平成最後の川走り納め…14
(『平成最後の川走り納め…13』のつづき)
●平和橋をくぐり、最後の屈曲区間にかかりました。アウトコースに連なるテラスが緩い曲面をなし、陽の光を受けて白く輝いているさま、胸のすくような眺めでなかなか素敵。
進むほどに、堤防や家並の向こうから、首都高中央環状線の高架が徐々に見えてきて、ゴールが間近に迫った事を感じさせます。河道の向きから北西風はだいぶ防がれて、写真のように川面は穏やか。もう浅瀬もありませんから、少しピッチを上げて進みましょう。

●ここ、下水道局の本田ポンプ所で、樋門の方は過去ログで18年8月(テラス化前で、樋門も更新前)に紹介済みなんですが、今回大いに惹かれたのは、背後にある同施設の煙突!
いや、こんな秀逸な造形だったかしら? 刻まれたスリットから、何本もの“足”が流れるように末広がるさまが見事、どこかタコさんウインナーを思わせるカタチ。何度も通っているのに、なぜ記憶に残らなかったんだろう‥‥ボクのバカバカ(ポカポカ頭を殴る)。

●屈曲を曲がり切ると河道はほぼ真北に向き、太陽を正面上空に見る格好に。冬の陽の低さとくれば、これ以上ない形でのもろ逆光、それを透かして目を細めつつ眺める、上平井橋とかつしかハープ橋のシルエットもまた佳き哉。川面のギラギラが、橋たちをより格好良く見せていますよね。

●上平井橋に近づいてから仰ぐと、高欄に「大型船の航行あり。徐行願います。」の横断幕が。ここを抜けて上流に向かう、独航艀たちを指しているのでしょうか。
それと、上平井水門の工事に携わるフネブネへの注意も兼ねているのかも。そうそう、こちらの工事の進み具合も、この日見ておきたかったものの一つでした。新しい扉体と巻上機室が見られるかな?
【撮影地点のMapion地図】
(30年12月30日撮影)
(『平成最後の川走り納め…15』につづく)

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進むほどに、堤防や家並の向こうから、首都高中央環状線の高架が徐々に見えてきて、ゴールが間近に迫った事を感じさせます。河道の向きから北西風はだいぶ防がれて、写真のように川面は穏やか。もう浅瀬もありませんから、少しピッチを上げて進みましょう。

●ここ、下水道局の本田ポンプ所で、樋門の方は過去ログで18年8月(テラス化前で、樋門も更新前)に紹介済みなんですが、今回大いに惹かれたのは、背後にある同施設の煙突!
いや、こんな秀逸な造形だったかしら? 刻まれたスリットから、何本もの“足”が流れるように末広がるさまが見事、どこかタコさんウインナーを思わせるカタチ。何度も通っているのに、なぜ記憶に残らなかったんだろう‥‥ボクのバカバカ(ポカポカ頭を殴る)。

●屈曲を曲がり切ると河道はほぼ真北に向き、太陽を正面上空に見る格好に。冬の陽の低さとくれば、これ以上ない形でのもろ逆光、それを透かして目を細めつつ眺める、上平井橋とかつしかハープ橋のシルエットもまた佳き哉。川面のギラギラが、橋たちをより格好良く見せていますよね。


それと、上平井水門の工事に携わるフネブネへの注意も兼ねているのかも。そうそう、こちらの工事の進み具合も、この日見ておきたかったものの一つでした。新しい扉体と巻上機室が見られるかな?
【撮影地点のMapion地図】
(30年12月30日撮影)
(『平成最後の川走り納め…15』につづく)

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平成最後の川走り納め…13
(『平成最後の川走り納め…12』のつづき)

●本奥戸橋に近づくと、橋脚の右、アウトコースの径間側面に「航路↓ 航路↓ 航路↓」と航路表示が。3連発とは珍しいですね。
対して左径間はと見てみたら、「× × ×」とこれまた3連発でたたみかけ、通航不可であることを訴えていました。工事中でもないのに、念の入った表示をしてくれるとは、よほど座洲の事故が多かったのでしょうね。たまにしか通らない者にとっては、ありがたいことです。

