水郷観光の華をしのんで
●久しぶりに水郷のお話とまいりましょう。過去にもたびたび触れてきましたが、下利根・霞ケ浦・北浦一帯に覇を唱え、関東の内水汽船時代に最後の輝きを見せた船社、水郷汽船。その花形として知られた2隻の鋼製ディーゼル船、「さつき丸」「あやめ丸」の姿に惹かれて入手したリーフレットと絵葉書、二葉を紹介させていただきます。

●水郷めぐり
190㎜×263㎜ 「昭和拾貮年九月八日」の印あり。裏面絵柄なし。
●4色の版を使った贅沢な水郷観光案内。その目に沁みるような鮮やかな色使いもさることながら、枠の赤版に白抜きで路線や名勝を配し、緑版では菖蒲をと、実に細やかな気配りを見せるデザインに、水郷観光の意気盛んな息吹が感じられて、よいものですね。
「さつき丸」の写真に目を移すと、光線の角度はバッチリ、わずかな追い風を受けているのか、マストトップに掲げられた社旗らしき旗が船首側にはためいて、最上甲板にも真新しい天幕がフルオーニング状態と、プロによるオフィシャルフォトであることがうかがえます。原版があれば、数ある「さつき丸」を写したものの中でも、最高クラスの仕上がりといって間違いはないでしょう。
●この手の印刷物は絵葉書同様、発行年代が漠然としか推測できないものですが、一見しただけで二つの材料が明示されていて、その点は大いに助かりました。
まず右下に天地逆ながら、「昭和拾貮年九月八日」の印が見えますね。これは発行日というより、配布された日を示すのでしょうか。もう一つは、本文左手「さつき丸就航」の文言「陽春四月より」云々の下り。本船の竣工は東京石川島で昭和6年10月とされており、その直近とすれば昭和7年4月より就航、ということになるのでしょうか? とすれば、本紙が発行されたのは昭和7年以降、以後、少なくとも昭和12年までは配布されていた、と見てよいかと思います。
●通運丸船隊などを擁していた東京通運が、鹿島参宮鉄道船舶部ほかを合併、水郷遊覧汽船を設立したのがの昭和6年11月。水郷汽船への改称は昭和7年8月だそうですから、社名変更の決まったころ、「さつき丸」の就航とタイミングを合わせて、気合の入った宣伝物を作り誘致に力こぶを入れた‥‥、といったストーリーが妄想されたものです。
明治初め以来、隻数こそあれスタイルには大きな変化のなかった、川蒸気船隊を主力としてきた水郷一帯の航路に、一足飛びに鋼製ディーゼル主機の大型船を二隻も投入したのですから、気合も入ろうというもの。水郷一帯の内水沿岸を、細々と綾なすように結んでいた実用航路から、観光航路の時代へ大きな変化を遂げつつあった瞬間のエッセンスを凝縮したような、そんな一葉といっていい過ぎではありません。

●水郷の女王 さつき丸 あやめ丸
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。裏面分割線に「水郷汽船株式會社發行」とあり
●もう一つは絵葉書で、「さつき丸」だけでなく「あやめ丸」も併載、新造鋼製ディーゼル船隊が揃い踏み。「水郷の女王」と自称(?)してしまうあたり、自信のほどがうかがえてそそられるものが。それぞれ「船内賣店あり・船室明朗清麗なり」、「船内食堂・賣店・ラヂヲ・其他設備完全・船室明朗清麗・日本間あり」と、設備の宣伝怠りありませんが、「さつき丸」に日本間があったのは興味を惹かれるものがあります。
船内か、あるいは水駅(船着場)で購入時に押印したのか、風景ゴム印が見えますね。こちらも年月日が記されているのはありがたいところ。「8.7.19」とあるので、昭和8年7月19日ということがわかります。
●ちなみに「あやめ丸」は95総t、昭和6年5月と、「さつき丸」(155総t)より少し早めの竣工。この2隻がいわば水郷汽船の看板となって、津宮、銚子ほか下利根各所から横利根川を経て、潮来、鹿島や息栖、土浦と、戦前の水郷観光時代を華やかに彩ったことが想われて、胸の熱くなるものがあります。
水郷汽船に関心を覚えられた向きは、以下の関連過去記事もご覧になってみてください。
・「参宮丸」船隊? の面影を拾う
・東京通運時代の河川航路図二題
・土浦再訪…2
・水郷案内にしのぶ航路とフネブネ
【参考文献】
水郷汽船史 白戸貞夫 羽成裕子 編 筑波書林 昭和59年1月

