浪花濃厚水路…14
(『浪花濃厚水路…13』のつづき)
●旧堂島川可動堰で、今ひとつ気になったのがこれです。
くぐってから、南側に見えたこの低い背割堤…橋脚に接して、一径間分を区切り上流側に延びています。向こうにはポンツン桟橋が設けられ、現在は船着場として使われているようですが、これ、もしかして閘室の跡じゃないですか?

ホンモノのGoogleマップで堂島川可動堰閘門を表示
●例のごとく帰宅後、Googleの航空写真で確かめてみると、やはり! 閘室だったようです。南側のみ、扉体の収納される凹みがあるところを見ると、上流側扉体は、扉一枚のスイングゲートだったのでしょう。下流側ゲートは、もちろん可動堰の一径間、ラジアルゲートを使い、閘門を形成していたというわけですね。
干潮に向かう時間帯、各可動堰が全閉となって、水位差が生じたときは、当然舟運に支障が出ますから、この閘門を使って通船を確保していたのですね。他の可動堰にも、やはり閘門がついていたのでしょうか?
●この閘門について触れた記事や、画像がないかしらと検索してみたら…、ありました。「大川の美観をになう水晶橋」(808bashi.jp)。あ、フラッシュ放水について、ここにも書いてあった…。
閘門部分を写した、写真もありました。「堂島川ダム付近」(土木学会付属土木図書館・戦前絵葉書 1.橋 27.大阪府)絵葉書ですが、スイングゲートの姿が、はっきりとらえられていますね。
●緊迫の堂島川連続すり抜けは、名残惜しくも水晶橋でおしまい。
緑色の桁橋、鉾流橋(昭和4年竣工)は、すでに充分な桁下高がありました。沈下が著しかったのは、西側の橋が多いようですね、このあたりの理由が知りたいところです。
●堂島川・土佐堀川と、中之島を横断して架かる難波橋。立派な親柱と、石張り装飾の橋脚が印象的です。
鋼桁部分は戦後の架け替えながら、親柱やライオン像など装飾は大正4年竣工当時のものを活かしており、現在も「ライオン橋」の愛称で親しまれているとか。
●中之島の東端部分、堂島川と土佐堀川を短絡する、短い水路があるのですが、ここにも2径間のアーチ橋が。
難波橋から東の中之島は、後に延長された部分だそうですので、見た目ほど古くはないなのかもしれませんが、小水路を渡る石造風アーチ、いい雰囲気ですね。
【撮影地点のMapion地図】
(21年9月12日撮影)
(『浪花濃厚水路…15』につづく)

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くぐってから、南側に見えたこの低い背割堤…橋脚に接して、一径間分を区切り上流側に延びています。向こうにはポンツン桟橋が設けられ、現在は船着場として使われているようですが、これ、もしかして閘室の跡じゃないですか?

ホンモノのGoogleマップで堂島川可動堰閘門を表示
●例のごとく帰宅後、Googleの航空写真で確かめてみると、やはり! 閘室だったようです。南側のみ、扉体の収納される凹みがあるところを見ると、上流側扉体は、扉一枚のスイングゲートだったのでしょう。下流側ゲートは、もちろん可動堰の一径間、ラジアルゲートを使い、閘門を形成していたというわけですね。
干潮に向かう時間帯、各可動堰が全閉となって、水位差が生じたときは、当然舟運に支障が出ますから、この閘門を使って通船を確保していたのですね。他の可動堰にも、やはり閘門がついていたのでしょうか?
●この閘門について触れた記事や、画像がないかしらと検索してみたら…、ありました。「大川の美観をになう水晶橋」(808bashi.jp)。あ、フラッシュ放水について、ここにも書いてあった…。
閘門部分を写した、写真もありました。「堂島川ダム付近」(土木学会付属土木図書館・戦前絵葉書 1.橋 27.大阪府)絵葉書ですが、スイングゲートの姿が、はっきりとらえられていますね。

緑色の桁橋、鉾流橋(昭和4年竣工)は、すでに充分な桁下高がありました。沈下が著しかったのは、西側の橋が多いようですね、このあたりの理由が知りたいところです。

鋼桁部分は戦後の架け替えながら、親柱やライオン像など装飾は大正4年竣工当時のものを活かしており、現在も「ライオン橋」の愛称で親しまれているとか。

難波橋から東の中之島は、後に延長された部分だそうですので、見た目ほど古くはないなのかもしれませんが、小水路を渡る石造風アーチ、いい雰囲気ですね。
【撮影地点のMapion地図】
(21年9月12日撮影)
(『浪花濃厚水路…15』につづく)

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