「水都号」が気になる!
●川や運河を走るフネブネの姿をとらえた絵葉書を、惹かれるままに集めているのは相変わらずなのですが、意外とご縁がないのが、大阪の川舟たちや水路風景を題材にした絵葉書です。
国内を代表する水路の街であることを、自他ともに認めてきた大阪のことですから、その手の絵葉書が少ないはずはなく、単に私が見落としているか、ご縁が薄いだけなのだと思いますが、それでも何枚かの川景色やフネブネを写した絵葉書が、手元に集まってきました。中でも気になったのが、以下の3枚に写っていた船のことです。

●中央公会堂の重厚な姿と、美しく整備成った水辺をバックに快走する、純白の船。遠いのでディテールは判然としませんが、どこかつるりとした、スマートなデザインの船であることは写真からも見て取れます。
キャプションには「観光艇」‥‥。これだけでは何とも、素性のわかりようがありません。しかし、昭和戦前の大阪の川で、格好のよい観光用の船が就航していたことを知って、楽しい気分になったのでした。

●次に見つけたのは上の絵葉書。あっ、この間も見た船だ! 背後のテラスには「観光艇のりば」と書かれた看板が掲げられ、船着場に達着中であることがわかりますね。今度はだいぶ近寄って撮られたものだったため、ディテールがかなり判別できます。
全体に丸みをおびた、当時流行の流線形を意識したと思しき外観です。操舵室は客室より一段高く造られ、後ろにもスリット状の窓が設けられているあたり、曲線を取り入れた窓の形と調和して、なかなか斬新な感じ。後部はキャンバスオーニングを張った露天甲板と、レイアウトは現代の水上バスに近く、流線形スタイルとともに、80年近く前とは思えない近代味を感じさせますね。
他地方の河川では、まだ曳船に客用艀というパターンが幅を利かせていた時代、この船は時代を先取りどころか、抜きん出た存在だったのではないでしょうか。いや、すっかり気に入ってしまいました。

●最後に入手したのが、航走中の姿を前方からアップでとらえたもの! これには嬉しくなりました。しかも、キャプションには「観光艇『水都』號」とあり、船名が「水都号」であることも判明。
迫りくる姿を見ると、まさに「流線形時代の寵児」と、大時代なフレーズで呼んでこそしっくりくるようなスタイルが一目瞭然! タートルバックの船首甲板、流れるようなラインと、それに合わせて配された五枚の前面窓など、魅力満載の角度といってもいい過ぎでないでしょう。
●さて、こうなると「水都号」の素性が、ますます気になってくるところ。何冊か本をひっくり返しても記述に当たらず、しばらく忘れて過ごしていたら、ある日ふと開いた「写真で見る大阪市100年」(編集・発行・財団法人大阪都市協会、平成元年)に、小さいものの写真と、かなり詳しいキャプションが載っていたのにようやく気付き、小躍りしました。
掲載されていた写真は、堂島川を下る「水都号」の姿と、豪華な船内、そして女性乗務員「マリンガール」のポートレートの3枚。以下、キャプションを抜粋してみましょう。
「商都大阪の繁栄を広く内外に紹介するため、昭和11年6月に就航した。コースは淀屋橋-土佐堀川-天神橋-堂島川-安治川-大阪港-木津川-土佐堀川-淀屋橋。料金は大人1円、子供50銭であった。」
「長さ15m、幅4.5m、31.4tの『水都』は流線形の船体にサロン式のキャビンを持つ豪華船。」
「ボーイッシュな帽子、白いリボンのついたセーラー服でフレッシュな案内が好評であった。」
●コースに料金のみならず船体寸法に加え、女性乗務員の存在や夏冬の制服の写真までと、小粒ながらも至れりつくせりの内容に、もうすっかりご満悦。当時のモダン大阪の最先端シーンを演出した、重要な船だったことが記事からも伝わってきました。
「水都号」はその後、どうなったのでしょう。水上観光の看板船として、戦後も元気に大阪の川を走っていたのでしょうか。鳴り物入りで就航した豪華船となれば、さぞ目立ったことでしょうから、もし戦後も活躍していたのなら、記憶されている方も少なくないに違いありません。晩年の姿を記録した本や記事があったら、ぜひ拝見してみたいものです。

