錦絵の中の通運丸

●東京名所之内兩國𣘺大花火之真圖
3枚組錦絵、豊原周春画、明治20年発行。「アサクサ区駒形丁四十二バンチ 画工〇(不明)出版人 児玉又七」の表記あり
●他所では簡単に紹介したことがありますが、こちらでは初めてと思います。隅田川、両国の花火見物に繰り出した人々や川船たちを描写した大判の錦絵で、汽船原発場や通運丸も絵柄の一部に取り込まれていることから、明治の河川舟運を題材にした史料として知られているもの。
たびたび触れている関東川蒸気船のエンサイクロペディア、「図説 川の上の近代」にも収録されているので、ご存じの方も多いでしょう。
●入手して4年ほど経つでしょうか、傷まないようすぐに額装を依頼したので、正確な寸法を測っておけばよかったと後悔したものの、時すでに遅し。貼り込み時のズレもあるでしょうからおおよそですが、710×360㎜くらいと思われます。
有名な錦絵が縁あって手元に来た喜び、それは例えようのないもので、花火の破裂音や橋上を埋める人々(落橋しないか心配になるレベルですが)の歓声、川面を埋めるフネブネの艪音や、豪壮な屋形船の弦歌さんざめくさままで、夜の川面の賑わいが聞こえてきそうな生き生きとした描写に、陶然と見入ったものでした。

●初号船の就航から10年、大川筋の華だった通運丸も、舷を触れんばかりに繰り出した和船群に囲まれては、モブシーンの一キャラクターといったところ。
モディファイの度合いも激しく、極端に寸詰められた丸っこい姿は、チョロQやたまご飛行機といった、ショーティーモデルを思い起こさせるものが。どこか可愛らしくて、決して嫌いではありません。ぬいぐるみが欲しくなりますね!
●ちょっと首をかしげてしまうのは、左が上流で船首、キセル型ベンチレーターとも左を向いているのに、2本出ている錨綱は船尾のみであること。“モブキャラ”(笑)扱いだけに、このあたりの描写も少々、アバウトに済まされたといったところでしょうか。
まあ、ショーティーモデル風についていうなら、周りに浮かぶ和船たちも、全体的に寸詰まりに描かれているものが多いので、豊原周春の画風というものなのかもしれません。

●通運丸の扱いはさておき、史料としてこれは、と注目される描き込みがなされているあたり、興味を惹かれるものが。画面やや左手、レンガの洋館に隣接したあたりに立つ一本の角柱。「郵便御用通運丸定繋杭」、と、はっきり描き込まれているのです。
単なる民間事業でなく、お上の御用であるぞ、というあたりをアピールしているのか、それとも役所から指示があっての、法定表記みたいな設置なのか‥‥。
●その右下には「EE通EE」と書かれた、このころの内国通運の旗も見えますね。Eはエクスプレスの意で、通運丸も略同のものを掲げていたはずです。Eの数は用途や時代によってまちまちで、「通」の両側に1つづつから、分社旗などシンメトリカル(つまり左側はヨ)に5つづつもズラリと並べたものもあり、バリエーションに富んでいました。
頂部に風見鶏の方位針のような、真鍮の装飾が設けられたハイカラな塔屋は、原発場の建物ですね。以前紹介した錦絵(『通運丸の複製錦絵から始まる興味深いあれこれ』参照)にも描かれています。この当時の写真があったら、描写の精度を見くらべてみたいものです。

●そうそう、先日アップした記事、「川蒸気船の絵葉書5題」で色褪せた台紙貼り写真「東京兩國橋」を紹介しましたが、一つ書き忘れたことがありまして‥‥今回の錦絵にも関連するので、ここで補足します。
左端に見える角材の構造物、どう見ても洋式木造橋の親柱で、相応に丁寧でしっかりとした造りです。少なくとも岸辺の柵や桟橋の手すりみたいな、簡素なものではありませんよね。
「明治の初めには、ここにも入堀か小河川の落とし口があったのかなあ‥‥」と、もやもやと想像するのみでしたが、ふと思い当たるところがあって、額装した錦絵を改めて眺めてみたのでした。

