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閘門の写真3題

荒川、江戸川流域の閘門を写した、昔の絵葉書3枚をご覧いただきましょう。いずれも鮮明さという点ではいま一つの感がありますが、絵葉書の題材として選ばれただけあって、視点、撮影時期ともに惹かれるものがあります。

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大東京(江戸川區) 小岩町善養寺 星降りの松(天然記念物) 上、葛西中川の水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


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戦前の水門絵葉書2題

しばらくぶりに、昔の絵葉書の話題とまいりましょう。奇しくも、ここに掲げた2つのゲートは廃止された後も撤去されず、記念物として現存しています。

昭和戦前から前の写真絵葉書で、ローラーゲートやスライドゲートのように、扉体が堰柱の間を上下するタイプの水門を題材にしたものは、あまり入手できていません。こういうタイプがそもそも少なかった時代ということもありますが、堰のような大規模な施設にくらべると、地味な存在でいわゆる写真映えがせず、絵葉書の題材としていま一つと見られたのでしょうか。単にご縁がないだけかもしれませんが。

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新釧路川取入口岩保木水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


装飾のない、この時代としては現代的な風貌の2径間ゲート。Wikipedia「岩保木水門」によると、岩保木は「いわぼっき」と読み、昭和6(1931)年8月の竣工。釧路湿原の端部に位置する、新旧の河道の境界に設けられた水門設備なのだそう。

写真を観察すると、堰柱手前側面に鉄筋が突き出しているなど、竣工間近ながら残工事もあることがうかがえますね。巻上機周りはむき出しで、人力操作のクランクが目を引きますが、これは上屋が未施工だったためで、ウェブ上に発表された現状の写真には、木造の巻上機室が見られます。

正確な各部の寸法やゲート型式など、諸元については資料がないので残念ながらわかりませんが、木造巻上機室の造作が魅力的だからでしょう、地元の方々からも近代遺構として愛されているように見受けられました。

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名古屋港第八號地貯木塲ニ設置セル閘門ノ光景
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


チョコンと載っかった小屋のような巻上機室に、角のように突き出すラック、そのラックも扉体とイコライザー様の金具で結合されているという、強烈かつ変わり種の外観に一目ぼれして、もう反射的に購入したもの。

右上に営業所、出張所の案内があることから、このゲートを建造したメーカーの宣伝物であることは察しがついたものの、社名が入っていないのは「?」という感想でした。しかし、上中央に八号地貯木場の表記はあったので、そういえば記事があったな‥‥と本棚から「運河と閘門」を取り出してひも解いてみると、ありました。「船見閘門」という項目です。

「運河と閘門」の記事によると、ストーニーゲート、径間7m、閘室長約61m、閘室幅約16m、昭和2(1927)年竣工。

ゲート配置は点対称とあるので、同じ名古屋港にある「飛島木場の閘門…5」で紹介したものと、同様の仕様で造られた閘室なのでしょう。八号地貯木場は昭和43(1968)年廃止、貯木場西側と北側に2基あった閘門のうち、西側の八号地第一閘門のゲート1基のみが保存されたそう。

絵葉書のものが、第一・第二閘門どちらかは判別できません。しかしGoogleストリートビューで現存の第一閘門ゲートの片割れを東側から見たかぎりでは、銘板や梁の形状、側面のはしごや堰柱など構造も寸分の違いがないように思えます。

まあ、すべてのゲートが全く同じ形という可能性もあり、確かなことは申せませんが、もし現存のゲートであれば、貯木場側から撮ったものということになるでしょう。

さて、表面に記載がなく気になるメーカー名です。梁の正面に掲げられた、アーチ状に抜いた瀟洒な銘板を拡大してみると、どうやら「山本工務所」と読めるように思えました。山本工務所なら、「名古屋港跳上橋」(Wikipedia)に代表される可動橋の第一人者、山本卯太郎が立ち上げたメーカーで間違いありません。

船見閘門」(名古屋市)にも、設計は「名古屋港跳上橋と同じ山本卯太郎」とあり、有名な技術者の手によるゲート設備であることが、保存に力あったことをうかがわせるものがありました。

