仙台堀川公園を歩く…3
(『仙台堀川公園を歩く…2』のつづき)
●釣り堀のはたから、四ツ目通りを渡す豊住橋の下を眺めて。このあたりは水面の幅が広く、今にも橋をくぐって、船が向こうからやってきそう。
橋の向こうでは、水面に鋼矢板が打ち込まれて、何やら工事中の様子。鋼矢板の錆色を目にすると、修景された水辺よりむしろ現実感があり、橋脚の陰に曳船が隠れているような、現役水路の雰囲気を感じてしまいました。

●釣り堀の脇はちょっと窮屈だったので、とって返しふたたび千田橋の下へ。復興橋ならではのリベットびっしりを堪能するとしましょう。
改修を受けただけに、青い塗装がきれい。あれ、思ったより視界がスッキリしている気が…。よく見ると、梁のほとんどがリベット組みでなく、I型鋼です。補強のために追加されたのか、取り替えたのかはわかりませんが、ちょっとアンバランス。まあ、橋の裏側にけちをつけても、せんないことではありますが。
●ゲルバーたるゆえんの突桁部に、何て言うんでしょう、桁同士が外れないようにリンクをつけた穴が、リンクを外されうつろになっています。よく見ると、たくさんのボルトで、桁同士がガッチリつながれていました。
実はもう、ゲルバー橋ではなく、単なるプレートガーダー橋になってしまったのですね。

●公園からいったん出て、千田橋の上に上がってみました。高欄を含めた路面は大改修されたので、昔日の面影はありませんが、親柱だけは原形のまま、保存されたようです。
銘板の素材や書体の雰囲気、茂森橋のそれとそっくりですね。同時期に作られ、掲げられたものかもしれません。
●さらに戻って、先ほど鴨たちと会った場所のあたり、案内板によると「古代の森」なる一角。なるほど埴輪のレプリカやら、遺跡風のオブジェが配されています。
で、やはり船の埴輪に意識を吸い寄せられ、複材刳舟に乗ってみたいとか余計なことを考えたりもしたのですが、なぜここに埴輪があるのかは、わからずじまいでした。
(22年12月5日撮影)
(『「江東ドボクマッピング」の展示拝見』につづく)

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橋の向こうでは、水面に鋼矢板が打ち込まれて、何やら工事中の様子。鋼矢板の錆色を目にすると、修景された水辺よりむしろ現実感があり、橋脚の陰に曳船が隠れているような、現役水路の雰囲気を感じてしまいました。

●釣り堀の脇はちょっと窮屈だったので、とって返しふたたび千田橋の下へ。復興橋ならではのリベットびっしりを堪能するとしましょう。
改修を受けただけに、青い塗装がきれい。あれ、思ったより視界がスッキリしている気が…。よく見ると、梁のほとんどがリベット組みでなく、I型鋼です。補強のために追加されたのか、取り替えたのかはわかりませんが、ちょっとアンバランス。まあ、橋の裏側にけちをつけても、せんないことではありますが。

実はもう、ゲルバー橋ではなく、単なるプレートガーダー橋になってしまったのですね。

●公園からいったん出て、千田橋の上に上がってみました。高欄を含めた路面は大改修されたので、昔日の面影はありませんが、親柱だけは原形のまま、保存されたようです。
銘板の素材や書体の雰囲気、茂森橋のそれとそっくりですね。同時期に作られ、掲げられたものかもしれません。

で、やはり船の埴輪に意識を吸い寄せられ、複材刳舟に乗ってみたいとか余計なことを考えたりもしたのですが、なぜここに埴輪があるのかは、わからずじまいでした。
(22年12月5日撮影)
(『「江東ドボクマッピング」の展示拝見』につづく)