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●水郷めぐり
190㎜×263㎜ 「昭和拾貮年九月八日」の印あり。裏面絵柄なし。
●4色の版を使った贅沢な水郷観光案内。その目に沁みるような鮮やかな色使いもさることながら、枠の赤版に白抜きで路線や名勝を配し、緑版では菖蒲をと、実に細やかな気配りを見せるデザインに、水郷観光の意気盛んな息吹が感じられて、よいものですね。
「さつき丸」の写真に目を移すと、光線の角度はバッチリ、わずかな追い風を受けているのか、マストトップに掲げられた社旗らしき旗が船首側にはためいて、最上甲板にも真新しい天幕がフルオーニング状態と、プロによるオフィシャルフォトであることがうかがえます。原版があれば、数ある「さつき丸」を写したものの中でも、最高クラスの仕上がりといって間違いはないでしょう。
●この手の印刷物は絵葉書同様、発行年代が漠然としか推測できないものですが、一見しただけで二つの材料が明示されていて、その点は大いに助かりました。
まず右下に天地逆ながら、「昭和拾貮年九月八日」の印が見えますね。これは発行日というより、配布された日を示すのでしょうか。もう一つは、本文左手「さつき丸就航」の文言「陽春四月より」云々の下り。本船の竣工は東京石川島で昭和6年10月とされており、その直近とすれば昭和7年4月より就航、ということになるのでしょうか? とすれば、本紙が発行されたのは昭和7年以降、以後、少なくとも昭和12年までは配布されていた、と見てよいかと思います。
●通運丸船隊などを擁していた東京通運が、鹿島参宮鉄道船舶部ほかを合併、水郷遊覧汽船を設立したのがの昭和6年11月。水郷汽船への改称は昭和7年8月だそうですから、社名変更の決まったころ、「さつき丸」の就航とタイミングを合わせて、気合の入った宣伝物を作り誘致に力こぶを入れた‥‥、といったストーリーが妄想されたものです。
明治初め以来、隻数こそあれスタイルには大きな変化のなかった、川蒸気船隊を主力としてきた水郷一帯の航路に、一足飛びに鋼製ディーゼル主機の大型船を二隻も投入したのですから、気合も入ろうというもの。水郷一帯の内水沿岸を、細々と綾なすように結んでいた実用航路から、観光航路の時代へ大きな変化を遂げつつあった瞬間のエッセンスを凝縮したような、そんな一葉といっていい過ぎではありません。

●水郷の女王 さつき丸 あやめ丸
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。裏面分割線に「水郷汽船株式會社發行」とあり
●もう一つは絵葉書で、「さつき丸」だけでなく「あやめ丸」も併載、新造鋼製ディーゼル船隊が揃い踏み。「水郷の女王」と自称(?)してしまうあたり、自信のほどがうかがえてそそられるものが。それぞれ「船内賣店あり・船室明朗清麗なり」、「船内食堂・賣店・ラヂヲ・其他設備完全・船室明朗清麗・日本間あり」と、設備の宣伝怠りありませんが、「さつき丸」に日本間があったのは興味を惹かれるものがあります。
船内か、あるいは水駅(船着場)で購入時に押印したのか、風景ゴム印が見えますね。こちらも年月日が記されているのはありがたいところ。「8.7.19」とあるので、昭和8年7月19日ということがわかります。
●ちなみに「あやめ丸」は95総t、昭和6年5月と、「さつき丸」(155総t)より少し早めの竣工。この2隻がいわば水郷汽船の看板となって、津宮、銚子ほか下利根各所から横利根川を経て、潮来、鹿島や息栖、土浦と、戦前の水郷観光時代を華やかに彩ったことが想われて、胸の熱くなるものがあります。
水郷汽船に関心を覚えられた向きは、以下の関連過去記事もご覧になってみてください。
・「参宮丸」船隊? の面影を拾う
・東京通運時代の河川航路図二題
・土浦再訪…2
・水郷案内にしのぶ航路とフネブネ
【参考文献】


