生きている大運河・佐陀川…8
(『生きている大運河・佐陀川…7』のつづき)
●武代橋から下流側を眺めていたら、河道の曲がり具合もさることながら、北岸に沿って伸びる道の雰囲気にも惹かれ、この道を利用して、恵曇までの最終コースを眺めてみようと思いました。
道から対岸、武代地区を眺めると、低めの丘陵といってよい高さがあり、こちらの低さが実感されます。やはり開鑿時に、この丘を避けただけなのかなあ…。
●もう少し進んだ屈曲の内側に、大きな浅瀬があるのを発見。しかも砂洲ではなく、ご覧のとおりゴロタ石が顔をのぞかせる、ちょっと剣呑そうな浅場です。
こんなに石が堆積しているところを見ると、増水時などは、結構流れが速いときもあるのでしょうか。点々と続く桟橋や船影も、この区間はさすがに途切れていました。

●最初はあったガードレールもすぐに途絶えて、後は駒止めすら設けられていない、まさにさえぎるものなしのスリル満点な水際の道に! しかも、普通車が何とか通れる幅しかなく、加えてカーブとアップダウンもあるのですから、肝の冷えることったらありません。
今でこそ、こうして写真を眺めて「低い丘と家並にはさまれた、いい感じの水路だなあ」と、のんきな感想も出てきますが、当時はそんな余裕はなく、シャッターを押すだけで精一杯でした。
●武代から恵曇に入ったあたりで、ようやく道幅が広くなり、ギリギリの恐怖から解放されてホッと一息。両岸も町屋造りの家々が並び、漁港らしい雰囲気になってきました。
岸も、岸壁を兼ねさせたような、がっしりした造りになり、もやう漁船の数も増えて賑やかに。目指す佐陀川河口まであともう少し、向こうには河口をまたぐ最後の橋らしいものも見えて、自然と足が速まります。

●海鳥が舞う最終橋、神名火大橋に到着。川幅も先ほどの屈曲部と異なり、再び広がっていかにも河口らしい、開けた川景色に。まだ少し冷たい海風が、日本海側に出たことを実感させます。
あれ? 海鳥だけでなく、ツバメの鳴き声も聞こえてきますね。ご当地のツバメは、こんなに早く渡ってくるのでしょうか?
【撮影地点のMapion地図】
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…9』につづく)

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道から対岸、武代地区を眺めると、低めの丘陵といってよい高さがあり、こちらの低さが実感されます。やはり開鑿時に、この丘を避けただけなのかなあ…。

こんなに石が堆積しているところを見ると、増水時などは、結構流れが速いときもあるのでしょうか。点々と続く桟橋や船影も、この区間はさすがに途切れていました。

●最初はあったガードレールもすぐに途絶えて、後は駒止めすら設けられていない、まさにさえぎるものなしのスリル満点な水際の道に! しかも、普通車が何とか通れる幅しかなく、加えてカーブとアップダウンもあるのですから、肝の冷えることったらありません。
今でこそ、こうして写真を眺めて「低い丘と家並にはさまれた、いい感じの水路だなあ」と、のんきな感想も出てきますが、当時はそんな余裕はなく、シャッターを押すだけで精一杯でした。

岸も、岸壁を兼ねさせたような、がっしりした造りになり、もやう漁船の数も増えて賑やかに。目指す佐陀川河口まであともう少し、向こうには河口をまたぐ最後の橋らしいものも見えて、自然と足が速まります。

●海鳥が舞う最終橋、神名火大橋に到着。川幅も先ほどの屈曲部と異なり、再び広がっていかにも河口らしい、開けた川景色に。まだ少し冷たい海風が、日本海側に出たことを実感させます。
あれ? 海鳥だけでなく、ツバメの鳴き声も聞こえてきますね。ご当地のツバメは、こんなに早く渡ってくるのでしょうか?
【撮影地点のMapion地図】
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…9』につづく)

