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新潟の川蒸気ふたたび

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久しぶりに、新潟の川蒸気たちの姿を愛でて楽しもうと、絵葉書のアルバムを繰って選んだ8点をご覧に入れます。

新潟の川蒸気史覚え書き」をアップした8年前とくらべて、ブログサービスのアップロード容量もずいぶん余裕ができたこともあり、うち2点を前回の再録とし、いずれもサイズを大きく、より堪能できる解像度とさせていただきました。

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タグ : 信濃川 川蒸気船 絵葉書・古写真

淀川の川蒸気を眺めて

248010.jpg古代から舟運路として利用され、江戸時代は近代にいたるまで活躍した三十石舟、過書船でも知られるなど、京、大阪を控えていただけに、早くからひらけていた淀川航路。

川蒸気も関東に先んじて就航しており、大いに興味をそそられるところではあります。乏しい手持ちの中から、川蒸気たちの活躍ぶりをしのべるような絵葉書と錦絵、7点を選んでみました。
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タグ : 川蒸気船 淀川 東横堀川 毛馬閘門 閘門 絵葉書・古写真

上川丸の絵葉書が!

229102.jpg河川舟運近代化の尖兵として、国内に川蒸気船があまたあった中で、唯一レプリカが製作・展示されている北海道は江別の「上川丸」。

多数の川蒸気が就航していた利根川・淀川水系ならともかく、石狩川流域のそれはほんの数隻。確率からいっても、絵葉書があることすら期待できまい、と思っていました。ところが‥‥。
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タグ : 川蒸気船 上川丸 石狩川 絵葉書・古写真

外輪曳船のこと

外輪蒸気曳船の絵葉書を2枚、ご覧に入れます。同じ川や湖沼を活躍の場とした蒸気船とはいえ、華のある通運丸や銚子丸にくらべて人目につきづらかったせいか、写真・資料とも数が少ないようで、なかなかご縁に恵まれていません。

近代に入ってからも、河川舟運による関東近県から東京への移入量は莫大なものがあり、それを担ったのは高瀬舟ほかの荷舟群と、彼らを曳いてスピードアップに貢献した蒸気曳船こそ、川の物流の主役であったはずです。
曳船というと港内で活躍した大型のそれや、一銭蒸気に代表される客用艀を曳くもののように、暗車(スクリュー)船がまず思い浮かぶ中、カサ高な外輪を備えた「川の曳船」が少なからず存在していたことに、川蒸気好きとしては興味が注がれるのであります。

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(渡良瀬川改修工事)古河地先新川浚渫工事(曳船土運搬)
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


ほんの小さく写った、しかも不鮮明な写真ながら、これを初見したときは「外輪曳船だ!」と声を上げたものでした。黒くつぶれて判然としませんが、曳索の先に艀か何かを曳いています。キャプションの通り浚渫工事を主題としたものですから、左に見えるバケット式浚渫船にカメラを向けていたら、曳船が視界に入ってきた、といったところでしょうか。

絵葉書からは撮影年代を確定するよすががないものの、「渡良瀬川改修工事」で検索したところ、土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブスにある「渡良瀬川改修工事概要」がヒット。明治43年の大洪水に端を発し、利根川一帯に大規模な河川改修がなされたことはよく知られていますが、その一環として渡良瀬川周辺でも大正12年まで行われた、改修工事の一幕を写したものとみてよさそうです。ご参考まで。

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2隻の部分を拡大したもの。外輪カバーの張り出した様子から、客船と違い外輪が幅広なのが見てとれ、曳船らしい力強さを感じさせます。操舵室は一段高めてあり、後方への見通しも確保してあるつくりのようですね。

後甲板にはオーニングが張られており、その下に立っている人の姿も見えます。操舵室の上に黒く横に伸びたものがありますが、これも折りたたんだオーニングなのかもしれません。太く高い煙突にも、客船より強力な機関出力を感じたものです。何分遠景なので得られる情報は限られましたが、絵葉書では初めて見た外輪曳船だったので、大いに興奮させられたものでした。

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常陸 霞ケ浦ノ風景(佐原木内樓旅館蔵版)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


こちらは一枚目のずいぶん後に出会ったもの。ディテールはくらべものにならないほど鮮明で、まあ、小躍りしたものです。最初、「バケット式浚渫装置を備えた川蒸気かな?」と首をかしげたのですが、よく見たらすぐ後ろに浚渫船がいて、重なって写っていただけでした。

全体を捉えててこそいないものの、濛々と噴き上がる煙が躍動感をいや増して、蒸気船の魅力にあふれた、実にいいショットですね。霞ケ浦ということですが、後ろには産物を満載した艀を何隻も曳いて、土浦を発し長躯、東京に向かうところかしら、などと想像させるものがあります。

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曳船をグッと拡大。まず外輪が挙げる力強い水しぶき、カバーの厚みに目を奪われます。煙突先端の火の粉留め、カバー側面の抜き装飾や、2本下がったフェンダーまで看取できるほどなだけに、船名が読み取れないのが惜しいですね。

カバー船首側壁面は、一見舷側から直角に伸びているように思えますが、影のつき方や舷縁の様子から、前後とも斜めになっていることがわかりました。船首は一枚目の曳船同様、曲線を描いたいわゆる「スプーン・バウ」となっているのが気になります。造船所が同じだったのか、または外輪曳船に適した船形ということで採用されたのでしょうか。

