堀割川ふたたび…4
(『堀割川ふたたび…3』のつづき)

●磯子区と南区の境目近くにある、天神橋の橋脚は水切りに石材を使った風情あるもの。橋台や親柱も同様ですね。桁の様子から見て、竣工は戦後間もなくといったところでしょうか。
「『天神橋』・『芦名橋』」(横浜市政レポート)によると、初代橋は五三前橋といい、明治9年に堀割川に創架された4つの橋の一つで、有料橋だったそうです。
●桟道や繋船環のほかに、石垣護岸に彫り込まれた階段も、堀割川で楽しめるディテールのひとつ。
もっとも、右側の石垣をよく見てみると、かつてはスロープになっていたようですね。階段そのものもコンクリ-トですから、荷揚場を後に改修したものかもしれません。
●ご存知のように、荷揚場の多くは埋められて、護岸の表面にスロープや平場の痕跡が見られるのみとなっていますが、ここ南区堀ノ内町1丁目には、ほぼ完全な形で残ったものがあります。
両端のスロープだけなく中央に階段も残り、ほどよく草むして遺跡としてもいい表情。街中での遺跡出現に山口氏も驚かれた様子で、熱心にカメラを向けられていました。
●こっこれは! 建築用のサッシや扉を使った、何ともアンバランスで惹かれるものがある甲板室、見間違えっこありません。「横浜の川をめぐる…9」で、中村川にもやっていたあの船じゃないですか!
元気でいてくれたとは嬉しいかぎり。しかし、こちらに引っ越して来たということは、中村川の繋留船撤去が、いよいよ厳しくなってきたということなのでしょうか。

●東へ屈曲する河道をゆるゆる遡上し、最終橋・中村橋から、中村川との丁字流を望んで。久しぶりの横浜高架下水路、しかしあの多彩だった繋留船たちが、もしかしたら一隻もいなくなっているかも、と思うと、入る前から寂しい気持ちに。さて、どんな様子でしょう。
【撮影地点のMapion地図】
(23年10月10日撮影)
(『中村川の船影…1』につづく)

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●磯子区と南区の境目近くにある、天神橋の橋脚は水切りに石材を使った風情あるもの。橋台や親柱も同様ですね。桁の様子から見て、竣工は戦後間もなくといったところでしょうか。
「『天神橋』・『芦名橋』」(横浜市政レポート)によると、初代橋は五三前橋といい、明治9年に堀割川に創架された4つの橋の一つで、有料橋だったそうです。

もっとも、右側の石垣をよく見てみると、かつてはスロープになっていたようですね。階段そのものもコンクリ-トですから、荷揚場を後に改修したものかもしれません。

両端のスロープだけなく中央に階段も残り、ほどよく草むして遺跡としてもいい表情。街中での遺跡出現に山口氏も驚かれた様子で、熱心にカメラを向けられていました。

元気でいてくれたとは嬉しいかぎり。しかし、こちらに引っ越して来たということは、中村川の繋留船撤去が、いよいよ厳しくなってきたということなのでしょうか。

●東へ屈曲する河道をゆるゆる遡上し、最終橋・中村橋から、中村川との丁字流を望んで。久しぶりの横浜高架下水路、しかしあの多彩だった繋留船たちが、もしかしたら一隻もいなくなっているかも、と思うと、入る前から寂しい気持ちに。さて、どんな様子でしょう。
【撮影地点のMapion地図】
(23年10月10日撮影)
(『中村川の船影…1』につづく)

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タグ : 堀割川
21年2月6日の旧加茂川
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…10』のつづき)
●つい2日前、松江を訪ねた21年2月6日(『松江堀川めぐり…1』以下のシリーズ参照)のフォルダを開くまで、きれいさっぱり忘れていたのですから、やはりトシはとりたくないものです。
何を忘れていたって、松江の後に用足しで米子に寄っており、その道々ついでながら、旧加茂川に関する、肝心なものをいくつか撮っていたことをです。
いや、米子に寄ったことはさすがに覚えていました、そこまでボケてはいません。ただ、今回11月9日の訪問でわからなかった点への回答を、3年前すでに自分で撮っていたのですから、やはり何をかいわんやですね。
以下恥を忍んで、興味深かったスナップも含め紹介させていただきます。
【▼「続きを読む」をクリックしてご覧ください】