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タグ : 佐陀川
生きている大運河・佐陀川…7
(『生きている大運河・佐陀川…6』のつづき)
●さらに下って、鹿島町武代付近、南岸から上流側、佐陀本郷を望んだところ。左手の削り取られた山は、新道工事のためでしょうか。水辺にはふたたび木製の桟橋が増え、繋留船が見られるようになってきました。右手の水際の道、柵もガードレールもなく、曳船道を思わせる雰囲気なのがそそりますね。
佐陀川の竣工によって、江戸時代、宍道湖沿岸各地から舶載された藩米は、ここ武代の川方役所に設けられた米蔵に集約され、恵曇から廻船で出荷されたとのこと。地域の物産輸送のみならず、全国的な物流網に組み入れられたわけで、ここが曳船道だったとすれば、曳き舟人夫の掛け声で賑わった時代も、あったかもしれません。

●ここに架かるのが、地名を冠した武代橋(たけだいばし)。ご覧のとおり、なかなか雰囲気のあるRC桁橋で、ぐっと反った中高の造りが、舟航河川を感じさせてよいものです。
川幅がここでぐっとしぼられる、いわば狭窄部であることも、他とちょっと違った雰囲気を感じさせる一因かもしれません。かつては汽船の寄港地でもあった武代、船着場はどのあたりにあったのでしょうか。
●北岸から見た武代橋。土地の標高が低いせいか、取り付け道路は結構な急勾配で、クルマにとっては少々難儀なところ。沿岸にもやう漁船、鹿島マリーナを母港とするプレジャーボートを含めて、通航船もかなりの数にのぼるとなれば、フネ優先の造りもうなずけようというものです。
親柱には「1971.6竣功」の銘がありました。遠目にはもう少し古そうに見えましたが、どうやら合同汽船の走っていた当時のことは、知らない橋のようですね。
●武代橋の上から、佐陀川を眺めてみたくなり、上流・下流とも一枚づつ。右はすでに先日のタイトルで掲げた、上流側です。靄でかすむ山あいに、ささやかな平野が広がり、その真ん中を佐陀川が一直線に貫いている、胸のすくような運河風景!
ちなみにこの佐太本郷一帯、大昔は「恵曇陂」(えとものつつみ)という池だったとのこと。なるほど、この平らかさ、水際のひたひたな標高の低さと、かつてが沼沢地であったことを感じさせますね。

●そして下流側。繋留船や桟橋の多さが、恵曇漁港が近いのを感じさせる…ことはさておき、目を見開く思いがしたのは、一見して実にわざとらしく(笑)、水路が屈曲していたことです! 季節風による吹き寄せや、波浪の被害を防ぐため、人為的にクランク区間を造ったのでは? …と思わせる雰囲気だったのです。
先に紹介したPDFでも、94~95ページにこの蛇行について触れられており、いわば実物で復習をしたかたちになりました。もっとも記事では、「…と考えられており」とぼかされていて、確証となる史料はなさそうなニュアンス。見方によっては、単に微高地を避けたか、または旧河道をなぞったとも取れなくもないので、この点確かめようがなければ、謎のままなのかもしれませんね。
【撮影地点のMapion地図】
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…8』につづく)

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佐陀川の竣工によって、江戸時代、宍道湖沿岸各地から舶載された藩米は、ここ武代の川方役所に設けられた米蔵に集約され、恵曇から廻船で出荷されたとのこと。地域の物産輸送のみならず、全国的な物流網に組み入れられたわけで、ここが曳船道だったとすれば、曳き舟人夫の掛け声で賑わった時代も、あったかもしれません。

●ここに架かるのが、地名を冠した武代橋(たけだいばし)。ご覧のとおり、なかなか雰囲気のあるRC桁橋で、ぐっと反った中高の造りが、舟航河川を感じさせてよいものです。
川幅がここでぐっとしぼられる、いわば狭窄部であることも、他とちょっと違った雰囲気を感じさせる一因かもしれません。かつては汽船の寄港地でもあった武代、船着場はどのあたりにあったのでしょうか。

親柱には「1971.6竣功」の銘がありました。遠目にはもう少し古そうに見えましたが、どうやら合同汽船の走っていた当時のことは、知らない橋のようですね。

ちなみにこの佐太本郷一帯、大昔は「恵曇陂」(えとものつつみ)という池だったとのこと。なるほど、この平らかさ、水際のひたひたな標高の低さと、かつてが沼沢地であったことを感じさせますね。