●右へ左へと流路をなぞって下りつつ、スカイツリーがだいぶ近くなってきたなあ、と思ったら、左手にかつしかハープ橋の主塔が、チラリと頭をのぞかせているのに気づきました。蛇行区間を抜けるまで、あと一息です。
●ちょっとしたイベント(?)が、蛇行区間最低橋の平和橋くぐり。通過時刻は11:49、この日の昼間最高潮位の時刻を過ぎること54分で、ほぼ最高潮といってよいころ、潮位はA.P.+1.6mくらいでしょうか。
桁下高はA.P.+4mですから、その差は約2.4m、我が艇には余裕過ぎる数値でありますが、マスト灯をかすめる桁は結構な圧迫感で、橋の質量が肌に伝わるような近さでした。

●くぐって振り返ったところ。上流から見て右から2径間目にのみ、ご覧のような警戒塗装と▼マークがあり、航路であることを示しています。
中川中流区域に点在するマリーナを母港とする艇にとっては、潮時によって行く手を阻む、まさに隘路となっているのがこの橋。満潮時にいま一息で艇がつかえて、「乗組み総出で橋を持ち上げるようにして通った」なんて話を聞いたことがあります。大型のハードトップ艇目線で見れば、何とも忌まわしい存在ではあることでしょうね。
【撮影地点のMapion地図】
(30年12月30日撮影)
(『平成最後の川走り納め…14』につづく)

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対して左径間はと見てみたら、「× × ×」とこれまた3連発でたたみかけ、通航不可であることを訴えていました。工事中でもないのに、念の入った表示をしてくれるとは、よほど座洲の事故が多かったのでしょうね。たまにしか通らない者にとっては、ありがたいことです。

●右へ左へと流路をなぞって下りつつ、スカイツリーがだいぶ近くなってきたなあ、と思ったら、左手にかつしかハープ橋の主塔が、チラリと頭をのぞかせているのに気づきました。蛇行区間を抜けるまで、あと一息です。

桁下高はA.P.+4mですから、その差は約2.4m、我が艇には余裕過ぎる数値でありますが、マスト灯をかすめる桁は結構な圧迫感で、橋の質量が肌に伝わるような近さでした。

●くぐって振り返ったところ。上流から見て右から2径間目にのみ、ご覧のような警戒塗装と▼マークがあり、航路であることを示しています。
中川中流区域に点在するマリーナを母港とする艇にとっては、潮時によって行く手を阻む、まさに隘路となっているのがこの橋。満潮時にいま一息で艇がつかえて、「乗組み総出で橋を持ち上げるようにして通った」なんて話を聞いたことがあります。大型のハードトップ艇目線で見れば、何とも忌まわしい存在ではあることでしょうね。
【撮影地点のMapion地図】
(30年12月30日撮影)
(『平成最後の川走り納め…14』につづく)

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タグ : 中川
外輪曳船のこと
●外輪蒸気曳船の絵葉書を2枚、ご覧に入れます。同じ川や湖沼を活躍の場とした蒸気船とはいえ、華のある通運丸や銚子丸にくらべて人目につきづらかったせいか、写真・資料とも数が少ないようで、なかなかご縁に恵まれていません。
近代に入ってからも、河川舟運による関東近県から東京への移入量は莫大なものがあり、それを担ったのは高瀬舟ほかの荷舟群と、彼らを曳いてスピードアップに貢献した蒸気曳船こそ、川の物流の主役であったはずです。
曳船というと港内で活躍した大型のそれや、一銭蒸気に代表される客用艀を曳くもののように、暗車(スクリュー)船がまず思い浮かぶ中、カサ高な外輪を備えた「川の曳船」が少なからず存在していたことに、川蒸気好きとしては興味が注がれるのであります。