何を忘れていたって、松江の後に用足しで米子に寄っており、その道々ついでながら、旧加茂川に関する、肝心なものをいくつか撮っていたことをです。
いや、米子に寄ったことはさすがに覚えていました、そこまでボケてはいません。ただ、今回11月9日の訪問でわからなかった点への回答を、3年前すでに自分で撮っていたのですから、やはり何をかいわんやですね。
以下恥を忍んで、興味深かったスナップも含め紹介させていただきます。
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加茂川・中海遊覧船に乗って…10
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…9』のつづき)
●深浦橋をふたたびくぐって、中海へもどります。
背後の山のせいでしょうか、この角度から見ると、瀬戸内や八代海あたりにありそうな、島々の間を分かつ狭水道のような雰囲気。行ったことがないので、こういう橋が架かっているのかはわかりませんが。
●湊山公園の南端角、スロープのある立派な桟橋が2本。鳥取大医学部が近くにありますから、ボート部のものかな?
だとすると、陸閘のある堤防を隔てた向こうの建物は、艇庫でしょうか。
●そしてその北側に伸びる、湊山公園のテラス、これは立派なものですね。中海に面して、南北500mに及ぶ水際ほとんど全てが、ご覧のとおり長大な階段状のテラスに! 水辺に開けた公園としては、国内有数の規模でしょう。
正面の水上に台船でも浮かべて、花火大会でもすれば、いちどきにたくさんの人が楽しめそう。
【撮影地点のMapion地図】

●疾走していた船がスロットルを戻すと、すでに旧加茂川の河口に近づいていました。先ほどここを出たときは気づかなかったのですが、右手に見える古い防波堤が、ひなびたいい感じの空気を醸し出しており、河口のささやかな船溜風景を、魅力あるものにしていたのです。
明治の末より前といいますから、もちろんこの防波堤ができるよりずっと昔のことでしょうが、阪鶴鉄道の運航する、舞鶴通いの汽船が米子を寄港地としており、賑わった時代もあったとのこと。
当時は汽船が横付けできる岸壁はなかったでしょうから、艀が港と本船の間を往復して、貨客を運んだことでしょう。今はひっそりとしているこの河口も、明治時代は艀がひしめいて、賑やかだったのではないでしょうか。

●そして、灘町橋をくぐった直後に開けた眺めにも、下ったときとは全く違った感動を覚えました。
屈曲の外側に肩を寄せ合う低い家並が、川面に姿を映すさまもさることながら、土地の低さからくるひたひた感、水路幅、そして街並みの上にかぶさる空の広さと、目に入るもの全てが塩梅よく、しっくりと収まった川景色に思えたのです。
うまく説明できないのがもどかしいのですが、修景や昔の復元でない町場の水路風景の、一つの理想形ともいえそうな何かを、この短い区間に感じてしまったのかもしれません。
(23年11月9日撮影)
(『21年2月6日の旧加茂川』につづく)

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背後の山のせいでしょうか、この角度から見ると、瀬戸内や八代海あたりにありそうな、島々の間を分かつ狭水道のような雰囲気。行ったことがないので、こういう橋が架かっているのかはわかりませんが。

だとすると、陸閘のある堤防を隔てた向こうの建物は、艇庫でしょうか。

正面の水上に台船でも浮かべて、花火大会でもすれば、いちどきにたくさんの人が楽しめそう。
【撮影地点のMapion地図】

●疾走していた船がスロットルを戻すと、すでに旧加茂川の河口に近づいていました。先ほどここを出たときは気づかなかったのですが、右手に見える古い防波堤が、ひなびたいい感じの空気を醸し出しており、河口のささやかな船溜風景を、魅力あるものにしていたのです。
明治の末より前といいますから、もちろんこの防波堤ができるよりずっと昔のことでしょうが、阪鶴鉄道の運航する、舞鶴通いの汽船が米子を寄港地としており、賑わった時代もあったとのこと。
当時は汽船が横付けできる岸壁はなかったでしょうから、艀が港と本船の間を往復して、貨客を運んだことでしょう。今はひっそりとしているこの河口も、明治時代は艀がひしめいて、賑やかだったのではないでしょうか。