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外輪曳船のこと
●外輪蒸気曳船の絵葉書を2枚、ご覧に入れます。同じ川や湖沼を活躍の場とした蒸気船とはいえ、華のある通運丸や銚子丸にくらべて人目につきづらかったせいか、写真・資料とも数が少ないようで、なかなかご縁に恵まれていません。
近代に入ってからも、河川舟運による関東近県から東京への移入量は莫大なものがあり、それを担ったのは高瀬舟ほかの荷舟群と、彼らを曳いてスピードアップに貢献した蒸気曳船こそ、川の物流の主役であったはずです。
曳船というと港内で活躍した大型のそれや、一銭蒸気に代表される客用艀を曳くもののように、暗車(スクリュー)船がまず思い浮かぶ中、カサ高な外輪を備えた「川の曳船」が少なからず存在していたことに、川蒸気好きとしては興味が注がれるのであります。

●(渡良瀬川改修工事)古河地先新川浚渫工事(曳船土運搬)
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。
●ほんの小さく写った、しかも不鮮明な写真ながら、これを初見したときは「外輪曳船だ!」と声を上げたものでした。黒くつぶれて判然としませんが、曳索の先に艀か何かを曳いています。キャプションの通り浚渫工事を主題としたものですから、左に見えるバケット式浚渫船にカメラを向けていたら、曳船が視界に入ってきた、といったところでしょうか。
絵葉書からは撮影年代を確定するよすががないものの、「渡良瀬川改修工事」で検索したところ、土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブスにある「渡良瀬川改修工事概要」がヒット。明治43年の大洪水に端を発し、利根川一帯に大規模な河川改修がなされたことはよく知られていますが、その一環として渡良瀬川周辺でも大正12年まで行われた、改修工事の一幕を写したものとみてよさそうです。ご参考まで。

●2隻の部分を拡大したもの。外輪カバーの張り出した様子から、客船と違い外輪が幅広なのが見てとれ、曳船らしい力強さを感じさせます。操舵室は一段高めてあり、後方への見通しも確保してあるつくりのようですね。
後甲板にはオーニングが張られており、その下に立っている人の姿も見えます。操舵室の上に黒く横に伸びたものがありますが、これも折りたたんだオーニングなのかもしれません。太く高い煙突にも、客船より強力な機関出力を感じたものです。何分遠景なので得られる情報は限られましたが、絵葉書では初めて見た外輪曳船だったので、大いに興奮させられたものでした。

●常陸 霞ケ浦ノ風景(佐原木内樓旅館蔵版)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらは一枚目のずいぶん後に出会ったもの。ディテールはくらべものにならないほど鮮明で、まあ、小躍りしたものです。最初、「バケット式浚渫装置を備えた川蒸気かな?」と首をかしげたのですが、よく見たらすぐ後ろに浚渫船がいて、重なって写っていただけでした。
全体を捉えててこそいないものの、濛々と噴き上がる煙が躍動感をいや増して、蒸気船の魅力にあふれた、実にいいショットですね。霞ケ浦ということですが、後ろには産物を満載した艀を何隻も曳いて、土浦を発し長躯、東京に向かうところかしら、などと想像させるものがあります。