●(渡良瀬川改修工事)古河地先新川浚渫工事(曳船土運搬)
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。
●ほんの小さく写った、しかも不鮮明な写真ながら、これを初見したときは「外輪曳船だ!」と声を上げたものでした。黒くつぶれて判然としませんが、曳索の先に艀か何かを曳いています。キャプションの通り浚渫工事を主題としたものですから、左に見えるバケット式浚渫船にカメラを向けていたら、曳船が視界に入ってきた、といったところでしょうか。
絵葉書からは撮影年代を確定するよすががないものの、「渡良瀬川改修工事」で検索したところ、土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブスにある「渡良瀬川改修工事概要」がヒット。明治43年の大洪水に端を発し、利根川一帯に大規模な河川改修がなされたことはよく知られていますが、その一環として渡良瀬川周辺でも大正12年まで行われた、改修工事の一幕を写したものとみてよさそうです。ご参考まで。

●2隻の部分を拡大したもの。外輪カバーの張り出した様子から、客船と違い外輪が幅広なのが見てとれ、曳船らしい力強さを感じさせます。操舵室は一段高めてあり、後方への見通しも確保してあるつくりのようですね。
後甲板にはオーニングが張られており、その下に立っている人の姿も見えます。操舵室の上に黒く横に伸びたものがありますが、これも折りたたんだオーニングなのかもしれません。太く高い煙突にも、客船より強力な機関出力を感じたものです。何分遠景なので得られる情報は限られましたが、絵葉書では初めて見た外輪曳船だったので、大いに興奮させられたものでした。

●常陸 霞ケ浦ノ風景(佐原木内樓旅館蔵版)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらは一枚目のずいぶん後に出会ったもの。ディテールはくらべものにならないほど鮮明で、まあ、小躍りしたものです。最初、「バケット式浚渫装置を備えた川蒸気かな?」と首をかしげたのですが、よく見たらすぐ後ろに浚渫船がいて、重なって写っていただけでした。
全体を捉えててこそいないものの、濛々と噴き上がる煙が躍動感をいや増して、蒸気船の魅力にあふれた、実にいいショットですね。霞ケ浦ということですが、後ろには産物を満載した艀を何隻も曳いて、土浦を発し長躯、東京に向かうところかしら、などと想像させるものがあります。

●曳船をグッと拡大。まず外輪が挙げる力強い水しぶき、カバーの厚みに目を奪われます。煙突先端の火の粉留め、カバー側面の抜き装飾や、2本下がったフェンダーまで看取できるほどなだけに、船名が読み取れないのが惜しいですね。
カバー船首側壁面は、一見舷側から直角に伸びているように思えますが、影のつき方や舷縁の様子から、前後とも斜めになっていることがわかりました。船首は一枚目の曳船同様、曲線を描いたいわゆる「スプーン・バウ」となっているのが気になります。造船所が同じだったのか、または外輪曳船に適した船形ということで採用されたのでしょうか。
●利根川水系の曳船について言及した書籍で思い出されるのは、まず「通運丸と黒田船長―消えた蒸気船とそのころ―」(佐賀純一著・筑波書林・昭和55年)でしょう。
大正から昭和初期までを通運丸の船長として過ごした、黒田留吉氏の談話集を中心にまとめられたものですが、黒田氏が川船乗りとしての第一歩を踏み出したのが、客船でなく川曳船。高瀬舟を艀として曳くシーンなど、当時の曳船業の様子が描写されています。「日本木船図集」から転載したとおぼしき、外輪曳船の図面も掲載されており、この一冊から川曳船への興味が始まったといってよいものです。
●また「利根川高瀬船」(渡辺貢二著・崙書房・平成2年)には、もと船頭の談話の中に、川曳船を指す「曳きボート」という言葉がたびたび出てきました。「黒田船長」の本文中でも指摘されていますが、川汽船の登場によって従来の和船がいきなり衰微に向かったのではなく、適宜曳船を頼ることによって、むしろ運航が効率化し、共存共栄の関係にあったことが見てとれるわけです。
帆柱を横たえた高瀬舟を4隻、5隻と曳いて、黒煙濛々、幅広なパドルの水音も頼もしく利根川筋を上下した外輪曳船たち! 近代の河川物流を担ったこのフネブネの姿を、もっともっと見てみたいものです。