●写真の橋があった! 右下の隅、端っこも端っこで、手前は紫色をしたカスミ様の何かに隠されてしまっていますが、確かに洋式木造の小橋梁が描かれていたのです!
写真の撮影時からおよそ10年以上を経て、水際も恐らく石垣などで護岸され、土盛りもなされたのでしょう、橋詰から河畔側へはみ出す形で、家屋が建てられています。汽船原発場ができたことで、このあたりも整地、開発がなされたことが感じられ、興趣大いに深まったことではありました。

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コミック上で川蒸気が大活躍! 「ゴールデンカムイ」24巻
●昨年4月のことです。ツイッターのこちらのスレッドで、y2_naranja氏にコミック「ゴールデンカムイ」(野田サトル・集英社)で、石狩川にかつて就航していた川蒸気船・上川丸が登場しているシーンのあることを教えていただきました(ありがとうございました!)。
「ゴールデンカムイ」を読んだことはありませんでしたが、明治時代の北方文化や民俗の描写が精緻かつ、ストーリーも巧みなことで高く評価されている方も少なくないこと、ウェブ上でもたびたび話題になっていることは知っていました。
●コミックに川蒸気が登場するのは、恐らく初めてのこととあって、川蒸気ファンとしていてもたってもいられなくなったことは、いうまでもありません。まず検索してみると、「ゴールデンカムイ上川丸と江別港を見に聖地巡礼!チョウザメが沢山いる?北海道江別市!」(江別・野幌情報ナビ えべナビ)に、当該234話の数コマが掲載されているのを発見。
まあ、感動しましたよ。素晴らしい! この数コマを拝見しただけでも、恐らく当地を訪ねてきちんと取材され、川蒸気を理解したうえで描かれていることが感じられました。レプリカの存在も、正確な描写に大いに力があったのはいうまでもありますまい。
即断で既刊のコミック全巻を購入、「ゴールデンカムイ」の世界に肩まで浸かりながら、234話の収録されたコミック、24巻の発売を心待ちにしたのであります。

●さて、12月も後半となり、待ちに待った24巻を発売と同時に横っ飛びに入手。さっそく拝読してみると‥‥。
アイヌの宝の手掛かりを探して旅をしてきた杉元、アシリパ、白石の3人は、白石の提案でぬかるんだ陸路を避け、川蒸気・上川丸に乗って江別まで下ることに。
ここで、樺戸監獄への交通確保のため航路が設けられたこと、囚人が石狩川の航路整備に駆り出されたことを、白石が解説してくれるのは「もと囚人だから、そのくらい知っててもおかしくないな」と思えるのですが、次のセリフ、
●「外輪式蒸気船は両側の水車で水面を掻いて進むから スクリュー船と違って浅い川とかで走るのにいいのよ」
脱獄王のくせに何でそんなにフネに詳しいんだ白石。
艀を曳いて石狩川を下る上川丸のゆく手に、2隻の小型和船が。船長は船の乗っ取りをたくらむ賊と判断、舵さばきで一艘を蹴散らしたのはいいものの、残ったもう一艘から杉元らの探していた刺青のあるもと囚人、海賊房太郎が乗り込んできて船を乗っ取られ、海賊一味と船員、拳銃を持った老郵便配達夫もまじえての大乱闘に。
●この下りの見せ場は、兵士を乗せた行逢船「神山丸」(フィクション)とのチェイスシーン。発砲音に気づいた兵士が、神山丸を後進させて上川丸を追跡し始めます。
それに気づいた賊・海賊房太郎、船長を押しのけ上川丸の舵輪を自ら握って、初めてとは思えない見事な舵さばきで、神山丸の外輪に捨て身の体当たり! 行動不能に追い込んで逃走に成功します。
●あまりストーリーを垂れ流すと差しさわりがあるので、ここまでに留めておきますが、急転舵で突入する上川丸の航跡、外輪から上がった水しぶきが2条、白く描かれているあたり、まことに見事としかいいようがありません。
ストーリーの流れの上での舞台の一つに過ぎないとはいえ、船のディテールや船内の様子、外輪の動きなどなど、ファンの目から見ても満足のいく描写で、きしみ、のたうつ船体の悲鳴や、外輪の打つ水音が聞こえてくるようです。このシーンのもう一つの主役は川蒸気、といっていい過ぎでないと思えるくらい。野田サトル先生の観察眼と想像力、筆力に、改めて感服した次第です。
●そして何より、川蒸気が恐らく初登場したコミックで、これだけの活躍の場を与えられたことを、大いに喜びたいと思います。舞台となったことで、上川丸だけでなく、川蒸気そのものへの関心も高まることも期待したいもの。ご興味のある向き、ぜひご一読を勧めします。
●なお実物の上川丸については、弊ブログの過去記事「上川丸の絵葉書が!」もご参照ください。
ちなみに石狩川の汽船航路の経営はきわめて苦しく、船社は4回もの変遷を経たのち、日露戦争直前の明治35(1902)年からは、国からの補助金により民間の受命者が運航を委託される、「命令航路石狩川線」となりました。舞台となった明治末の石狩川航路は、いわばほぼ国によって維持されていた時期にあたります。