Wikipedia「山本卯太郎」を読んでいたら、昭和4年5月、山本工務所の本社機能を、本宅の東京芝公園から大阪の此花区春日出町に移した、とありました。とすると、この絵葉書はその告知とともに、施工した水門設備の宣伝も兼ねて配布したものかもしれません。

堰柱右側基部に立つ、背広にカンカン帽の人物は、もしかしたら山本卯太郎本人なのかも‥‥。閘門とともにある「可動橋王」! 容貌魁偉(?)なゲートに惹かれて入手した一枚の写真から、楽しい妄想が広がってゆくのでありました。


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川蒸気船の絵葉書5題

267006_9.jpg久方ぶりに通運丸、銚子丸の絵葉書を愛でて悦に入りたくなり、手元にある古い絵葉書や写真から、5点を選んでみました。

何分風景の一部として撮られたものが多いため、史料としてはいま一つと思われますが、水運時代の雰囲気を味わうよすがとしては、自分の目から見ても大いに堪能させるレベルではあります。しばしお付き合いいただければ幸いです。

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花畑運河の絵葉書

(『令和2年度川走り納め…7』のつづき)

花畑運河の回が終わったばかりで、タイミングが悪くて恐縮です。花畑運河の竣工は昭和6年とされていますが、その竣工間もないころを写したと思しき、写真の絵葉書を入手できたので、ここで紹介させていただきましょう。過去にウェブや書籍で、花畑運河現役時の写真は何度か目にしていますが、絵葉書はこれが初めてです。

開けた風景の中、歪みなくパース画のように伸びる、いかにも新開鑿といった雰囲気は、こうして眺めているだけでも実に清々しいものがあります。「混凝土(コンクリート)張護岸」のタイトルが示すとおり、護岸の施工状況の記録が、主題になった写真という意味でも珍しいですね。

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花畑運河混凝土張護岸
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


花畑運河が竣工した昭和初期、東京の都心部など街場の運河ならともかく、田園地帯を横切る郊外の運河の、しかも全区間にコンクリート法面を施したというのは、絵葉書の題材になりうるインパクトがあったということなのでしょう。

法面は見たかぎり、途中で勾配を変えており、天端には縁石様のブロックを並べた構造のようです。先ほど通航時の写真と見比べて気づかされたのですが、竣工時の護岸、傷みみながらも現存していますね。もちろん今はこの上に、後付けの護岸や鋼矢板の堤防が積み増されていますが。

ちなみに運河開鑿と並行して、両岸に接する一帯は道路とともに碁盤目に区画整理され、工場用地として整備されたとのこと。写真からはその様子はうかがい知れませんが、家並みも乏しいフラットな風景に、新開地らしさが感じられます。

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さて、気になるのは、この写真がどこを写したものかということ。RC橋らしき橋の架かった、マイタゲートであろう水門の径間が見えるので、現在の六ツ木水門か花畑水門のどちらかで、しかも橋の上から撮ったもの、ということになります。

堤防道の高さが割とあり、同様に橋の桁下高も高いこと、また写真では少なくとも、橋が斜に架かっていないように見えることから、「花畑水門かな?」と見当をつけたのですが、やはり裏を取りたいもの。手掛かりになりそうなものがもう一つあるとすれば、対岸にこんもりと茂っている木立かな‥‥。

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困ったときの国土変遷アーカイブ・地図・空中写真閲覧サービスということで、国土地理院のお力にすがって検索。竣工時にできるだけ近い時代、しかも鮮明なものをと物色したら、ありました。「USA-M676-135」(昭和22年11月28日・米軍撮影)、上はそのキャプチャ画像です。

対岸の集落に木立が見えるのは綾瀬川で、中川にはそれがないことがこの写真からもわかります。堤防道や橋の高さ、河道に対する道の角度と併せて考えても、花畑水門と月見橋を、雪見橋から見た写真で間違いなさそうです。

物流の大動脈として開鑿が待望され、舟航が輻輳を極めようとしていた時代の花畑運河の姿。その清新な水路の息吹きを再訪から間もなく垣間見る機会に恵まれて、嬉しいことではありました。

【参考文献】
帝都地形図 第2集 之潮

(『令和2年度川走り納め…8』につづく)

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タグ : 花畑運河絵葉書・古写真

大河津の絵葉書

(『雨の大河津にて…2』のつづき)