●そして下流側。繋留船や桟橋の多さが、恵曇漁港が近いのを感じさせる…ことはさておき、目を見開く思いがしたのは、一見して実にわざとらしく(笑)、水路が屈曲していたことです! 季節風による吹き寄せや、波浪の被害を防ぐため、人為的にクランク区間を造ったのでは? …と思わせる雰囲気だったのです。
先に紹介したPDFでも、94~95ページにこの蛇行について触れられており、いわば実物で復習をしたかたちになりました。もっとも記事では、「…と考えられており」とぼかされていて、確証となる史料はなさそうなニュアンス。見方によっては、単に微高地を避けたか、または旧河道をなぞったとも取れなくもないので、この点確かめようがなければ、謎のままなのかもしれませんね。
【撮影地点のMapion地図】
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…8』につづく)

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タグ : 佐陀川
生きている大運河・佐陀川…6
(『生きている大運河・佐陀川…5』のつづき)

●鹿島町名分付近、鹿島中学校のある丘の下から上流側を見て。水際にすとんと落ち込むようだった山肌が次第にひらけて、手前では、ささやかながら住宅や畑が見られるようになりました。かつてはこの奥あたりが、いわば分水界だったのでしょう。
いやしかし、舟行きしたくて、こうウズウズするような運河風景ですね! 何度も同じようなことを繰り返して恐縮ですが、山間を貫く、しかもイイ感じに屈曲した、先の見通せない水路! それが小さな谷間の細流や、ゴロタ石の洗う急流河川のような、見るからに舟航できなさそうな川などでなく、満々と水を湛えた可航水路なのですから、そそるのもむべなるかなであります。
【撮影地点のMapion地図】
●ほぼ同じところから振り返って、下流側に目を転じると、向こうに桁橋が架かっているのが見えます。よく見ると、橋脚の配置がちょっと妙。左端の径間だけ、なぜか極端に短くなっていますね。
これ、実はもと水門で、堰柱や扉体を撤去して、管理橋だけ残したという変わり種の、いわば「水門遺跡」。左端の狭い径間には、閘門も備えてあったようで、閘門ファンとしては、失礼ながら少々残念な物件でもあります。
●通り過ぎざまカメラを向けてみると、橋脚の上流側に戸溝が残っているのが見えました。ここにあった水門は、「佐陀川(さだがわ)水門」(中国四国農政局)といって、中海・宍道湖淡水化事業の中止を受け、中海に設けられていた中浦水門とともに撤去されたそう。
二つの湖の汽水環境を守るため、という趣旨は理解できるのですが、高潮や津波など、万が一の逆水防止のことを考えると、佐陀川水門のみ常時開で残しておいてもよかったような…。淡水化事業が中止されたため、日常の維持管理の予算も出なくなった、ということなのでしょうか。
●水門跡からさらに下流側へ移動、松江市役所鹿島支所の近くから上流側を望んで。山肌はだいぶ遠ざかり、狭いながら平野のおもむきになってきました。船影は少ないものの、それでも岸にはぽつり、ぽつりと繋留船が見られます。
写真に写っている舗装道路、実は県道37号線の廃道で、現道は左側の、小高い場所に少しづつ移設工事の最中。地元の方の話では、旧道は水面に近すぎて、増水時に冠水してしまうことも、たびたびあったとのことでした。

●そして、鹿島マリーナ! 櫛形桟橋を備えた、ご覧のとおり実に立派なマリーナで、なだらかな山塊がバックに広がる、風光明媚なところでもあります。ある種、現代の佐陀川を象徴する施設といってよいかもしれません。
東京にいてこそ、運河や川を利用したマリーナは珍しくありませんが、他府県でこのような、運河の懐深くに広がる、これだけの規模のマリーナは、いくつあるでしょうか。
水運と舟遊び、かつてと用途こそ違え、今なおこれだけのフネブネが、この水路を利用している…。「生きている運河」をリアルに実感できた光景でした。
【撮影地点のMapion地図】 (←地図に新道が描かれていないので、このあたりかな?)
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…7』につづく)