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「ゴールデンカムイ」を読んだことはありませんでしたが、明治時代の北方文化や民俗の描写が精緻かつ、ストーリーも巧みなことで高く評価されている方も少なくないこと、ウェブ上でもたびたび話題になっていることは知っていました。
●コミックに川蒸気が登場するのは、恐らく初めてのこととあって、川蒸気ファンとしていてもたってもいられなくなったことは、いうまでもありません。まず検索してみると、「ゴールデンカムイ上川丸と江別港を見に聖地巡礼!チョウザメが沢山いる?北海道江別市!」(江別・野幌情報ナビ えべナビ)に、当該234話の数コマが掲載されているのを発見。
まあ、感動しましたよ。素晴らしい! この数コマを拝見しただけでも、恐らく当地を訪ねてきちんと取材され、川蒸気を理解したうえで描かれていることが感じられました。レプリカの存在も、正確な描写に大いに力があったのはいうまでもありますまい。
即断で既刊のコミック全巻を購入、「ゴールデンカムイ」の世界に肩まで浸かりながら、234話の収録されたコミック、24巻の発売を心待ちにしたのであります。

●さて、12月も後半となり、待ちに待った24巻を発売と同時に横っ飛びに入手。さっそく拝読してみると‥‥。
アイヌの宝の手掛かりを探して旅をしてきた杉元、アシリパ、白石の3人は、白石の提案でぬかるんだ陸路を避け、川蒸気・上川丸に乗って江別まで下ることに。
ここで、樺戸監獄への交通確保のため航路が設けられたこと、囚人が石狩川の航路整備に駆り出されたことを、白石が解説してくれるのは「もと囚人だから、そのくらい知っててもおかしくないな」と思えるのですが、次のセリフ、
●「外輪式蒸気船は両側の水車で水面を掻いて進むから スクリュー船と違って浅い川とかで走るのにいいのよ」
脱獄王のくせに何でそんなにフネに詳しいんだ白石。
艀を曳いて石狩川を下る上川丸のゆく手に、2隻の小型和船が。船長は船の乗っ取りをたくらむ賊と判断、舵さばきで一艘を蹴散らしたのはいいものの、残ったもう一艘から杉元らの探していた刺青のあるもと囚人、海賊房太郎が乗り込んできて船を乗っ取られ、海賊一味と船員、拳銃を持った老郵便配達夫もまじえての大乱闘に。