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仙台堀川公園を歩く…2
(『仙台堀川公園を歩く…1』のつづき)
●千田橋の中央径間直下から、橋脚を見て。貝の付き方からして、現役時代(橋としてはまだ現役なのですから、こういういい方はおかしいですが、まあ、可航水路好きとして見て)、満潮になれば橋脚は完全に没し、状況いかんでは支承まで水が洗っていたに違いありません。
橋の詳細については、区内の橋をすべて、川跡の公園に架かる橋まで網羅した素晴らしいサイト、「江東区内の橋めぐり」を、ぜひご覧ください。
●千田橋をくぐって、振り向いて側面を写そうとしたら、ポンプ室の建屋や水管橋に邪魔され、こちらも具合が悪かったので、続いて前進。左は釣り堀「豊住魚釣場」が張り出し、歩道はクランク状に水際まで寄せられます。
右手の護岸には、色褪せた壁面画が現われました。筏に乗った川並が描かれているところをみると、木場だったころのこの地の様子を題材にしたもののようですね。後で案内板を見てみたら、「木場の歴史」というタイトルがついていました。
●ううん…この、タイドアーチらしい橋のみ、護岸からはみ出て別パーツであつらえたあたり、その…力作です。どの橋をモデルにしたのでしょうか。
「橋」の両脇に配された、レリーフのようなものも気になります。
●おおお、これは水路図ですね。とたんに関心が急上昇する現金さ。こちらは「橋」の右手に掲げられたものですが、海岸線の様子から察して、時代は明治か、それ以前でしょうか。
細かいところは、その手の本に載っているのと少し違うような気もしますが、竪川と小名木川、大横川と横十間川が、江東デルタに巨大な井の字を描いていたころの「水路天国」な雰囲気は、よく出ています。
今の道路でいうと、放射線と環状線といったところでしょう、水路がなくてはならない動脈として機能していたころです。
●そして左のレリーフは、ぐっと時代が下り、臨海部の埋立地がほぼ出そろい、新たな運河網が沖合に展開した戦後の姿。従来の水路は整理され、数を減らしたとはいえ、竪川や大横川も全区間健在、福富川、古石場川などの小水路も見られますから、戦後とはいえ、もう数十年は前の様子を描いたものですね。
壁面画同様、こちらもかなり傷んでしまっているようですが、かつての水路を末永く顕彰してゆこうという心意気が伝わってきました。
【撮影地点のMapion地図】
(22年12月5日撮影)
(『仙台堀川公園を歩く…3』につづく)

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橋の詳細については、区内の橋をすべて、川跡の公園に架かる橋まで網羅した素晴らしいサイト、「江東区内の橋めぐり」を、ぜひご覧ください。

右手の護岸には、色褪せた壁面画が現われました。筏に乗った川並が描かれているところをみると、木場だったころのこの地の様子を題材にしたもののようですね。後で案内板を見てみたら、「木場の歴史」というタイトルがついていました。

「橋」の両脇に配された、レリーフのようなものも気になります。

細かいところは、その手の本に載っているのと少し違うような気もしますが、竪川と小名木川、大横川と横十間川が、江東デルタに巨大な井の字を描いていたころの「水路天国」な雰囲気は、よく出ています。
今の道路でいうと、放射線と環状線といったところでしょう、水路がなくてはならない動脈として機能していたころです。

壁面画同様、こちらもかなり傷んでしまっているようですが、かつての水路を末永く顕彰してゆこうという心意気が伝わってきました。
【撮影地点のMapion地図】
(22年12月5日撮影)
(『仙台堀川公園を歩く…3』につづく)

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タグ : 仙台堀川公園
仙台堀川公園を歩く…1
(『茂森橋のディテール…6』のつづき)
●茂森橋を楽しんだ後は、橋詰近くから始まる仙台堀川公園をお散歩してきました。といってもほんの少し、写真の案内図でいえば左の端、入口をちょっとつっついた程度です。
延長3700mに及ぶ、川跡を利用した公園としては最大級ともいえる仙台堀川公園は、その名のとおりかつては仙台堀川の一部だったところですが、案内図の横十間川親水公園より東(右)、小名木川に至る区間は、東京運河土地株式会社が大正11(1922)年に起工、昭和8(1933)年に竣工した民間資本の運河で、後に砂町運河(現在の砂町運河とは別)と呼ばれました。
仙台堀川の一部となったのは、昭和40(1965)年の河川法改正からです。
●そんなわけで、自艇で走れない川跡とはいえ、大いに興味をそそられる場所なので、少しでもよいから、一度歩いてみたいと思っていました。橋の上に立つと、細長い池に過ぎないものの、水面は十分に広く、運河だったころを髣髴させます。
おお、水鳥がたくさんいる…。現役時代の物件を見て回る前に、トリさんに吸い寄せられてしまいそう。