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●鹿島町名分付近、鹿島中学校のある丘の下から上流側を見て。水際にすとんと落ち込むようだった山肌が次第にひらけて、手前では、ささやかながら住宅や畑が見られるようになりました。かつてはこの奥あたりが、いわば分水界だったのでしょう。
いやしかし、舟行きしたくて、こうウズウズするような運河風景ですね! 何度も同じようなことを繰り返して恐縮ですが、山間を貫く、しかもイイ感じに屈曲した、先の見通せない水路! それが小さな谷間の細流や、ゴロタ石の洗う急流河川のような、見るからに舟航できなさそうな川などでなく、満々と水を湛えた可航水路なのですから、そそるのもむべなるかなであります。
【撮影地点のMapion地図】

これ、実はもと水門で、堰柱や扉体を撤去して、管理橋だけ残したという変わり種の、いわば「水門遺跡」。左端の狭い径間には、閘門も備えてあったようで、閘門ファンとしては、失礼ながら少々残念な物件でもあります。

二つの湖の汽水環境を守るため、という趣旨は理解できるのですが、高潮や津波など、万が一の逆水防止のことを考えると、佐陀川水門のみ常時開で残しておいてもよかったような…。淡水化事業が中止されたため、日常の維持管理の予算も出なくなった、ということなのでしょうか。

写真に写っている舗装道路、実は県道37号線の廃道で、現道は左側の、小高い場所に少しづつ移設工事の最中。地元の方の話では、旧道は水面に近すぎて、増水時に冠水してしまうことも、たびたびあったとのことでした。

●そして、鹿島マリーナ! 櫛形桟橋を備えた、ご覧のとおり実に立派なマリーナで、なだらかな山塊がバックに広がる、風光明媚なところでもあります。ある種、現代の佐陀川を象徴する施設といってよいかもしれません。
東京にいてこそ、運河や川を利用したマリーナは珍しくありませんが、他府県でこのような、運河の懐深くに広がる、これだけの規模のマリーナは、いくつあるでしょうか。
水運と舟遊び、かつてと用途こそ違え、今なおこれだけのフネブネが、この水路を利用している…。「生きている運河」をリアルに実感できた光景でした。
【撮影地点のMapion地図】 (←地図に新道が描かれていないので、このあたりかな?)
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…7』につづく)

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タグ : 佐陀川
生きている大運河・佐陀川…5
(『生きている大運河・佐陀川…4』のつづき)

●佐太橋の上から南側、上流方向を望んで。奥から手前に向かうにつれて、次第に深くなる谷間を切り開くように(まさに切り開いたのですが)、蛇行しつつ流れ来る川景色!
この両岸の山々に抱かれたような川が、現役の可航水路なのですから! 関東ではまずお目にかかれないタイプの運河風景だけに、感動もひとしおです。
●そして嬉しくなるのが、左手、東詰に設けられた桟橋と、そこにもやうFRP和船たち。全長の半ば、山の迫る区間に達してなお、桟橋と艇が、しかもさりげなく在るこの充実感(涙)。
桟橋周りも艇も、手入れが行き届いていて、うらぶれた感じが微塵もしないのが素晴らしい。右側、鋼矢板のある部分は、コンクリートの肌がまだ新しいですね。道路が最近拡幅されたためでしょうか。