お次は洗堰と閘門を訪ねた話を‥‥と思っていたのですが、消え失せてしまった旧洗堰併設の初代閘門の絵葉書を、一枚なりともブログ上に掲げて姿を留めておきたいものだと、古絵葉書のアルバムを繰りはじめたところ‥‥う~ん、楽しい(笑)。

そんなわけで、他にも竣工当初を偲ばせ、また興趣をそそるものが出てきたこともあり、一枚で済ますのが惜しくなってきたのです。大河津を訪ねたばかりの興奮冷めやらぬタイムリーさにも背中を押され、5枚を選んで悦に入ることにしました。

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(信濃川分水工事)竣功シタル大河津閘門
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


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内務省新潟土木出張所工事状況 五千石閘門
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。
(年賀葉書として使用、通信欄に『大正七年正月』のゴム印あり。『新潟靑木製』の銘)


一枚目が一応の竣工を迎えた初代閘門、二枚目が工事中の姿で、建物の様子から見て、どちらもほぼ同じ位置から撮ったもののようです。大河津の諸施設の竣工は公式には大正11年ですが、閘門はそれより数年早く、通船はしないまでも、外観が整うレベルの工事を終えていたのでしょうか。

ご覧のとおりマイタゲート、閘室両岸は石組みの法面という構成で、大河津資料館のサイトによると、閘室長60.6m、幅員(径間?)10.9mで大正14年の竣工。昭和46年に、ローラーゲートの二代目閘門が完成していますから、恐らくその時点をもって引退したのでしょう。

何より気になったのが、二枚目のキャプションに「五千石閘門」という名前が出てきたこと。手元に何枚かあるこの閘門を写した絵葉書のうち、「五千石」なる名称が記されたのはこの一枚のみで、入手した当時は「えっ、そういう名前だったの?」と驚かされたものでした。

地図を見てみたら、今の大河津分水さくら公園から北、分水東岸に沿った広大なエリアの地名が「五千石」なのですね。この閘門が正式にそう名付けられたかは確認していませんが、いかにも穀倉地帯といった豪気さがあって、よく似合うじゃないですか。


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(信濃川分水工事)第一洗堰
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


こちらは旧洗堰の工事中の様子をとらえた着色写真。「鋼製ゲート百選」(技報堂出版)によると、一つの径間は4.15m、当初は高さ2m余の扉体と角落しで越流させていたのが、改修を経て扉高3.1mのローラーゲートとなり、下端から放流するタイプに変わったとのこと。保存されているのは、この最終状態のゲートですね。27径間が並ぶ圧倒的な光景は、築造当初からさぞ耳目を集めたことでしょう。

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(大河津分水)自在堰全景
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


昭和2年6月に洗堀で陥没した、初代の自在堰の姿。堰柱天端に建てられた、ごつい送電鉄塔群の方が目立つ外観は、昨今のゲートを見慣れた目には珍しく映りますね。河岸沿いに、当時の堰柱の一つが遺構として現存しているそうです。ベア・トラップ式ゲートの構造については、大河津資料館のサイトに図説されています。

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飛行機上ヨリ見タル舊分水自在堰地蔵堂町及近村全景(地蔵堂商工會發行)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
(切手欄に『NIIGATA AOKI PRINTING CO.』の銘あり)


最後に、大河津一帯を収めた航空写真の絵葉書を紹介しましょう。キャプションにある地蔵堂は、JR越後線分水駅近くに今も残る地名ですが、この当時に航空写真の絵葉書を作るほど、商工会に威勢があったことを感じさせます。

中央やや左から分水の自在堰、その右下に洗堰、そのさらに下には初代閘門と、分水竣工間もなくの諸施設の位置関係が見て取れます。閘門のすぐ下、「舊分水自在堰」という書き方からすると、この絵葉書は自在堰が壊れた、昭和2年6月以降の発行かもしれません。

【追記】
アップしたのをすっかり忘れていました‥‥。「アルス『河川工学』に涙する」で紹介した「閘門主要寸法」によると、大河津の初代閘門は扉室幅10.9m、閘室長60m、有効長72mと、資料館のサイトと微妙に異なる数字。その他の寸法もリンク先の記事に表がアップしてあります。

(『雨の大河津にて…3』につづく)

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タグ : 信濃川大河津分水五千石閘門閘門絵葉書・古写真