●さっそく水鳥の大艦隊(笑)が、我々目指して一直線にウェーキを引いて歓迎してくれるこの嬉しさ! もっとも、エサを持っていないと知るや、たちまち四散する現金ぶりでしたが。
キンクロ君を中心に、ずいぶん人慣れしているようです。きっと地元の方においしいものをもらって、可愛がられているのでしょうね。

●首を突っ込んで、お昼寝を決め込む鴨さんたち。大好物の平たくつぶれた姿にくぎ付け。
トリ好きにとってはタマランところですな(笑)。

●いや、トリではなくて、現役時代のストラクチャーを見に来たのだった。水辺沿いに少し歩くと、木々のすき間から、ゲルバー鋼桁橋がぬっと姿を現わしました。名前は千田橋。路面は新しいようですが、鋼桁のリベットだらけの姿、震災復興橋の雰囲気が濃厚ですね。
横十間川親水公園(過去ログ『和船友の会で体験乗船…1』ほか参照)でも見ましたが、古い橋が、水路の現役時代そのままに架けられている姿を楽しめるのも、江東区の「川跡公園」を散歩する時の大きな楽しみです。
【撮影地点のMapion地図】
(22年12月5日撮影)
(『仙台堀川公園を歩く…2』につづく)

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延長3700mに及ぶ、川跡を利用した公園としては最大級ともいえる仙台堀川公園は、その名のとおりかつては仙台堀川の一部だったところですが、案内図の横十間川親水公園より東(右)、小名木川に至る区間は、東京運河土地株式会社が大正11(1922)年に起工、昭和8(1933)年に竣工した民間資本の運河で、後に砂町運河(現在の砂町運河とは別)と呼ばれました。
仙台堀川の一部となったのは、昭和40(1965)年の河川法改正からです。

おお、水鳥がたくさんいる…。現役時代の物件を見て回る前に、トリさんに吸い寄せられてしまいそう。

●さっそく水鳥の大艦隊(笑)が、我々目指して一直線にウェーキを引いて歓迎してくれるこの嬉しさ! もっとも、エサを持っていないと知るや、たちまち四散する現金ぶりでしたが。
キンクロ君を中心に、ずいぶん人慣れしているようです。きっと地元の方においしいものをもらって、可愛がられているのでしょうね。

●首を突っ込んで、お昼寝を決め込む鴨さんたち。大好物の平たくつぶれた姿にくぎ付け。
トリ好きにとってはタマランところですな(笑)。

●いや、トリではなくて、現役時代のストラクチャーを見に来たのだった。水辺沿いに少し歩くと、木々のすき間から、ゲルバー鋼桁橋がぬっと姿を現わしました。名前は千田橋。路面は新しいようですが、鋼桁のリベットだらけの姿、震災復興橋の雰囲気が濃厚ですね。
横十間川親水公園(過去ログ『和船友の会で体験乗船…1』ほか参照)でも見ましたが、古い橋が、水路の現役時代そのままに架けられている姿を楽しめるのも、江東区の「川跡公園」を散歩する時の大きな楽しみです。
【撮影地点のMapion地図】
(22年12月5日撮影)
(『仙台堀川公園を歩く…2』につづく)

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茂森橋のディテール…6
(『茂森橋のディテール…5』のつづき)
●前回と同じ立ち位置からふと、北側に目をやると…、おお、ここからでも東詰が下がっているように見える! 背後の太い水管橋が水平だとすれば、東詰(写真右側)が明らかに沈下しています。
まあ、何分パッと見で、路面の湾曲にいたずらされているかもしれず、またズームによる画像のゆがみもあるでしょうから、あまり騒ぐのもどうかと思いますが、「茂森橋哀歌…1」の写真でもおわかりのように、不等沈下していることは確かです。
●先ほどテラスから見て気付かされた、鋼桁部の高欄が一部、補修されているのを改めて見てみました。
縁石にまたがった帯金の足には、ボルトが2本打ちこまれています。柱が取り替えられたものなのか、単に基部のみの補修なのかはわかりませんでした。
●西詰の橋台の高欄は、北側のそれほど傷んではいませんが、やはり番線による補修がなされています。
お気づきのように、1径間(?)の番線の数は4本。どうもやり方ががさつ(失礼)というか、素人臭さがあることから、以前は地元有志による補修を疑ったりもしましたが、本数が全て同じであるところを見ると、やはり都の担当部署によって、計画的になされたものなのでしょう。