●そして、灘町橋をくぐった直後に開けた眺めにも、下ったときとは全く違った感動を覚えました。
屈曲の外側に肩を寄せ合う低い家並が、川面に姿を映すさまもさることながら、土地の低さからくるひたひた感、水路幅、そして街並みの上にかぶさる空の広さと、目に入るもの全てが塩梅よく、しっくりと収まった川景色に思えたのです。
うまく説明できないのがもどかしいのですが、修景や昔の復元でない町場の水路風景の、一つの理想形ともいえそうな何かを、この短い区間に感じてしまったのかもしれません。
(23年11月9日撮影)
(『21年2月6日の旧加茂川』につづく)

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加茂川・中海遊覧船に乗って…9
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…8』のつづき)

●船着場のあたりから、下流側を望んだところ。お城のあった飯山・湊山が正面に立ちはだかり、川面に緑の影を落とす水路風景。
ちょっと説明しがたいのですが、山の迫る可航水路にどういうわけだか弱いところがあり、前後の見通しを山に阻まれているというだけで、軽いコーフンを覚えてしまうのです。
●ここから城跡の石垣が見えますよ、という船頭さんのお勧めに従ってカメラを向けると、木々の間にちらりと石垣が。天守台でしょうか。
中村家の築いた米子城は、五層の大天守と四層の小天守、「連立天守閣」というそうですが、山陰随一といわれる威容を誇ったとのこと。明治の初めに取り壊されたそうですが、湊山をめぐる内堀とともに今も残っていたら、連立天守を仰ぎながらの堀割遊覧で賑わっただろうなあ…と妄想。

●錆色に塗られた鈑桁橋は、愛宕橋。南岸にある愛宕町から採られたものでしょう。その向こうに橋脚がチラリと見える橋は、新加茂川橋。こちらは本流になる前の河川名が残っていますね。
米子はこのタイプの橋が多いですね。鈑桁好きな人が多いのかしらと妄想させるくらい(笑)。
●屈曲の始め、山すそが開けゆくあたりに架かる、2径間のやはり鈑桁橋は、祇園橋。祇園町からの命名ですね。
川面がさざ波立っているのは、少し風が入ってきたこともありますが、我々の船が起こした引き波が鋼矢板の護岸に反射して、なかなか消えないためです。
●祇園橋の南詰近くに、沈船…というより転覆船を発見。新旧加茂川とも繋留船が非常に少なかったので、この程度のことでも目を奪われます。
ああ、船底にぜんぜん貝がついていない! 汽水といっても、淡水に限りなく近いレベルなのでしょう。フジツボの当たり年とやらで、船底塗装後ひと月もしないうちに、フジツボが再付着し始めた経験を持つ我が艇には、うらやましい環境であります。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…10』につづく)

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●船着場のあたりから、下流側を望んだところ。お城のあった飯山・湊山が正面に立ちはだかり、川面に緑の影を落とす水路風景。
ちょっと説明しがたいのですが、山の迫る可航水路にどういうわけだか弱いところがあり、前後の見通しを山に阻まれているというだけで、軽いコーフンを覚えてしまうのです。

中村家の築いた米子城は、五層の大天守と四層の小天守、「連立天守閣」というそうですが、山陰随一といわれる威容を誇ったとのこと。明治の初めに取り壊されたそうですが、湊山をめぐる内堀とともに今も残っていたら、連立天守を仰ぎながらの堀割遊覧で賑わっただろうなあ…と妄想。

●錆色に塗られた鈑桁橋は、愛宕橋。南岸にある愛宕町から採られたものでしょう。その向こうに橋脚がチラリと見える橋は、新加茂川橋。こちらは本流になる前の河川名が残っていますね。
米子はこのタイプの橋が多いですね。鈑桁好きな人が多いのかしらと妄想させるくらい(笑)。