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国内を代表する水路の街であることを、自他ともに認めてきた大阪のことですから、その手の絵葉書が少ないはずはなく、単に私が見落としているか、ご縁が薄いだけなのだと思いますが、それでも何枚かの川景色やフネブネを写した絵葉書が、手元に集まってきました。中でも気になったのが、以下の3枚に写っていた船のことです。

●中央公会堂の重厚な姿と、美しく整備成った水辺をバックに快走する、純白の船。遠いのでディテールは判然としませんが、どこかつるりとした、スマートなデザインの船であることは写真からも見て取れます。
キャプションには「観光艇」‥‥。これだけでは何とも、素性のわかりようがありません。しかし、昭和戦前の大阪の川で、格好のよい観光用の船が就航していたことを知って、楽しい気分になったのでした。

●次に見つけたのは上の絵葉書。あっ、この間も見た船だ! 背後のテラスには「観光艇のりば」と書かれた看板が掲げられ、船着場に達着中であることがわかりますね。今度はだいぶ近寄って撮られたものだったため、ディテールがかなり判別できます。
全体に丸みをおびた、当時流行の流線形を意識したと思しき外観です。操舵室は客室より一段高く造られ、後ろにもスリット状の窓が設けられているあたり、曲線を取り入れた窓の形と調和して、なかなか斬新な感じ。後部はキャンバスオーニングを張った露天甲板と、レイアウトは現代の水上バスに近く、流線形スタイルとともに、80年近く前とは思えない近代味を感じさせますね。
他地方の河川では、まだ曳船に客用艀というパターンが幅を利かせていた時代、この船は時代を先取りどころか、抜きん出た存在だったのではないでしょうか。いや、すっかり気に入ってしまいました。

●最後に入手したのが、航走中の姿を前方からアップでとらえたもの! これには嬉しくなりました。しかも、キャプションには「観光艇『水都』號」とあり、船名が「水都号」であることも判明。
迫りくる姿を見ると、まさに「流線形時代の寵児」と、大時代なフレーズで呼んでこそしっくりくるようなスタイルが一目瞭然! タートルバックの船首甲板、流れるようなラインと、それに合わせて配された五枚の前面窓など、魅力満載の角度といってもいい過ぎでないでしょう。
●さて、こうなると「水都号」の素性が、ますます気になってくるところ。何冊か本をひっくり返しても記述に当たらず、しばらく忘れて過ごしていたら、ある日ふと開いた「写真で見る大阪市100年」(編集・発行・財団法人大阪都市協会、平成元年)に、小さいものの写真と、かなり詳しいキャプションが載っていたのにようやく気付き、小躍りしました。
掲載されていた写真は、堂島川を下る「水都号」の姿と、豪華な船内、そして女性乗務員「マリンガール」のポートレートの3枚。以下、キャプションを抜粋してみましょう。
「商都大阪の繁栄を広く内外に紹介するため、昭和11年6月に就航した。コースは淀屋橋-土佐堀川-天神橋-堂島川-安治川-大阪港-木津川-土佐堀川-淀屋橋。料金は大人1円、子供50銭であった。」
「長さ15m、幅4.5m、31.4tの『水都』は流線形の船体にサロン式のキャビンを持つ豪華船。」
「ボーイッシュな帽子、白いリボンのついたセーラー服でフレッシュな案内が好評であった。」
●コースに料金のみならず船体寸法に加え、女性乗務員の存在や夏冬の制服の写真までと、小粒ながらも至れりつくせりの内容に、もうすっかりご満悦。当時のモダン大阪の最先端シーンを演出した、重要な船だったことが記事からも伝わってきました。
「水都号」はその後、どうなったのでしょう。水上観光の看板船として、戦後も元気に大阪の川を走っていたのでしょうか。鳴り物入りで就航した豪華船となれば、さぞ目立ったことでしょうから、もし戦後も活躍していたのなら、記憶されている方も少なくないに違いありません。晩年の姿を記録した本や記事があったら、ぜひ拝見してみたいものです。

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戸田漕艇場のあたり…2
(『戸田漕艇場のあたり…1』のつづき)