●曳船をグッと拡大。まず外輪が挙げる力強い水しぶき、カバーの厚みに目を奪われます。煙突先端の火の粉留め、カバー側面の抜き装飾や、2本下がったフェンダーまで看取できるほどなだけに、船名が読み取れないのが惜しいですね。
カバー船首側壁面は、一見舷側から直角に伸びているように思えますが、影のつき方や舷縁の様子から、前後とも斜めになっていることがわかりました。船首は一枚目の曳船同様、曲線を描いたいわゆる「スプーン・バウ」となっているのが気になります。造船所が同じだったのか、または外輪曳船に適した船形ということで採用されたのでしょうか。
●利根川水系の曳船について言及した書籍で思い出されるのは、まず「通運丸と黒田船長―消えた蒸気船とそのころ―」(佐賀純一著・筑波書林・昭和55年)でしょう。
大正から昭和初期までを通運丸の船長として過ごした、黒田留吉氏の談話集を中心にまとめられたものですが、黒田氏が川船乗りとしての第一歩を踏み出したのが、客船でなく川曳船。高瀬舟を艀として曳くシーンなど、当時の曳船業の様子が描写されています。「日本木船図集」から転載したとおぼしき、外輪曳船の図面も掲載されており、この一冊から川曳船への興味が始まったといってよいものです。
●また「利根川高瀬船」(渡辺貢二著・崙書房・平成2年)には、もと船頭の談話の中に、川曳船を指す「曳きボート」という言葉がたびたび出てきました。「黒田船長」の本文中でも指摘されていますが、川汽船の登場によって従来の和船がいきなり衰微に向かったのではなく、適宜曳船を頼ることによって、むしろ運航が効率化し、共存共栄の関係にあったことが見てとれるわけです。
帆柱を横たえた高瀬舟を4隻、5隻と曳いて、黒煙濛々、幅広なパドルの水音も頼もしく利根川筋を上下した外輪曳船たち! 近代の河川物流を担ったこのフネブネの姿を、もっともっと見てみたいものです。

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近代に入ってからも、河川舟運による関東近県から東京への移入量は莫大なものがあり、それを担ったのは高瀬舟ほかの荷舟群と、彼らを曳いてスピードアップに貢献した蒸気曳船こそ、川の物流の主役であったはずです。
曳船というと港内で活躍した大型のそれや、一銭蒸気に代表される客用艀を曳くもののように、暗車(スクリュー)船がまず思い浮かぶ中、カサ高な外輪を備えた「川の曳船」が少なからず存在していたことに、川蒸気好きとしては興味が注がれるのであります。

●(渡良瀬川改修工事)古河地先新川浚渫工事(曳船土運搬)
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。
●ほんの小さく写った、しかも不鮮明な写真ながら、これを初見したときは「外輪曳船だ!」と声を上げたものでした。黒くつぶれて判然としませんが、曳索の先に艀か何かを曳いています。キャプションの通り浚渫工事を主題としたものですから、左に見えるバケット式浚渫船にカメラを向けていたら、曳船が視界に入ってきた、といったところでしょうか。
絵葉書からは撮影年代を確定するよすががないものの、「渡良瀬川改修工事」で検索したところ、土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブスにある「渡良瀬川改修工事概要」がヒット。明治43年の大洪水に端を発し、利根川一帯に大規模な河川改修がなされたことはよく知られていますが、その一環として渡良瀬川周辺でも大正12年まで行われた、改修工事の一幕を写したものとみてよさそうです。ご参考まで。

●2隻の部分を拡大したもの。外輪カバーの張り出した様子から、客船と違い外輪が幅広なのが見てとれ、曳船らしい力強さを感じさせます。操舵室は一段高めてあり、後方への見通しも確保してあるつくりのようですね。
後甲板にはオーニングが張られており、その下に立っている人の姿も見えます。操舵室の上に黒く横に伸びたものがありますが、これも折りたたんだオーニングなのかもしれません。太く高い煙突にも、客船より強力な機関出力を感じたものです。何分遠景なので得られる情報は限られましたが、絵葉書では初めて見た外輪曳船だったので、大いに興奮させられたものでした。

●常陸 霞ケ浦ノ風景(佐原木内樓旅館蔵版)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらは一枚目のずいぶん後に出会ったもの。ディテールはくらべものにならないほど鮮明で、まあ、小躍りしたものです。最初、「バケット式浚渫装置を備えた川蒸気かな?」と首をかしげたのですが、よく見たらすぐ後ろに浚渫船がいて、重なって写っていただけでした。
全体を捉えててこそいないものの、濛々と噴き上がる煙が躍動感をいや増して、蒸気船の魅力にあふれた、実にいいショットですね。霞ケ浦ということですが、後ろには産物を満載した艀を何隻も曳いて、土浦を発し長躯、東京に向かうところかしら、などと想像させるものがあります。