●おまけ。
南側の水管橋は、並行して木製の歩み板が設けられているのですが、その上にぺったり座り込んで、日向ぼっこをしているハト君が気になって一枚。
カメラは嫌いなのか、腰を浮かしかけ「邪魔するなよう」と言いたげな眼で、にらまれてしまいました。

●橋を渡る時にも、お尻から一枚。「しつこいなあ!」ごめんなさい。
●最後に、茂森橋とその関連事項についての参考資料を、いくつか紹介したいと思います。サイトについては以前も触れたものもありますが、改めて。
・「震災復興橋梁工事写真・茂森橋」(土木学会附属土木図書館 デジタルアーカイブス)
→大正14年に行われた、橋台部分の杭打ちから、鉄筋を組み立てるまでの写真6枚が掲載されています。
・「茂森橋」(江東区内の橋めぐり)
→ウェブ上で、スペックが出ている唯一のものではないでしょうか。
・「東京の橋」(石川悌二著・新人物往来社・昭和52年初版)
→「長三〇メートル、幅二二メートル、昭和二年の架設」とあり、「江東区内の橋めぐり」と長さ・竣工年が異なりますが、理由はわかりません。
・「東京の消えた地名辞典」(竹内誠編・東京堂出版・平成21年初版)
→茂森町のくだりは、この本の記述に従いました。
●ちなみに、「茂森橋、2年後に架け替えか?」でお約束した、例のお話の確認を取る件ですが、担当部署に質問のメールを送ったものの、まだ返事をいただいていません。
宛先が間違えていたのか、または書き方が悪かったのか…。再挑戦したいと思っていますが、良いお知恵をお持ちの方がおられたら、ぜひご教示いただきたいものです。
(22年12月5日撮影)
(『仙台堀川公園を歩く…1』につづく)

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まあ、何分パッと見で、路面の湾曲にいたずらされているかもしれず、またズームによる画像のゆがみもあるでしょうから、あまり騒ぐのもどうかと思いますが、「茂森橋哀歌…1」の写真でもおわかりのように、不等沈下していることは確かです。

縁石にまたがった帯金の足には、ボルトが2本打ちこまれています。柱が取り替えられたものなのか、単に基部のみの補修なのかはわかりませんでした。

お気づきのように、1径間(?)の番線の数は4本。どうもやり方ががさつ(失礼)というか、素人臭さがあることから、以前は地元有志による補修を疑ったりもしましたが、本数が全て同じであるところを見ると、やはり都の担当部署によって、計画的になされたものなのでしょう。

●おまけ。
南側の水管橋は、並行して木製の歩み板が設けられているのですが、その上にぺったり座り込んで、日向ぼっこをしているハト君が気になって一枚。
カメラは嫌いなのか、腰を浮かしかけ「邪魔するなよう」と言いたげな眼で、にらまれてしまいました。

●橋を渡る時にも、お尻から一枚。「しつこいなあ!」ごめんなさい。
●最後に、茂森橋とその関連事項についての参考資料を、いくつか紹介したいと思います。サイトについては以前も触れたものもありますが、改めて。
・「震災復興橋梁工事写真・茂森橋」(土木学会附属土木図書館 デジタルアーカイブス)
→大正14年に行われた、橋台部分の杭打ちから、鉄筋を組み立てるまでの写真6枚が掲載されています。
・「茂森橋」(江東区内の橋めぐり)
→ウェブ上で、スペックが出ている唯一のものではないでしょうか。
・「東京の橋」(石川悌二著・新人物往来社・昭和52年初版)
→「長三〇メートル、幅二二メートル、昭和二年の架設」とあり、「江東区内の橋めぐり」と長さ・竣工年が異なりますが、理由はわかりません。
・「東京の消えた地名辞典」(竹内誠編・東京堂出版・平成21年初版)
→茂森町のくだりは、この本の記述に従いました。
●ちなみに、「茂森橋、2年後に架け替えか?」でお約束した、例のお話の確認を取る件ですが、担当部署に質問のメールを送ったものの、まだ返事をいただいていません。
宛先が間違えていたのか、または書き方が悪かったのか…。再挑戦したいと思っていますが、良いお知恵をお持ちの方がおられたら、ぜひご教示いただきたいものです。
(22年12月5日撮影)
(『仙台堀川公園を歩く…1』につづく)