それに気づいた賊・海賊房太郎、船長を押しのけ上川丸の舵輪を自ら握って、初めてとは思えない見事な舵さばきで、神山丸の外輪に捨て身の体当たり! 行動不能に追い込んで逃走に成功します。
●あまりストーリーを垂れ流すと差しさわりがあるので、ここまでに留めておきますが、急転舵で突入する上川丸の航跡、外輪から上がった水しぶきが2条、白く描かれているあたり、まことに見事としかいいようがありません。
ストーリーの流れの上での舞台の一つに過ぎないとはいえ、船のディテールや船内の様子、外輪の動きなどなど、ファンの目から見ても満足のいく描写で、きしみ、のたうつ船体の悲鳴や、外輪の打つ水音が聞こえてくるようです。このシーンのもう一つの主役は川蒸気、といっていい過ぎでないと思えるくらい。野田サトル先生の観察眼と想像力、筆力に、改めて感服した次第です。
●そして何より、川蒸気が恐らく初登場したコミックで、これだけの活躍の場を与えられたことを、大いに喜びたいと思います。舞台となったことで、上川丸だけでなく、川蒸気そのものへの関心も高まることも期待したいもの。ご興味のある向き、ぜひご一読を勧めします。
●なお実物の上川丸については、弊ブログの過去記事「上川丸の絵葉書が!」もご参照ください。
ちなみに石狩川の汽船航路の経営はきわめて苦しく、船社は4回もの変遷を経たのち、日露戦争直前の明治35(1902)年からは、国からの補助金により民間の受命者が運航を委託される、「命令航路石狩川線」となりました。舞台となった明治末の石狩川航路は、いわばほぼ国によって維持されていた時期にあたります。

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通運丸就航当初の料金表から
●内国通運が明治10年に発行した汽船航路の料金表、「郵便御用 川蒸氣通運丸賃金改正表」をご覧に入れましょう。明治10年といえば、川蒸気船・通運丸が大川筋に初お目見えした年、関東における川蒸気の勃興が始まった、記念すべき年! そんな時代の息吹が感じられる史料を、手にできたときの喜びは例えようがないものでした。
●公式の開業日は5月1日で、当初は小名木川の深川扇橋から、思川の生井に至る航路でしたが、早くも8月21日には、表にも記載されている生良・乙女まで延長されています。
タイトルに「改正表」とあるのは、この表が航路延長にともなって、従来の内容を改定したものであることを示しているのでしょう。「明治十年 月」と、発行月が空欄になっているのも、開業がまだ決まっていない延長に先立って、作成・配布されたものと考えれば納得がいきますね。

●郵便御用 川蒸氣通運丸賃金改正表
寸法275㎜×404㎜、明治10年発行。
●川汽船航路の料金の特徴は、鉄道と違い上りと下りが同額でなく、結構な差がついていることがまず挙げられます。東京~古川間でくらべてみると、下りが50銭なのに、上りが35銭と3割引きの額になっています。区間によって割引額は異なりますが、東京へ向かう便は総じて安く設定されているのがわかりますね。
何とはなしに「上り、下り」と書いてしまいましたが、川の流れからすれば全く逆で、東京を離れる便は江戸川・利根川の流れに抗して遡上し、東京に向かう便は流れに乗って下航するわけで、当然消費される燃料にも、大きく差がつくための料金設定と思って間違いありません。なお「乗船人御心得」にも載っているように、子供は4歳まで無料、12歳以下は半額で、上等船室は料金表にある額の5割増しでした。
●ちなみに5月1日、開業当初の通運丸は第1号・第2号の2隻で、6月1日よりさらに1隻が追加されたとのこと。明治10年中には第6号までの通運丸が就航していますから、生良・乙女延長時点で、少なくとも3隻以上の通運丸が活躍していたことになります。
開業当初は隔日1往復だった便数も、生良・乙女延長時には隻数の増加により、起終点を同時出港する毎日1往復に増便され、この表にはありませんが、明治10年中には荒川の戸田、利根川の木下と、他の河川にも次々に航路を伸ばしてゆきます。浚渫による航路整備など、入念な準備を経たこともあるでしょうが、まさに満を持した登場といっても、いい過ぎではない勢いが感じられたものです。