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近代に入ってからも、河川舟運による関東近県から東京への移入量は莫大なものがあり、それを担ったのは高瀬舟ほかの荷舟群と、彼らを曳いてスピードアップに貢献した蒸気曳船こそ、川の物流の主役であったはずです。
曳船というと港内で活躍した大型のそれや、一銭蒸気に代表される客用艀を曳くもののように、暗車(スクリュー)船がまず思い浮かぶ中、カサ高な外輪を備えた「川の曳船」が少なからず存在していたことに、川蒸気好きとしては興味が注がれるのであります。

●(渡良瀬川改修工事)古河地先新川浚渫工事(曳船土運搬)
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。
●ほんの小さく写った、しかも不鮮明な写真ながら、これを初見したときは「外輪曳船だ!」と声を上げたものでした。黒くつぶれて判然としませんが、曳索の先に艀か何かを曳いています。キャプションの通り浚渫工事を主題としたものですから、左に見えるバケット式浚渫船にカメラを向けていたら、曳船が視界に入ってきた、といったところでしょうか。
絵葉書からは撮影年代を確定するよすががないものの、「渡良瀬川改修工事」で検索したところ、土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブスにある「渡良瀬川改修工事概要」がヒット。明治43年の大洪水に端を発し、利根川一帯に大規模な河川改修がなされたことはよく知られていますが、その一環として渡良瀬川周辺でも大正12年まで行われた、改修工事の一幕を写したものとみてよさそうです。ご参考まで。

●2隻の部分を拡大したもの。外輪カバーの張り出した様子から、客船と違い外輪が幅広なのが見てとれ、曳船らしい力強さを感じさせます。操舵室は一段高めてあり、後方への見通しも確保してあるつくりのようですね。
後甲板にはオーニングが張られており、その下に立っている人の姿も見えます。操舵室の上に黒く横に伸びたものがありますが、これも折りたたんだオーニングなのかもしれません。太く高い煙突にも、客船より強力な機関出力を感じたものです。何分遠景なので得られる情報は限られましたが、絵葉書では初めて見た外輪曳船だったので、大いに興奮させられたものでした。

●常陸 霞ケ浦ノ風景(佐原木内樓旅館蔵版)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらは一枚目のずいぶん後に出会ったもの。ディテールはくらべものにならないほど鮮明で、まあ、小躍りしたものです。最初、「バケット式浚渫装置を備えた川蒸気かな?」と首をかしげたのですが、よく見たらすぐ後ろに浚渫船がいて、重なって写っていただけでした。
全体を捉えててこそいないものの、濛々と噴き上がる煙が躍動感をいや増して、蒸気船の魅力にあふれた、実にいいショットですね。霞ケ浦ということですが、後ろには産物を満載した艀を何隻も曳いて、土浦を発し長躯、東京に向かうところかしら、などと想像させるものがあります。

