萬右衛門川の面影…2
(『萬右衛門川の面影…1』のつづき)

●睦橋の上から東側、初めて眺める萬右衛門川。
両岸に道路が沿い、周囲は低い家並が続く住宅街と明るい風景ですが、水路は完全にコンクリート護岸化されており、昔の面影をしのばせるものはなさそうですね。
ただ、向こうに小さく見える橋が、周囲の地表高とさして変わらない高さに架けられているのに対し、この睦橋は、両岸に高々と土盛りされ、桁下高を稼いでいるのを見ると、少なくとも、通船があったころの記憶を持っているように感じられました。ここを通る道が古くからの道で、もともと土盛りされていたということも考えられるでしょうが。

●同じく睦橋から、西側の眺め。河道は左へ2度屈曲して、那珂川との接続点に続いています。
しかし、水路幅は元からこんなに狭かったのでしょうか、いくら細身の和船でも、荷足や伝馬すら行き違いが難しそうです。可航水路としての役目を終えたとき、幅が狭められたのでしょうか。
とすると、睦橋は? 橋のところだけ橋台地が張り出していて、他は水路幅がもっとあったとか? いろいろ疑問が湧いてきたのですが、何か手掛かりはないかと改めて「運河論」を開いてみることに。
●以下「運河論」から、萬右衛門川の項を抜き書きしてみましょう。
第三款 萬右衛門川
萬右衛門川は現在の湊町辰ノ口橋付近にあった徳川家籾藏に那珂川の舟運に依る籾船廻送の便を計らんが為め萬右衛門なる者が掘鑿した幅五・四米の運河である。爾来水運業者並に漁業家に利便を與えたが、明治四五年茨城縣に於て幅員を九米に改修すると同時に、港口迄延長し、船溜を兼ねたる漁船航路を起工し、那珂川と港口とを連絡せしめた。其の後數次に亘り幅員を擴張し大正四年竣工を見たもので、萬右衛門川と總稱し、港灣航路に利用されて居る。
また、本文の後ろに列記されたデータのうち、いくつかを拾ってみると、延長1,901m、幅員14.54~32.73m、通過船舶の最大トン数は15tとありました。
●以上からわかるのは、創設時は幅6mにも満たない行き止まりの入堀であったこと、明治になって海岸線まで延長され、那珂川河口を経由しなくとも出入りできるようになったこと、「運河論」が発行された昭和10年の時点で、幅は少なくとも14m強はあったことです。
やはり、現在の幅員は狭められた結果ということがわかりました。しかし戦後まもなく、現在の睦橋が架けられたときの状態が気になります。
困ったときは「国土変遷アーカイブ」の空中写真を見ればわかるだろうと、国土地理院のサイトに行ってみると……。あらら、何と「現在停止中」の表示が! 残念。
●あきらめきれず、同様のサービスということで何か手掛かりがつかめればと、歴史的農業環境閲覧システムで、大洗のリンクへ行ってみると…おお! 明治時代の、行き止まりだったころの萬右衛門川が描かれている!
萬右衛門川の原型は、現在の海門橋北詰付近を終点として、端部には船溜があり、また海門町2-5あたりにも、分岐したかたちで船溜があったのですね。萬右衛門川の、運河としての最終状態は確認できませんでしたが、初期の形態を知ることができて、思わぬ拾いものをした気分でした。
●萬右衛門川の散策に戻りましょう。北岸に沿って西へ進み、最初の屈曲のあたりから睦橋を見て。
こうして見ると、可憐という言葉がしっくりくるような、小さな橋であることがわかります。また本来の地表高はかなり低く、橋が渡す道路の周辺のみが高く土盛りされていることも、改めて実感できました。
●上の写真とほぼ同地点から、南西側の眺め。すでに那珂川の堤防が顔をのぞかせています。
向こうにあるのは樋門でしょうか、護岸に黒く水の跡がついているところから、樋門は開いていて、干満に合わせて水の出入りがあることがわかりますね。向こうを船が通ったのか、ちょうど低いうねりがこちらへ向かってくるところを見ることができました。
水は澄んでいて、浅い河底に砂が波紋をつくり、ところどころ藻が生えているのが透けて見えます。貝がついていないところを見ると、海水はほとんど入ってきていないのでしょうか。
●さらに進んで、樋門の裏側とほぼ正対したところ。静かな水面に小鴨が2羽泳いでいて、のどかな雰囲気です。
樋門の手前、左側に見える建屋は排水機場でしょうか、河中から立ち上がって、建屋の中に入ってゆくパイプが気になります。護岸の上を歩いて、樋門に近づいてみることにしました。
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…3』につづく)