●南側に回ると、戸田公園の地図を掲げた案内板がありました。
今いる水門のあるあたりの両岸は、いわば艇庫街。ゴールラインの東側に取った水面なので、他のチームが練習中にも邪魔にならない、船溜的なスペースということなのでしょう。
●さて、ここに着いたときから、道路を挟んで水門と対面するところに、気になるものがありました。小さなオベリスクのような、石造りの塔が一対。何かの記念碑だろうと思っていたら、よくよく見てみると、基部にはめ込まれた銘板に「戸田橋」と!
えっ、これはもしかして、旧戸田橋の親柱を移設したもの? まさか、こんなところにあったとは‥‥。

●近づいてみると、頂部に青銅色の帽子をかむり、段のついた部分にも装飾を施された立派なもの。右の親柱には「埼玉縣」と県名が入り、そのかたわらには、「戸田橋親水公園」と刻まれた石が立てられていました。
公園のあるスペースは、菖蒲川と漕艇場の水面をつなぐ、水路敷を利用したものです。暗渠化した水路上に、親水公園を設ける手法はよく見られますが、旧橋を顕彰するための場所を兼ねさせたあたり、珍しく思ったものでした。

●水門と漕艇場を背にしてたたずむ、古風な親柱と袖高欄のある水辺風景‥‥なかなかよいものですね。
場所柄、現戸田橋を望むことはかなわないものの、ほど近いところで、しかも荒川水系の水路上で余生を送っているのだと思うと、何とはなしに暖かい気持ちになったのでした。
【撮影地点のMapion地図】
(27年2月3日撮影)
(『戸田漕艇場のあたり…3』につづく)

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●南側に回ると、戸田公園の地図を掲げた案内板がありました。
今いる水門のあるあたりの両岸は、いわば艇庫街。ゴールラインの東側に取った水面なので、他のチームが練習中にも邪魔にならない、船溜的なスペースということなのでしょう。

えっ、これはもしかして、旧戸田橋の親柱を移設したもの? まさか、こんなところにあったとは‥‥。


公園のあるスペースは、菖蒲川と漕艇場の水面をつなぐ、水路敷を利用したものです。暗渠化した水路上に、親水公園を設ける手法はよく見られますが、旧橋を顕彰するための場所を兼ねさせたあたり、珍しく思ったものでした。

●水門と漕艇場を背にしてたたずむ、古風な親柱と袖高欄のある水辺風景‥‥なかなかよいものですね。
場所柄、現戸田橋を望むことはかなわないものの、ほど近いところで、しかも荒川水系の水路上で余生を送っているのだと思うと、何とはなしに暖かい気持ちになったのでした。
【撮影地点のMapion地図】
(27年2月3日撮影)
(『戸田漕艇場のあたり…3』につづく)

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戸田漕艇場のあたり…1

漕艇場は西端を笹目川、東端を菖蒲川と、荒川の支流二河川に挟まれた形で広がっていますが、訪ねたのは東端、菖蒲川との接続部分。水位を管理された堤内地の水面らしく、川と接するここには水門が設けられていました。

●柵の間から水門を見上げて。規模のわりに大ぶりな螺旋階段が、一元管理された遠隔操作でなく、つどゲート上に上がって扉体を運転する、機側操作の水門であることを伝えています。

この近くの旧地名から取った名前(戸田市南町8にも『曲尺手遊園地』あり)と思われますが、宿場町であった戸田らしい地名で、面白く思ったものです。

●うららかな陽を浴びて、たたずむ水門を南側から。ひたひたの低い護岸と、枯れた芝生の法面がいい感じ。扉体はブルー、巻上装置はスピンドルで電動です。
手前にはアルミ製のささやかな管理橋と、可愛らしいテルファー(クレーン)が備えられていました。ゴミよけのフェンスか何か、重量物の上げ下ろしに使うのでしょう。

●水門の横に、漕艇場の水面を一望できる場所がありました。実業団や大学の艇庫と桟橋が並ぶ右手前から、漕艇場と競艇場を分かつ戸田公園大橋を遠望でき、さらにはるか彼方の山並までうっすら望めて、直線的な気持ちのよい水辺風景です。
東西の長さ、およそ2500m。当初、昭和15年に開催されるはずだった、東京オリンピックのための施設の中で、戦前に一応の竣工を見たのは、芝浦の自転車競技場とここ、戸田漕艇場だけだったのだとか(参考:『幻の1940年計画』指南役・著)。自転車競技場も姿を消して久しいそうですから、戸田漕艇場がいわば唯一の、「幻の第12回東京大会」の忘れ形見、ということになるのですね。
【撮影地点のMapion地図】
(27年2月3日撮影)
(『戸田漕艇場のあたり…2』につづく)