●曳船をグッと拡大。まず外輪が挙げる力強い水しぶき、カバーの厚みに目を奪われます。煙突先端の火の粉留め、カバー側面の抜き装飾や、2本下がったフェンダーまで看取できるほどなだけに、船名が読み取れないのが惜しいですね。
カバー船首側壁面は、一見舷側から直角に伸びているように思えますが、影のつき方や舷縁の様子から、前後とも斜めになっていることがわかりました。船首は一枚目の曳船同様、曲線を描いたいわゆる「スプーン・バウ」となっているのが気になります。造船所が同じだったのか、または外輪曳船に適した船形ということで採用されたのでしょうか。
●利根川水系の曳船について言及した書籍で思い出されるのは、まず「通運丸と黒田船長―消えた蒸気船とそのころ―」(佐賀純一著・筑波書林・昭和55年)でしょう。
大正から昭和初期までを通運丸の船長として過ごした、黒田留吉氏の談話集を中心にまとめられたものですが、黒田氏が川船乗りとしての第一歩を踏み出したのが、客船でなく川曳船。高瀬舟を艀として曳くシーンなど、当時の曳船業の様子が描写されています。「日本木船図集」から転載したとおぼしき、外輪曳船の図面も掲載されており、この一冊から川曳船への興味が始まったといってよいものです。
●また「利根川高瀬船」(渡辺貢二著・崙書房・平成2年)には、もと船頭の談話の中に、川曳船を指す「曳きボート」という言葉がたびたび出てきました。「黒田船長」の本文中でも指摘されていますが、川汽船の登場によって従来の和船がいきなり衰微に向かったのではなく、適宜曳船を頼ることによって、むしろ運航が効率化し、共存共栄の関係にあったことが見てとれるわけです。
帆柱を横たえた高瀬舟を4隻、5隻と曳いて、黒煙濛々、幅広なパドルの水音も頼もしく利根川筋を上下した外輪曳船たち! 近代の河川物流を担ったこのフネブネの姿を、もっともっと見てみたいものです。

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平成最後の川走り納め…12
(『平成最後の川走り納め…11』のつづき)
●魚探の感に目を落としながら、蛇行区間を微速で航進開始。左に大きく曲がる最初の屈曲を過ぎて、奥戸橋の全貌を視界にとらえたころ‥‥。
5m前後で推移する河底の感に、何やらいにしえのネッシーの頭部を思わせるような、妙な形が出現! 思わず構えていたカメラを向けたほどでした。何でしょう、斜めに刺さった杭状のものが、たまたまこんな形になったのでしょうか。
コレが形状を保ったまま、くるっと逆を向いたりしたら怖いな‥‥などと妄想したものの、幸い“ネッシー”はおとなしくモニターから消え去ってくれました。

●奥戸橋の上流側には、2隻の杭打船がもやっていました。このあたりはまだ護岸に沿って鋼管矢板を打ち込んでいる段階で、テラスが出現するにはしばらくかかるようです。

●奥戸橋の中央径間ををくぐり、振り返って。写真のように左側は足場がかかり、中央に「航路」の表示があったので、迷わず艇を進めることができました。

●目線がひゅっと吸い寄せられたのが、浚渫船団の台船にもやっていたこの警戒船。まあ、甲板室と呼ぶのも気恥ずかしくなるような小屋が、取って付けたように船首尾に「建て増し」されていて、その強烈なこと。
長時間同一水面上に留まる警戒船の任務を考えると、身をあぶる陽光と川面を渡ってくる風を防ぎ、なおかつ視界の良い居室は必要不可欠ですから、ユーモラスなその姿に惹かれるとともに、乗り組みさんの切実さも感じられたのでした。
●180度近い大屈曲を回ると、青空のグラデーションを背負って、本奥戸橋が見えてきました。右手の上下流にはすでにテラスが整備され、堤防の法面が白く輝いています。
下端が緩やかな中高の曲線を描くトラスです。中央に橋脚を持ちながら、トラス構造としては連続しているスタイルですが、この場合は二径間というべきか、それとも一径間でよいのでしょうか。
【撮影地点のMapion地図】
(30年12月30日撮影)
(『平成最後の川走り納め…13』につづく)

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5m前後で推移する河底の感に、何やらいにしえのネッシーの頭部を思わせるような、妙な形が出現! 思わず構えていたカメラを向けたほどでした。何でしょう、斜めに刺さった杭状のものが、たまたまこんな形になったのでしょうか。
コレが形状を保ったまま、くるっと逆を向いたりしたら怖いな‥‥などと妄想したものの、幸い“ネッシー”はおとなしくモニターから消え去ってくれました。

