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五霞落川の水門…4

(『五霞落川の水門…3』のつづき)

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上流側から見たところ。「五霞水門」と看板が掲げてあるのはこちらも同じですが、堰柱間のコンクリート壁が目立つ分、印象が下流側とだいぶ違って見えますね。

水門を名乗ってはいるものの、その働きから見ると堰と呼んだ方がよさそうです。東側は工業団地ですから、あるいは工業用水の取水も兼ねて堰上げているのでしょう。
撮影地点のMapion地図

60027.jpg水門の左右はご覧のとおり、厳重に金網の柵で囲まれて、水門とのスキンシップをはかるにはいま一つの環境です。銘板があったら探してみたかったのですが、これでは無理そうですね。

しかし、手前に石碑が新旧二つもありますから、これを検分すれば、色々とわかることがあるでしょう。さて…。


60028.jpg左の古い石碑のアップ。「五霞樋門竣功記念」と彫られており、少なくとも5~60年は経っていそうです。五霞水門の先代が五霞樋門だったのか、それとも五霞水門を、かつては五霞樋門と呼んでいたのかしら。

ちなみに新しい方の石碑は、「竣工記念碑」と題し、文末に「昭和五十二年四月二十八日通水」の文字が。内容は、昭和22年9月のキャスリン台風を契機に五霞樋門を造ったことに始まり、河川改修の経緯、昭和51年に現在の五霞水門を建設したことと、水門の構造や用途、かかった金額が記してありました。なるほど、先代の五霞樋門は昭和22年に造られ、現在の五霞水門は51年に竣工したのですね。

碑文によると、増水時の逆流防止と、灌漑期の河道貯水が主目的とありましたから、やはり堰の役割も併せ持った施設のようです。地域開発の期待を担った水門なのですね。

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東岸の工場群とは対照的に、西岸は見渡す限りの美田でした。五霞落川と五霞水門がはぐくんだといっても、いい過ぎではないでしょう。

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川沿いの道も、東岸のガードレールも完備した舗装道路にくらべ、西岸は轍を残して草の茂る未舗装。法面から立ちのぼる草いきれ越しに望む五霞落川水門も、のどかでいい表情です。

旧権現堂堤の周囲をお散歩して、水門たちや記念碑群、そして分流点や古い橋と、陽気の良さも手伝って思った以上に楽しめました。お次は久しぶりに、関宿を再訪するとしましょう。


(23年5月4日撮影)

(『関宿再訪…1』につづく)

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タグ : 五霞水門五霞落川水門五霞落川

川舟の帆のかたち

『源森川』で吸われる…1」で、源森川を訪ねた折にふと、そういえばこのあたりを写した絵葉書があったなあと思い出し、探してみました。
(帝都名所)隅田川枕橋附近」と題した絵葉書で、よい風を得たのか、川舟たちがいっせいに帆を上げて遡上してゆく隅田川の川面を、東岸から西岸に向けて遠望した、胸のすくような風景です。


肝心の源森川は右手にほんの少しで、タイトルになっているにもかかわらず、枕橋は画面の外というのが哀れですが、隅田川には言問橋はもとより、花川戸の鉄橋も架かっていない時代ですから、枕橋と書くほかなかったのでしょう。

右の料亭の窓に、大きな日除けが掛けられているところを見ると、季節は夏なのでしょうか。炎天下、川面を抜ける南風に乗って、快走する荷舟たち…行先は戸田河岸か、もしくは新河岸川や芝川のどこかなのか、あれこれと想像したくなる、楽しさにあふれた一枚ではあります。

ちなみに料亭は八百松という有名な店で、震災までここにあったとのこと。だとすると撮影年代は、大正末より下らないということになりますね。


眺めていると、例によってフネブネのディテールが気になりだしました。上は絵葉書の左の部分を拡大したものです。

伝統的な四角い、大きな横帆を掲げた舟にまじって、それよりも小さな、傾いたような形の縦帆を備えた舟もいくつか見られますね。縦帆は面積だけでなく帆柱も短く、また一見したところ、帆柱がずいぶん後ろに寄っているように見えます。

運送に従事する荷舟ですから、推進力の面で考えると、大面積の横帆の方がよさそうに思えますが、この絵葉書を見ただけでも、横帆は縦帆の普及に押されているような感じですね。


縦帆つきの荷舟を、もっと近くでとらえた絵葉書がありました。竣工間もない総武線の隅田川橋梁をバックに、追手を受けて遡上する荷舟の後ろ姿。枕橋を題した絵葉書より時代はだいぶ下り、総武線橋梁の竣工から後、昭和7年以降に写されたものです。

構図もなかなか見事ですが、昭和に入っても、こうした荷舟の活躍の場があったことが実感できる一枚ですね。


荷舟を拡大してみました。帆柱は細く、物干し竿を立てたような印象です。帆桁の左端から、滑車を介して細いロープが渡されているのがわかりますね。
現代のディンギーにあるシートと同様の仕組みで、ロープ1本で簡単に帆の操作ができるようになっているのです。

従来からの横帆が廃れて、このような小型の縦帆が普及した理由はいくつかあるのでしょうが、やはり一番大きかったのは、人手が少なくなったこと思われます。

写真でも、右の男性と、舵近くの女性らしい二人が乗り組んでいるのが見えますが、川舟も明治に入ると、従来のように何人も乗組員を雇うことはできなくなり、写真のように夫婦二人のみで運航する「夫婦舟」が多かったとのこと。

鉄道や自動車などの競合相手が発達するにつれ、川舟の売りは運賃の低廉さのみとなり、人件費がかけられなくなったということです。勢い帆装も、推進力より機能性重視ということになって、シート1本で操作できる小型の縦帆が普及したのでしょうね。

従来型の横帆では、橋をくぐるたびに縮帆し、長大な帆柱を倒さねばなりませんでした。この点から見ても、帆柱の起倒がほとんど必要ない小型の帆は、夫婦舟にぴったりの「省力型」帆装だったのでしょう。

ある面、水運の衰退を象徴するような変化ではありますが、厳しい時代を乗り越えて、昭和も二桁まで生き抜いた川舟たちの最終発達型ともいうべき姿が、この小さな縦帆を掲げたフネブネだったのでしょう。

一枚の絵葉書から、あらぬ方に話が向いてしまいましたが、いにしえの水運風景を眺めながら、あれこれと妄想をふくらませてみるのは、実に楽しいものです。

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タグ : 隅田川和船絵葉書・古写真