●古河渡舩塲(油治商店發行)
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。
●「賃金改正表」が発行された、時代や寄港地がしのべるような絵葉書を、手持ちの中から2点選んでみました。1枚目は最初期からの寄港地である、渡良瀬川は古河を写したもの。以前講演させていただいた折にスライド上映したり、他所のプレゼン資料にお貸ししたこともあるので、ご覧になった方もおられるかと思います。
外輪カバーの号数が判読できないのが惜しいですが、文字数が4文字――例えば「第三十二」のような――に見えるので、とすれば第二十一号通運丸の就航後、明治16年以降の撮影と思われます。岸は近いものの桟橋は見当たらず、艀を横付けしての荷役中。汽船が横付けできる規模の桟橋を備えた寄港地は少なく、艀を用いて荷客を扱うのが普通でした。

●キャプションなし(裏面に『宮戸川通船之景』の書き込みあり)
寸法58×90㎜。密着焼写真を台紙に貼ったもの。明治時代、撮影年不詳。
●これは絵葉書でなく写真ですが、体裁から見ても手持ちの中では最古級と思われます。何より嬉しかったのが、ブレていはいても号数が判読できたこと! 第七号通運丸! 初代が明治11年7月、2代目が明治13年8月に就航。2代目の諸元は全長74尺(22.4m)、幅10尺(3.03m)、公称16馬力、速力約3kt。写真からどちらかは判別しかねますが、もし短命に終わった初代だったら、極めて貴重な写真になるでしょう。
宮戸川(みやどがわ)は落語のお題でも知られるように、浅草・駒形附近の隅田川を指す名前。背景に写り込んだ家並を見ても、なるほど街場らしい商家がぎっしりと甍を連ね、水際に詰まれた石垣も密で、いかにも浅草といった雰囲気です。通運丸に目を移せば、船首の旗竿にはためく内国通運の旗、白く砕ける船首波や、水しぶきを盛大に散らせる外輪と、勇壮な航走ぶりを見事にとらえているのが魅力的ですね。撮影地が浅草あたりとすれば、戸田通いの荒川航路でしょうか。
●珍しく思ったのは、甲板レベルに下端を揃えた窓の配置です。窓がこの高さにあるということは、船室の床面は入口よりだいぶ低く取ってあるとみてよいでしょう。外輪の通運丸でこのタイプを見たのは初めてです。この点と、外輪カバーの書体やレイアウトから、絵葉書でよく見てきた他の川蒸気にはない古様(?)を感じたのでした。初代だといいなあ。
●明治一桁から利根川丸ほか、小船社による川蒸気船はすでに登場していたものの、舟航隻数と航路規模から見れば、関東の川蒸気時代を現出したのは通運丸船隊に他なりません。その黎明ともいえる時期の「賃金表」を前に、和紙の感触や木版らしい刷りの雰囲気を愛でながら、ひととき想いを馳せたことではありました。
参考文献
図説・川の上の近代 ―通運丸と関東の川蒸気船交通史― 川蒸気合同展実行委員会 編
【図説】江戸・東京の川と水辺の事典 鈴木理生 編著 柏書房

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●公式の開業日は5月1日で、当初は小名木川の深川扇橋から、思川の生井に至る航路でしたが、早くも8月21日には、表にも記載されている生良・乙女まで延長されています。
タイトルに「改正表」とあるのは、この表が航路延長にともなって、従来の内容を改定したものであることを示しているのでしょう。「明治十年 月」と、発行月が空欄になっているのも、開業がまだ決まっていない延長に先立って、作成・配布されたものと考えれば納得がいきますね。