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茂森橋のディテール…5
(『茂森橋のディテール…4』のつづき)

●錆垂れと縁石(?)の欠落が目立つ、鋼桁の南側側面を眺めていると、高欄の柱、左端2本が他と形が違うのに気付かされました。
根元が帯金の足で、縁石の上にまたがったようなつくりになっています。ここも、クルマの衝突か何かで壊され、後に復元されたところなのかもしれません。

●鋼桁側面、東端に書かれた塗装記録。わざわざ東側のテラスに入ったのは、何よりこれが撮りたかったからです。
最後の塗装が、1995(平成7)年…もう16年間も再塗装されていないのですね。「茂森橋、2年後に架け替えか?」でも触れましたが、やはり、こんなに長い間放置されているのを見ると、いよいよ架け替えも近いのか、と不安にかられます。
●東側の橋台。表面の剥落はもっとも少ないですが、上端近くに水平に亀裂が走っています。流れか風によるものかはわかりませんが、西側よりよどみがひどく、水面にしわが寄ったように見えます。
橋台の前後は、岸に近いこともあって泥が堆積し、潮位が低い時には水底が露出するほど、水深も浅くなっています。写真でも、水底に沈んだごみが透けて見えていますね。
●東側の親柱。銘板は、前回触れたように点対称の配置なので、「茂森橋」と漢字です。あらら、こちらの「笠石」は、歩道側にズレてしまっていますね。ホゾか何かではまっているのではなく、乗っかっているだけなのかしら。
今回改めて眺めてみて、銘板について引っかかったことが一つ。銘板のサイズが、親柱の凹部と合っておらず、周りにセメントの「余白」を生じていること。恐らく竣工時のものではなく、後になって新たに掲げたものなのでしょう。
「茂森橋哀歌…2」でも、鋼桁中央にあったであろう銘板について触れましたが、経年劣化で落ちたのか、金属供出で外されたのか、はたまた金物が高騰していた時代に持ち去られたのか…あれこれと想像してしまいます。
●少し離れて、東詰から眺めたところ。「最低橋」であるという先入観も手伝い、近くに架かる他の橋にくらべれば、さほどではないと思っていたのですが、こうして眺めると路面の「盛り上がり」ぶりはかなりのもので、土地の低さを改めて実感。
茂森橋際歩道橋の向こうには、葛西橋通りと仙台堀川を一気にまたぐ、木場公園大橋の主塔がのぞいています。
(22年12月5日撮影)
(『茂森橋のディテール…6』につづく)

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●錆垂れと縁石(?)の欠落が目立つ、鋼桁の南側側面を眺めていると、高欄の柱、左端2本が他と形が違うのに気付かされました。
根元が帯金の足で、縁石の上にまたがったようなつくりになっています。ここも、クルマの衝突か何かで壊され、後に復元されたところなのかもしれません。

●鋼桁側面、東端に書かれた塗装記録。わざわざ東側のテラスに入ったのは、何よりこれが撮りたかったからです。
最後の塗装が、1995(平成7)年…もう16年間も再塗装されていないのですね。「茂森橋、2年後に架け替えか?」でも触れましたが、やはり、こんなに長い間放置されているのを見ると、いよいよ架け替えも近いのか、と不安にかられます。

橋台の前後は、岸に近いこともあって泥が堆積し、潮位が低い時には水底が露出するほど、水深も浅くなっています。写真でも、水底に沈んだごみが透けて見えていますね。

今回改めて眺めてみて、銘板について引っかかったことが一つ。銘板のサイズが、親柱の凹部と合っておらず、周りにセメントの「余白」を生じていること。恐らく竣工時のものではなく、後になって新たに掲げたものなのでしょう。
「茂森橋哀歌…2」でも、鋼桁中央にあったであろう銘板について触れましたが、経年劣化で落ちたのか、金属供出で外されたのか、はたまた金物が高騰していた時代に持ち去られたのか…あれこれと想像してしまいます。

茂森橋際歩道橋の向こうには、葛西橋通りと仙台堀川を一気にまたぐ、木場公園大橋の主塔がのぞいています。
(22年12月5日撮影)
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