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●睦橋の上から東側、初めて眺める萬右衛門川。
両岸に道路が沿い、周囲は低い家並が続く住宅街と明るい風景ですが、水路は完全にコンクリート護岸化されており、昔の面影をしのばせるものはなさそうですね。
ただ、向こうに小さく見える橋が、周囲の地表高とさして変わらない高さに架けられているのに対し、この睦橋は、両岸に高々と土盛りされ、桁下高を稼いでいるのを見ると、少なくとも、通船があったころの記憶を持っているように感じられました。ここを通る道が古くからの道で、もともと土盛りされていたということも考えられるでしょうが。

●同じく睦橋から、西側の眺め。河道は左へ2度屈曲して、那珂川との接続点に続いています。
しかし、水路幅は元からこんなに狭かったのでしょうか、いくら細身の和船でも、荷足や伝馬すら行き違いが難しそうです。可航水路としての役目を終えたとき、幅が狭められたのでしょうか。
とすると、睦橋は? 橋のところだけ橋台地が張り出していて、他は水路幅がもっとあったとか? いろいろ疑問が湧いてきたのですが、何か手掛かりはないかと改めて「運河論」を開いてみることに。
●以下「運河論」から、萬右衛門川の項を抜き書きしてみましょう。
第三款 萬右衛門川
萬右衛門川は現在の湊町辰ノ口橋付近にあった徳川家籾藏に那珂川の舟運に依る籾船廻送の便を計らんが為め萬右衛門なる者が掘鑿した幅五・四米の運河である。爾来水運業者並に漁業家に利便を與えたが、明治四五年茨城縣に於て幅員を九米に改修すると同時に、港口迄延長し、船溜を兼ねたる漁船航路を起工し、那珂川と港口とを連絡せしめた。其の後數次に亘り幅員を擴張し大正四年竣工を見たもので、萬右衛門川と總稱し、港灣航路に利用されて居る。
また、本文の後ろに列記されたデータのうち、いくつかを拾ってみると、延長1,901m、幅員14.54~32.73m、通過船舶の最大トン数は15tとありました。
●以上からわかるのは、創設時は幅6mにも満たない行き止まりの入堀であったこと、明治になって海岸線まで延長され、那珂川河口を経由しなくとも出入りできるようになったこと、「運河論」が発行された昭和10年の時点で、幅は少なくとも14m強はあったことです。
やはり、現在の幅員は狭められた結果ということがわかりました。しかし戦後まもなく、現在の睦橋が架けられたときの状態が気になります。
困ったときは「国土変遷アーカイブ」の空中写真を見ればわかるだろうと、国土地理院のサイトに行ってみると……。あらら、何と「現在停止中」の表示が! 残念。
●あきらめきれず、同様のサービスということで何か手掛かりがつかめればと、歴史的農業環境閲覧システムで、大洗のリンクへ行ってみると…おお! 明治時代の、行き止まりだったころの萬右衛門川が描かれている!
萬右衛門川の原型は、現在の海門橋北詰付近を終点として、端部には船溜があり、また海門町2-5あたりにも、分岐したかたちで船溜があったのですね。萬右衛門川の、運河としての最終状態は確認できませんでしたが、初期の形態を知ることができて、思わぬ拾いものをした気分でした。

こうして見ると、可憐という言葉がしっくりくるような、小さな橋であることがわかります。また本来の地表高はかなり低く、橋が渡す道路の周辺のみが高く土盛りされていることも、改めて実感できました。

向こうにあるのは樋門でしょうか、護岸に黒く水の跡がついているところから、樋門は開いていて、干満に合わせて水の出入りがあることがわかりますね。向こうを船が通ったのか、ちょうど低いうねりがこちらへ向かってくるところを見ることができました。
水は澄んでいて、浅い河底に砂が波紋をつくり、ところどころ藻が生えているのが透けて見えます。貝がついていないところを見ると、海水はほとんど入ってきていないのでしょうか。

樋門の手前、左側に見える建屋は排水機場でしょうか、河中から立ち上がって、建屋の中に入ってゆくパイプが気になります。護岸の上を歩いて、樋門に近づいてみることにしました。
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…3』につづく)

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