利根川水系の曳船について言及した書籍で思い出されるのは、まず「通運丸と黒田船長―消えた蒸気船とそのころ―」(佐賀純一著・筑波書林・昭和55年)でしょう。

大正から昭和初期までを通運丸の船長として過ごした、黒田留吉氏の談話集を中心にまとめられたものですが、黒田氏が川船乗りとしての第一歩を踏み出したのが、客船でなく川曳船。高瀬舟を艀として曳くシーンなど、当時の曳船業の様子が描写されています。「日本木船図集」から転載したとおぼしき、外輪曳船の図面も掲載されており、この一冊から川曳船への興味が始まったといってよいものです。

また「利根川高瀬船」(渡辺貢二著・崙書房・平成2年)には、もと船頭の談話の中に、川曳船を指す「曳きボート」という言葉がたびたび出てきました。「黒田船長」の本文中でも指摘されていますが、川汽船の登場によって従来の和船がいきなり衰微に向かったのではなく、適宜曳船を頼ることによって、むしろ運航が効率化し、共存共栄の関係にあったことが見てとれるわけです。

帆柱を横たえた高瀬舟を4隻、5隻と曳いて、黒煙濛々、幅広なパドルの水音も頼もしく利根川筋を上下した外輪曳船たち! 近代の河川物流を担ったこのフネブネの姿を、もっともっと見てみたいものです。

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タグ : 川蒸気船 曳船 渡良瀬川 霞ケ浦 絵葉書・古写真

消えたマイタゲート閘門、二題

すでに撤去されて久しい、マイタゲートの閘門を写した絵葉書を2枚ご紹介します。いずれも竣工間もないころの撮影と思われるものです。

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ROCKENYA-LOCK AT NEZUMIJIMA
裏面に「大阪若林獨立軒製版印刷」の記載あり。
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


新淀川開鑿を主とした淀川改修工事の一環として、中洲である鼠島に明治43年竣工した、六軒屋閘門を写したものです。扉室両岸に洋装の人物が多く集まっているところを見ると、竣工からさほど日が経っていないときに行われた、記念撮影のように思えます。

「運河と閘門」によると、最小幅10.91m、有効長89.08mで、大正12年に六軒屋第二閘門が併設されたため、以後は六軒屋第一閘門と呼ばれるようになりました。用途廃止は昭和25年3月だそうで、鼠島とともに現在は埋め立てられて面影はなく、「六軒屋閘門」(北摂の街道・道標)によれば、記念碑が立つのみとのこと。

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扉室をアップでトリミングしてみましょう。ゲートの様子からして、開いている手前は後扉室(低水位側)で、六軒屋川の上から写した写真ということになります。閘室の岸は、土のままか、何らかの護岸を施してあるのかはわかりませんが、法面ですね。すでに多数の舟が入閘し、注水を待っているのがうかがえます。

六軒屋閘門の消長については、「ある小さな島(鼠島)の生涯 その6」(なにわ ふくしま資料館)に詳しくまとめられており、私ごときがつけ加えることはありません。ぜひご覧いただきたいのですが、それとは別に、今回大いに驚かされたことが一つ。

絵葉書に書かれた版元名「若林獨立軒」で検索したところ‥‥、「若林鍼灸院のブログ『獨立軒雑記帳』」がヒット。これがナント、獨立軒のご子孫の方のブログなのでした!

業種こそ創業時と違うとはいえ、つい最近まで同じ屋号を名乗って営業されており、しかもご先祖の業績を顕彰されている! 素晴らしいことではないでしょうか。船頭もかくありたいと深く感銘を受けたのでありました。

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志木町商工會(伊呂波橋)横内辰男撮影
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


右上の写真、3径間の水門に併設されたマイタゲート閘門は、宗岡閘門。新河岸川にもかつて閘門があったことは、「川越舟運」(斎藤貞夫著:昭和57年6月初版・さきたま出版会)を読んで知り、非常に短命だったこともあって、以前から気になる存在でした。

10年前、「新河岸川再訪…4」でも少し触れましたが、直線河道化にともない、長きに渡り「川越夜船」でその名を知られた通船を、昭和6年に禁じられた新河岸川。この宗岡閘門が竣功したのは、驚くなかれ昭和4年! 通船禁止後もしばらくは通航が続いたであろうとはいえ、「悲劇の閘門」と呼んでも、決して大げさではないでしょう。

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宗岡閘門、直線河道化により水深が保てなくなった宗岡村(現志木市)から上流を、堰上げと閘門によって舟航を維持する目的で建造され、工事の労働者には近隣の農民はもとより、失業した船頭たちも参加したとのことです。

ふたたび「運河と閘門」から諸元を引くと、閘頭部幅6.0m、全長37.1m、ゲート間25.76m、扉体は鋼製。躯体は用途廃止後も長らく残っていたようで、昭和53年より閘門部分撤去開始との記述も。ウェブ上では、「新河岸川を歩こう! 6日目 柳瀬川合流点から南畑橋まで」(ハイフィネス・ジャパン株式会社)に、現地の説明板とおぼしき写真が掲載されていますが、それによれば昭和55年に撤去とありました。

写真を目にしてまず違和感があったのは、水門の堰上げの低さにくらべて、閘門がやけに高く造ってあること。素人目には、いずれは堤防や護岸を嵩上げできたら、水門も閘門に合わせて高める計画でもあったのかな、と勘繰ってしまったほど。まあ、このレベルの堰上げで、通船できる水深には十分ということなのでしょうが、それにしても閘門の高さは気になります。

通船禁止を間近にしての建造といい、首をひねらざるを得ないものがありますが、短命であったがゆえに希少な竣工直後の写真に出会えたことは、閘門好きとして嬉しいことには違いありません。このあたり、新たな史料の発見やご教示に待つところ、大なるものがあります。

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タグ : 絵葉書・古写真 閘門 六軒屋閘門 宗岡閘門 六軒屋川 新河岸川