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観音崎散歩…7
(『観音崎散歩…6』のつづき)

●トンネルのすぐ横には、ゆるい下り坂に沿って並んだ砲台群がありました。先の第一砲台より草木の浸食がひどく、今にも埋もれてしまいそうに見えます。
説明版によれば、ここは北門第二砲台と呼ばれ、第一と同じく明治17年竣工、元は24センチ加農砲6門を備えていたとのこと。うち現存しているのは3砲座で、「日本の要塞」の記事には、大正14年に付属施設をのぞき、除籍廃止されたとありました。
●砲台の一つに上ってみました。積もった落ち葉を踏みながら分け入ると、真ん中やや壁寄りに、右写真のようなコンクリートの台座らしきものが。
風化が進んで、骨材がすっかり洗い出されたようになり、崩壊寸前といった感じですが、天端が平滑に加工されていることから、照準装置が何かの基部のように思えました。まあ、砲のあるべき真ん中に、台があるのも少し変ではあるので、砲台廃止後に造られたのかもしれません。

●砲台群を右手に見て坂を下ると、東京湾海上交通センターの敷地内に。海上や水辺からのおなじみの姿は、塔屋の上半分なので、本体(?)はこんなカタチだったのかと妙に感動。
特に塔の基部が格好いいですね。ちなみにこの敷地も、かつては砲台の一部だったそうです。

●海上交通センターの横から、つづら折れの散策道を足取り軽く下ると、最初に見た浜辺のあたりに出ました。探検気分を満喫した後は、やはり水道をゆくフネブネ鑑賞。
ちょうど、黒い船体の巨船が南下してきたので一枚。船名は「GASLOG SHANGHAI」。航路脇に点々と散らばる漁船が、まるで豆粒のように見えるくらい、乾舷の高い大きな船でした。
●沖ゆくフネブネを愛でながらのんびり歩いていたら、バーベキューのおこぼれをねだりにきたのか、近寄っても逃げないスズメ君がいたので、一枚パチリ。
緑濃い山肌が磯に迫っているせいか、野鳥の姿も多く見られ、トリ好きとしても楽しいところ。浜はバーベキュー場として開放されているので、鳥たちにとっても格好の餌場になっているのでしょうね。
(27年1月18日撮影)
(この項おわり)

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●トンネルのすぐ横には、ゆるい下り坂に沿って並んだ砲台群がありました。先の第一砲台より草木の浸食がひどく、今にも埋もれてしまいそうに見えます。
説明版によれば、ここは北門第二砲台と呼ばれ、第一と同じく明治17年竣工、元は24センチ加農砲6門を備えていたとのこと。うち現存しているのは3砲座で、「日本の要塞」の記事には、大正14年に付属施設をのぞき、除籍廃止されたとありました。

風化が進んで、骨材がすっかり洗い出されたようになり、崩壊寸前といった感じですが、天端が平滑に加工されていることから、照準装置が何かの基部のように思えました。まあ、砲のあるべき真ん中に、台があるのも少し変ではあるので、砲台廃止後に造られたのかもしれません。

●砲台群を右手に見て坂を下ると、東京湾海上交通センターの敷地内に。海上や水辺からのおなじみの姿は、塔屋の上半分なので、本体(?)はこんなカタチだったのかと妙に感動。
特に塔の基部が格好いいですね。ちなみにこの敷地も、かつては砲台の一部だったそうです。

●海上交通センターの横から、つづら折れの散策道を足取り軽く下ると、最初に見た浜辺のあたりに出ました。探検気分を満喫した後は、やはり水道をゆくフネブネ鑑賞。
ちょうど、黒い船体の巨船が南下してきたので一枚。船名は「GASLOG SHANGHAI」。航路脇に点々と散らばる漁船が、まるで豆粒のように見えるくらい、乾舷の高い大きな船でした。

緑濃い山肌が磯に迫っているせいか、野鳥の姿も多く見られ、トリ好きとしても楽しいところ。浜はバーベキュー場として開放されているので、鳥たちにとっても格好の餌場になっているのでしょうね。
(27年1月18日撮影)
(この項おわり)

