれはその後の改造とか、前檣でなく実は後檣だったとかの可能性もありますが。記念マストになった後に倒壊したそうですから、そのときの改修時に原形を損なったとかでしょうか? 明治生まれの艦の遺物ということで、興味深くはあったのですが、首をかしげてしまう不思議な物件でありました。
●同じ櫓上には、ラジオ塔もありました。噂にきくラジオ塔の現物を前にしたのはこれが初めてだったので、興味深く拝見。
石燈籠のようでもあり、また橋の親柱を思い起こさせるものがあって、一見古風なようでも戦前のモダンさを感じさせるデザインで、かつ風格があって実によいものでした。
プレートの説明によると、昭和8年にJOXK、今のNHK徳島局が開設された際に建立、昭和58年開局50周年を記念し改修されたとのこと。櫓下の広場に人々が集って、ラジオ体操にいそしんだ昔がしのばれますね。

●翌15日は、阿波踊り会館からロープウェイに乗って、徳島に入って以来常に視界にあったご当地のシンボル、眉山の山頂へ。街を一望できる独立丘があるっのて、凄くうらやましい‥‥。
左手から吉野川の広大な河口、緑濃い城山の盛り上がり、そして新町川と、昨日来歩き、また船に乗ってきたエリアを眺めて、楽しかったあれこれを思い出すひととき。お天気に恵まれたことに感謝しながら、川の街・徳島を訪ねる十年来の念願をかなえた2日間を締めくくることができました。次回訪問時は必ず撫養航路に乗るぞ!
【撮影地点のMapion地図】
(元年9月14日・15日撮影)
(この項おわり)

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青石を組んだ石垣の櫓の上に、こんなものが立っているのが目に入りました。う~ん、これはどう見ても船のマストっぽい‥‥。いや、何かで見た記憶があるぞ、軍艦のマストじゃないか?
さっそく石段を踏んで、櫓上に登って近づいてみました。基礎部分には手すりがめぐらされ、明治時代の水雷艇や駆逐艦のちんまりとした艦橋を想わせる造り。はめ込まれた碑文を読んでみると‥‥。

●「大日本駆逐艦追風 記念マスト」とありました。おお、やはり。しかし、読み下してゆくうちに「え? え?」と引っかかる部分が。「日清・日露に歴戦した駆逐艦追風」‥‥えーと、無粋な突っ込みではありますが、駆逐艦は日清戦争時に存在していなかったような。
帰宅してから、「日本駆逐艦史」(海人社・平成24年)をひもといてみました。追風(おいて)は32隻が量産された神風型(381t)の一隻で、明治39年8月竣工、大正13年12月除籍、大正14年11月雑役船という艦歴。竣工が日露戦争後なので、日清・日露とも関係がないことになりますね。ううむ。
掲載されていた現役時、大正元年の写真と今のマストを見くらべても、ずいぶん形が違います。まあこれはその後の改造とか、前檣でなく実は後檣だったとかの可能性もありますが。記念マストになった後に倒壊したそうですから、そのときの改修時に原形を損なったとかでしょうか? 明治生まれの艦の遺物ということで、興味深くはあったのですが、首をかしげてしまう不思議な物件でありました。

石燈籠のようでもあり、また橋の親柱を思い起こさせるものがあって、一見古風なようでも戦前のモダンさを感じさせるデザインで、かつ風格があって実によいものでした。
プレートの説明によると、昭和8年にJOXK、今のNHK徳島局が開設された際に建立、昭和58年開局50周年を記念し改修されたとのこと。櫓下の広場に人々が集って、ラジオ体操にいそしんだ昔がしのばれますね。

●翌15日は、阿波踊り会館からロープウェイに乗って、徳島に入って以来常に視界にあったご当地のシンボル、眉山の山頂へ。街を一望できる独立丘があるっのて、凄くうらやましい‥‥。
左手から吉野川の広大な河口、緑濃い城山の盛り上がり、そして新町川と、昨日来歩き、また船に乗ってきたエリアを眺めて、楽しかったあれこれを思い出すひととき。お天気に恵まれたことに感謝しながら、川の街・徳島を訪ねる十年来の念願をかなえた2日間を締めくくることができました。次回訪問時は必ず撫養航路に乗るぞ!
【撮影地点のMapion地図】
(元年9月14日・15日撮影)
(この項おわり)

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