●振り返って北側、下流方向の眺め。この先でさらに山が迫っているあたり、切通しの雰囲気が濃くなってくる、水上から眺めてもまさにハイライトといってよさそうな区間。
このあたりはかつて鵜灘といい、地盤が極めて軟弱で地滑りを起こしやすく、開鑿しても一夜にして埋没してしまうため、この区間を放棄して他のルートを迂回する案も、一時は検討されたほどだったとのこと。佐陀川開鑿の中でも、もっとも難工事であったことがしのばれます。
【撮影地点のMapion地図】
●目線をひゅっと吸い寄せられたのが、この民家に接して設けられた桟橋。表に回って確かめなかったのが悔やまれるのですが、このお宅、旅籠っぽい造りに見えますね。
かつては宿坊か、それに近い参詣者のための旅館だったのかも…。佐太神社の例大祭の日には、船で訪れる参詣客で賑わった桟橋かもしれないな…、などと、妄想をたくましゅうさせる外観ではあります。
●佐太橋の下にも降りてみると、そこには伏せられた小舟が。艇庫として有効利用されているようですね。橋脚はご覧のとおり耐震補強済みで、落橋防止のチェーンもしっかりと。
帰宅後に検索してみると、何と、この工事を施工された建設会社、カナツ技研工業株式会社のブログがヒット。「耐震補強工事レポート 第一弾!『佐太橋レポート』」以下第五弾まで、工事の様子のみならず、神社の祭礼や佐陀川の歴史まで、わかりやすくレポートされています。
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…6』につづく)

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●佐太橋の上から南側、上流方向を望んで。奥から手前に向かうにつれて、次第に深くなる谷間を切り開くように(まさに切り開いたのですが)、蛇行しつつ流れ来る川景色!
この両岸の山々に抱かれたような川が、現役の可航水路なのですから! 関東ではまずお目にかかれないタイプの運河風景だけに、感動もひとしおです。

桟橋周りも艇も、手入れが行き届いていて、うらぶれた感じが微塵もしないのが素晴らしい。右側、鋼矢板のある部分は、コンクリートの肌がまだ新しいですね。道路が最近拡幅されたためでしょうか。

●振り返って北側、下流方向の眺め。この先でさらに山が迫っているあたり、切通しの雰囲気が濃くなってくる、水上から眺めてもまさにハイライトといってよさそうな区間。
このあたりはかつて鵜灘といい、地盤が極めて軟弱で地滑りを起こしやすく、開鑿しても一夜にして埋没してしまうため、この区間を放棄して他のルートを迂回する案も、一時は検討されたほどだったとのこと。佐陀川開鑿の中でも、もっとも難工事であったことがしのばれます。
【撮影地点のMapion地図】

かつては宿坊か、それに近い参詣者のための旅館だったのかも…。佐太神社の例大祭の日には、船で訪れる参詣客で賑わった桟橋かもしれないな…、などと、妄想をたくましゅうさせる外観ではあります。

帰宅後に検索してみると、何と、この工事を施工された建設会社、カナツ技研工業株式会社のブログがヒット。「耐震補強工事レポート 第一弾!『佐太橋レポート』」以下第五弾まで、工事の様子のみならず、神社の祭礼や佐陀川の歴史まで、わかりやすくレポートされています。
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…6』につづく)

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タグ : 佐陀川
生きている大運河・佐陀川…4
(『生きている大運河・佐陀川…3』のつづき)
●樋門裏の道路上から、潟湖「西潟ノ内」を見たところ。左は樋門の銘板にもあった、古江地区西排水機場です。「佐太水海」の名残の水面ともいえますが、見たかぎりではなかなか雄大で、冬はきっと、水鳥の楽園になっていることでしょうね。
元々あった水面を仕切って運河化、というと、何やら簡単に思えますが、足場の極度に悪い沼沢地で、水を堰き止めつつ水路敷を掘り下げ、その余土を両岸に客土してゆく、という土工をすべて人手だけで行うのですから、その難しさは想像を絶するものだったことでしょう。
●さて、「潟ノ内」を離れた後、もう少し平野部の区間を眺めてみたかったのですが、残念ながら時間もあまりなく、次なる目的地へと県道264号線を北上。
ここは河道の里程でいえば、「西潟ノ内」から3.7kmを経たところ。すでに山間部の区間ともいってよいところです。平凡なRC桁橋ですが、擬宝珠付きの親柱が、何かいわくを感じさせる橋ですね。名前は佐太橋、昭和37年10月竣工の銘がありました。川景色はひとまず後のお楽しみにして、橋を渡ったところに、ご挨拶せねばならないところがあるのです。
【撮影地点のMapion地図】