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タグ : 観音崎観音崎砲台東京湾海上交通センター
観音崎散歩…6
(『観音崎散歩…5』のつづき)
●灯台敷地内の屋外展示品や、資料展示室を拝見してから、別ルートでお散歩しつつ山を降りようと外へ。しばし水辺とはお別れです。

●門を出て左手を見ると、うおっ、ものすごく狭い切り通しだ! 幅は1.5mくらいでしょうか、人のすれ違いも難しそうで、しかも道はカーブした急な下りときた! いきなり探検気分を盛り上げてくれますね。
地層のしましま模様と、岩肌のざらついた感触を楽しみながら通ると、切り通し区間はすぐ終わり、灯台の裏手へ出ました。稜線を切り通しで越えたわけですね。この後、道は等高線に沿ったような、山肌をうねる散策路となります。

●うっそうとした山中を、案内板を頼りにたどっていくと、小さな盆地のような広場に出ました。ぐるりの高いところは生い茂る木々で囲まれて、小さな別天地のおもむき。緑の中に、石材やレンガで組まれた構造物が‥‥砲台跡だ!
説明板によると、北門第一砲台跡、明治17年竣工とありました。二つの砲台の平場を、写真中央に見えるレンガのトンネルで連結した構造です。
●砲台の一つに上がって、レンガのトンネルをアップで。石材やレンガが多用され、コンクリートの使用が控えめになっているあたり、明治の構造物の雰囲気充分で、よいものです。
「歴史群像シリーズ・日本の要塞」(学習研究社)によると、ここは「観音崎第一砲台」とされ、23口径24センチ加農砲2門が備えられており、大正2年に除籍廃止されたとのこと。盆のように掘り下げた地形から、榴弾砲でもあったのかしらと思っていたら、かつては上写真の向こう側が海に向かって開いており、加農砲の射界が確保されていたのでした。
●第一砲台との出会いに勢いを得て、さらに山道をずんずん進んだところ、どこで間違えたのか、反対側のふもとに出てしまったりして、ふたたび汗だくの疲労困憊。
休憩しながらさらに登ると、ふと右写真のトンネルの横に出ました。地山の岩で強度があるのか、ポータルのアーチが一部欠けているのも珍しく、加えてこの、吸い込まれそうな急勾配!
かつてはここを、砲身や砲架のような重量物が、コロと神楽算で引き上げられたのかなあ‥‥と、妄想させるに十分なこの造り。ぜひ通ってみたいと足を踏み出しかけたら、左手、トンネル内は落盤の危険が云々、の注意書きが目に入りました。残念!
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…7』につづく)

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●灯台敷地内の屋外展示品や、資料展示室を拝見してから、別ルートでお散歩しつつ山を降りようと外へ。しばし水辺とはお別れです。


地層のしましま模様と、岩肌のざらついた感触を楽しみながら通ると、切り通し区間はすぐ終わり、灯台の裏手へ出ました。稜線を切り通しで越えたわけですね。この後、道は等高線に沿ったような、山肌をうねる散策路となります。

●うっそうとした山中を、案内板を頼りにたどっていくと、小さな盆地のような広場に出ました。ぐるりの高いところは生い茂る木々で囲まれて、小さな別天地のおもむき。緑の中に、石材やレンガで組まれた構造物が‥‥砲台跡だ!
説明板によると、北門第一砲台跡、明治17年竣工とありました。二つの砲台の平場を、写真中央に見えるレンガのトンネルで連結した構造です。

「歴史群像シリーズ・日本の要塞」(学習研究社)によると、ここは「観音崎第一砲台」とされ、23口径24センチ加農砲2門が備えられており、大正2年に除籍廃止されたとのこと。盆のように掘り下げた地形から、榴弾砲でもあったのかしらと思っていたら、かつては上写真の向こう側が海に向かって開いており、加農砲の射界が確保されていたのでした。

休憩しながらさらに登ると、ふと右写真のトンネルの横に出ました。地山の岩で強度があるのか、ポータルのアーチが一部欠けているのも珍しく、加えてこの、吸い込まれそうな急勾配!
かつてはここを、砲身や砲架のような重量物が、コロと神楽算で引き上げられたのかなあ‥‥と、妄想させるに十分なこの造り。ぜひ通ってみたいと足を踏み出しかけたら、左手、トンネル内は落盤の危険が云々、の注意書きが目に入りました。残念!
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…7』につづく)

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