●郵便御用 川蒸氣通運丸賃金改正表
寸法275㎜×404㎜、明治10年発行。
●川汽船航路の料金の特徴は、鉄道と違い上りと下りが同額でなく、結構な差がついていることがまず挙げられます。東京~古川間でくらべてみると、下りが50銭なのに、上りが35銭と3割引きの額になっています。区間によって割引額は異なりますが、東京へ向かう便は総じて安く設定されているのがわかりますね。
何とはなしに「上り、下り」と書いてしまいましたが、川の流れからすれば全く逆で、東京を離れる便は江戸川・利根川の流れに抗して遡上し、東京に向かう便は流れに乗って下航するわけで、当然消費される燃料にも、大きく差がつくための料金設定と思って間違いありません。なお「乗船人御心得」にも載っているように、子供は4歳まで無料、12歳以下は半額で、上等船室は料金表にある額の5割増しでした。
●ちなみに5月1日、開業当初の通運丸は第1号・第2号の2隻で、6月1日よりさらに1隻が追加されたとのこと。明治10年中には第6号までの通運丸が就航していますから、生良・乙女延長時点で、少なくとも3隻以上の通運丸が活躍していたことになります。
開業当初は隔日1往復だった便数も、生良・乙女延長時には隻数の増加により、起終点を同時出港する毎日1往復に増便され、この表にはありませんが、明治10年中には荒川の戸田、利根川の木下と、他の河川にも次々に航路を伸ばしてゆきます。浚渫による航路整備など、入念な準備を経たこともあるでしょうが、まさに満を持した登場といっても、いい過ぎではない勢いが感じられたものです。

●古河渡舩塲(油治商店發行)
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。
●「賃金改正表」が発行された、時代や寄港地がしのべるような絵葉書を、手持ちの中から2点選んでみました。1枚目は最初期からの寄港地である、渡良瀬川は古河を写したもの。以前講演させていただいた折にスライド上映したり、他所のプレゼン資料にお貸ししたこともあるので、ご覧になった方もおられるかと思います。
外輪カバーの号数が判読できないのが惜しいですが、文字数が4文字――例えば「第三十二」のような――に見えるので、とすれば第二十一号通運丸の就航後、明治16年以降の撮影と思われます。岸は近いものの桟橋は見当たらず、艀を横付けしての荷役中。汽船が横付けできる規模の桟橋を備えた寄港地は少なく、艀を用いて荷客を扱うのが普通でした。

●キャプションなし(裏面に『宮戸川通船之景』の書き込みあり)
寸法58×90㎜。密着焼写真を台紙に貼ったもの。明治時代、撮影年不詳。
●これは絵葉書でなく写真ですが、体裁から見ても手持ちの中では最古級と思われます。何より嬉しかったのが、ブレていはいても号数が判読できたこと! 第七号通運丸! 初代が明治11年7月、2代目が明治13年8月に就航。2代目の諸元は全長74尺(22.4m)、幅10尺(3.03m)、公称16馬力、速力約3kt。写真からどちらかは判別しかねますが、もし短命に終わった初代だったら、極めて貴重な写真になるでしょう。
宮戸川(みやどがわ)は落語のお題でも知られるように、浅草・駒形附近の隅田川を指す名前。背景に写り込んだ家並を見ても、なるほど街場らしい商家がぎっしりと甍を連ね、水際に詰まれた石垣も密で、いかにも浅草といった雰囲気です。通運丸に目を移せば、船首の旗竿にはためく内国通運の旗、白く砕ける船首波や、水しぶきを盛大に散らせる外輪と、勇壮な航走ぶりを見事にとらえているのが魅力的ですね。撮影地が浅草あたりとすれば、戸田通いの荒川航路でしょうか。
●珍しく思ったのは、甲板レベルに下端を揃えた窓の配置です。窓がこの高さにあるということは、船室の床面は入口よりだいぶ低く取ってあるとみてよいでしょう。外輪の通運丸でこのタイプを見たのは初めてです。この点と、外輪カバーの書体やレイアウトから、絵葉書でよく見てきた他の川蒸気にはない古様(?)を感じたのでした。初代だといいなあ。
●明治一桁から利根川丸ほか、小船社による川蒸気船はすでに登場していたものの、舟航隻数と航路規模から見れば、関東の川蒸気時代を現出したのは通運丸船隊に他なりません。その黎明ともいえる時期の「賃金表」を前に、和紙の感触や木版らしい刷りの雰囲気を愛でながら、ひととき想いを馳せたことではありました。
参考文献
図説・川の上の近代 ―通運丸と関東の川蒸気船交通史― 川蒸気合同展実行委員会 編
【図説】江戸・東京の川と水辺の事典 鈴木理生 編著 柏書房

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