川面がさざ波立っているのは、少し風が入ってきたこともありますが、我々の船が起こした引き波が鋼矢板の護岸に反射して、なかなか消えないためです。

ああ、船底にぜんぜん貝がついていない! 汽水といっても、淡水に限りなく近いレベルなのでしょう。フジツボの当たり年とやらで、船底塗装後ひと月もしないうちに、フジツボが再付着し始めた経験を持つ我が艇には、うらやましい環境であります。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…10』につづく)

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加茂川・中海遊覧船に乗って…8
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…7』のつづき)

●深浦橋をくぐると、河道はぐっと北に屈曲し、木の生い茂った二つの独立丘陵に挟まれたコースへ。両岸に緑濃い高地を見上げながら、先の見通せない屈曲をまさに分け入る可航水路は、神田川を例外として、関東ではまずお目にかかれない貴重な川景色。私が航行した中で近いものがあるとすれば、三浦市の油壺湾でしょうか。
米子城の築かれた湊山には、山麓をぐるりと半周するかたちで内堀があったそう。北~東側は埋め立てられましたが、今遡上している加茂川の最下流部は、この内堀の南側部分を利用した区間でもあるのですね。
●北岸、湊山・飯山麓の河畔には遊歩道が整備され、何かオブジェのようなものがいくつか見られました。船頭さんによれば、これは「米子彫刻ロード」と呼ばれ、米子駅からここまでの道々に、彫刻家による作品が展示されているのだそう。
ご覧のように小高い場所に東屋も設けられて、河口風景を楽しむスポットしても悪くなさそう。彫刻を一つ一つ訪ねながら、水辺をお散歩するのも乙なものでしょう。
●南岸・祇園町の街並み。壁や瓦は新しくなっているものの、家々のかたちは昔の姿をとどめており、いかにもかつての町屋を思わせます。
船頭さんの解説では、この向こうにある感応寺は、若くして亡くなった大名、中村一忠の墓があるお寺だそうです。写真には写っていませんが、家並のすき間からちらりと山門が見えました。
●この間の景色は、下航時に見た方がより面白かったので、先に折り返し点を。ドーム球場のような米子コンベンションセンターの見えるあたりで、船は180°回頭します。
河道はほぼ南東を向き、上流方にも間近に、いくつかの峰を突きだす低い山並みが。山を望める川っていいなあ。

●ここは大工町(実にいい町名です!)のあたりでしょうか、護岸の柵が途切れたところ、スロープで低めたあたりにタイヤのフェンダーが。米子で初めて見る、川の船着場です。
釣り人さんの姿も見られるように、扉もなく気軽に利用できそうなつくり。ここから観光船を発着させる計画でもあるのでしょうか。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…9』につづく)

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●深浦橋をくぐると、河道はぐっと北に屈曲し、木の生い茂った二つの独立丘陵に挟まれたコースへ。両岸に緑濃い高地を見上げながら、先の見通せない屈曲をまさに分け入る可航水路は、神田川を例外として、関東ではまずお目にかかれない貴重な川景色。私が航行した中で近いものがあるとすれば、三浦市の油壺湾でしょうか。
米子城の築かれた湊山には、山麓をぐるりと半周するかたちで内堀があったそう。北~東側は埋め立てられましたが、今遡上している加茂川の最下流部は、この内堀の南側部分を利用した区間でもあるのですね。

ご覧のように小高い場所に東屋も設けられて、河口風景を楽しむスポットしても悪くなさそう。彫刻を一つ一つ訪ねながら、水辺をお散歩するのも乙なものでしょう。

船頭さんの解説では、この向こうにある感応寺は、若くして亡くなった大名、中村一忠の墓があるお寺だそうです。写真には写っていませんが、家並のすき間からちらりと山門が見えました。

河道はほぼ南東を向き、上流方にも間近に、いくつかの峰を突きだす低い山並みが。山を望める川っていいなあ。

●ここは大工町(実にいい町名です!)のあたりでしょうか、護岸の柵が途切れたところ、スロープで低めたあたりにタイヤのフェンダーが。米子で初めて見る、川の船着場です。
釣り人さんの姿も見られるように、扉もなく気軽に利用できそうなつくり。ここから観光船を発着させる計画でもあるのでしょうか。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…9』につづく)

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