●奥戸橋の上流側には、2隻の杭打船がもやっていました。このあたりはまだ護岸に沿って鋼管矢板を打ち込んでいる段階で、テラスが出現するにはしばらくかかるようです。

●奥戸橋の中央径間ををくぐり、振り返って。写真のように左側は足場がかかり、中央に「航路」の表示があったので、迷わず艇を進めることができました。

●目線がひゅっと吸い寄せられたのが、浚渫船団の台船にもやっていたこの警戒船。まあ、甲板室と呼ぶのも気恥ずかしくなるような小屋が、取って付けたように船首尾に「建て増し」されていて、その強烈なこと。
長時間同一水面上に留まる警戒船の任務を考えると、身をあぶる陽光と川面を渡ってくる風を防ぎ、なおかつ視界の良い居室は必要不可欠ですから、ユーモラスなその姿に惹かれるとともに、乗り組みさんの切実さも感じられたのでした。

下端が緩やかな中高の曲線を描くトラスです。中央に橋脚を持ちながら、トラス構造としては連続しているスタイルですが、この場合は二径間というべきか、それとも一径間でよいのでしょうか。
【撮影地点のMapion地図】
(30年12月30日撮影)
(『平成最後の川走り納め…13』につづく)

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タグ : 中川
平成最後の川走り納め…11
(『平成最後の川走り納め…10』のつづき)
●コンクリートの白い肌が、まだ若さを感じさせる三輪橋。バルコニーのラインや橋灯のデザインもお洒落ですね。あら、桁側面はハトさんがズラリ‥‥陽当たりがよいので、きっと暖かなのでしょうね。
下写真、細田橋は例によって人道橋併設の橋ですが、桁のみならず橋脚も汚れて、くたびれぶりは痛々しいほどですね。こちらも架け替えが近いのでしょうか。

●高砂諏訪橋をくぐったところで、中川本流との分流点に到達。左手に広大な流路と、青砥橋のシルエットが見えてきました。
ここから上平井橋までの蛇行区間は、浅瀬やガレ場が多く、よほど通り馴れていなければ緊張を強いられるところ。ただこの十年ほど、テラス化や護岸改良が盛んに行われ、浚渫など河道整備も進んだようですから、以前よりは随分ましになったはずです。

●とはいうものの、さっそく右手に意図不明のブイが数個出現したりして、不安をかき立てられるものが。ここは用心して魚探の感を確かめながら、微速でそろりと歩かせるとしましょう。久しぶりに通るので、沿岸の変化が観察できるのは楽しみではあります。
【撮影地点のMapion地図】

●護岸の工事は続いているようで、分流点から業務船の姿がいくつか見られたのですが、左手に見えたこれはコンクリート打設用らしい設備を載せた台船に、数隻の曳船がもやったもの。蛇行する河道の軸線が風向と合ったからでしょう、写真のように白波が立ち、陽光が乱反射する川面をゆっくりと下ります。
(30年12月30日撮影)
(『平成最後の川走り納め…12』につづく)

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下写真、細田橋は例によって人道橋併設の橋ですが、桁のみならず橋脚も汚れて、くたびれぶりは痛々しいほどですね。こちらも架け替えが近いのでしょうか。


ここから上平井橋までの蛇行区間は、浅瀬やガレ場が多く、よほど通り馴れていなければ緊張を強いられるところ。ただこの十年ほど、テラス化や護岸改良が盛んに行われ、浚渫など河道整備も進んだようですから、以前よりは随分ましになったはずです。

●とはいうものの、さっそく右手に意図不明のブイが数個出現したりして、不安をかき立てられるものが。ここは用心して魚探の感を確かめながら、微速でそろりと歩かせるとしましょう。久しぶりに通るので、沿岸の変化が観察できるのは楽しみではあります。
【撮影地点のMapion地図】

●護岸の工事は続いているようで、分流点から業務船の姿がいくつか見られたのですが、左手に見えたこれはコンクリート打設用らしい設備を載せた台船に、数隻の曳船がもやったもの。蛇行する河道の軸線が風向と合ったからでしょう、写真のように白波が立ち、陽光が乱反射する川面をゆっくりと下ります。
(30年12月30日撮影)
(『平成最後の川走り納め…12』につづく)

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