●それは、佐太神社です!
いや…これは…! 緑濃い小山を背にしておわす、星霜を経た木の肌を見せた社殿の素晴らしさに、息を呑みました。「古式ゆかしい」という言葉がそのままビジュアル化されたような、素人目にも歴史の重みというか、凄味を感じさせるそのたたずまい。ご当地にお邪魔させていただいたご挨拶を兼ねて、道中の無事をお祈りしました。
佐陀川がすぐ近くを通っているだけに、そのかかわりも浅からぬものがあるようですね。計画河道が、神社の神池としてかつて在った、「身澄池」を通るため、やはり神社側は難色を示したとのこと。それに対して、清原太兵衛は百日間も日参、代替となる池を新たに造ることで、神社の許しを得たそうです。また、竣工後盛大に催されたと伝えられる川開き式典も、ここ佐太の地が会場となったとのことでした。

●神社を訪ねたいま一つの目的が、境内にある石碑、「清原太兵衛紀功碑」。下に掲げた説明板にあるように、清原太兵衛頌徳会が中心となって、昭和3年に建立されたものです。
この他、佐陀川の対岸にある「さいのかみ公園」には、清原太兵衛の銅像もあるとのこと。古来からこの地区の中心であり、佐陀川開鑿のハイライトともいうべき区間だっただけに、やはり、ゆかりの物件が集中しているようですね。
●この後、隣接する鹿島歴史民俗資料館を駆け足で見学、学芸員さんに合同汽船のことをうかがったところ、幸いにして汽船就航時の記事がある小冊子を紹介くださり、さっそく購入。
あわただしく神社を辞して、佐太橋へ戻ります。さて、山間を縫って流れる運河風景はいかに?
【撮影地点のMapion地図】
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…5』につづく)

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元々あった水面を仕切って運河化、というと、何やら簡単に思えますが、足場の極度に悪い沼沢地で、水を堰き止めつつ水路敷を掘り下げ、その余土を両岸に客土してゆく、という土工をすべて人手だけで行うのですから、その難しさは想像を絶するものだったことでしょう。

ここは河道の里程でいえば、「西潟ノ内」から3.7kmを経たところ。すでに山間部の区間ともいってよいところです。平凡なRC桁橋ですが、擬宝珠付きの親柱が、何かいわくを感じさせる橋ですね。名前は佐太橋、昭和37年10月竣工の銘がありました。川景色はひとまず後のお楽しみにして、橋を渡ったところに、ご挨拶せねばならないところがあるのです。
【撮影地点のMapion地図】

●それは、佐太神社です!
いや…これは…! 緑濃い小山を背にしておわす、星霜を経た木の肌を見せた社殿の素晴らしさに、息を呑みました。「古式ゆかしい」という言葉がそのままビジュアル化されたような、素人目にも歴史の重みというか、凄味を感じさせるそのたたずまい。ご当地にお邪魔させていただいたご挨拶を兼ねて、道中の無事をお祈りしました。
佐陀川がすぐ近くを通っているだけに、そのかかわりも浅からぬものがあるようですね。計画河道が、神社の神池としてかつて在った、「身澄池」を通るため、やはり神社側は難色を示したとのこと。それに対して、清原太兵衛は百日間も日参、代替となる池を新たに造ることで、神社の許しを得たそうです。また、竣工後盛大に催されたと伝えられる川開き式典も、ここ佐太の地が会場となったとのことでした。

●神社を訪ねたいま一つの目的が、境内にある石碑、「清原太兵衛紀功碑」。下に掲げた説明板にあるように、清原太兵衛頌徳会が中心となって、昭和3年に建立されたものです。
この他、佐陀川の対岸にある「さいのかみ公園」には、清原太兵衛の銅像もあるとのこと。古来からこの地区の中心であり、佐陀川開鑿のハイライトともいうべき区間だっただけに、やはり、ゆかりの物件が集中しているようですね。

あわただしく神社を辞して、佐太橋へ戻ります。さて、山間を縫って流れる運河風景はいかに?
【撮影地点のMapion地図】
(25年3月16日撮影)
(『生きている大運河・佐陀川…5』につづく)

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