●曳船をグッと拡大。まず外輪が挙げる力強い水しぶき、カバーの厚みに目を奪われます。煙突先端の火の粉留め、カバー側面の抜き装飾や、2本下がったフェンダーまで看取できるほどなだけに、船名が読み取れないのが惜しいですね。
カバー船首側壁面は、一見舷側から直角に伸びているように思えますが、影のつき方や舷縁の様子から、前後とも斜めになっていることがわかりました。船首は一枚目の曳船同様、曲線を描いたいわゆる「スプーン・バウ」となっているのが気になります。造船所が同じだったのか、または外輪曳船に適した船形ということで採用されたのでしょうか。
●利根川水系の曳船について言及した書籍で思い出されるのは、まず「通運丸と黒田船長―消えた蒸気船とそのころ―」(佐賀純一著・筑波書林・昭和55年)でしょう。
大正から昭和初期までを通運丸の船長として過ごした、黒田留吉氏の談話集を中心にまとめられたものですが、黒田氏が川船乗りとしての第一歩を踏み出したのが、客船でなく川曳船。高瀬舟を艀として曳くシーンなど、当時の曳船業の様子が描写されています。「日本木船図集」から転載したとおぼしき、外輪曳船の図面も掲載されており、この一冊から川曳船への興味が始まったといってよいものです。
●また「利根川高瀬船」(渡辺貢二著・崙書房・平成2年)には、もと船頭の談話の中に、川曳船を指す「曳きボート」という言葉がたびたび出てきました。「黒田船長」の本文中でも指摘されていますが、川汽船の登場によって従来の和船がいきなり衰微に向かったのではなく、適宜曳船を頼ることによって、むしろ運航が効率化し、共存共栄の関係にあったことが見てとれるわけです。
帆柱を横たえた高瀬舟を4隻、5隻と曳いて、黒煙濛々、幅広なパドルの水音も頼もしく利根川筋を上下した外輪曳船たち! 近代の河川物流を担ったこのフネブネの姿を、もっともっと見てみたいものです。

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川口川閘門、稼働中!
●以前入手した昔の絵葉書の中に、とても興味深いものがあったので紹介させてください。
土浦の川口川閘門‥‥すでに「土浦のマイタゲートと川口港」で竣工当時のものと思われる絵葉書を、また「土浦再訪…1」では保存されている扉体と排水ポンプに触れた、明治39年竣工のマイタゲート水門です。過去の記事の繰り返しになりますが、閘門を名乗ってはいるものの、実態は一対の扉体で構成された逆水防止水門で、閘門機能はありません。

●土浦閘門排水の景其一・其二
宛名・通信欄の仕切り線なし、裏面に「土浦知久製」の銘あり。
●ご覧のとおり、二枚組で絵柄を連続させた撮り方をしており、「疑似パノラマ写真」になっているのがまず目を引きます。しかし、何より珍しく思えるのは、水門が実際に増水を防ぎ、堤内地を今まさに守っているさま‥‥いわば稼働中の水門を、記録している写真だということ!
ある意味、少なくない費用を投じて建造した水防施設が、こんなにも役に立つ、ということを人々に知らしめる効果を狙った感もなくはないものの、趣味的に見て興味深いシーンを記録してくれた当時の人には、感謝のほかありません。例によってディテールを堪能してみましょう。

●まずは扉体から。閉鎖された状態を見るのはもちろん初めてで、側壁に見える石材の積み方のパターンや、扉体の軸の形状などが観察できますが、目を引くのは扉体を開閉するラックでしょう。
弧状で細い割に長さがあり、自重でヘニョッといってしまわないか心配になるほどですね。扉体についた湛水線は、水がすでに引きつつあることを示しています。

●この仮設された排水ポンプと思しきものにも、大いに興味をそそられますね。棒材やトタン板、ムシロまで動員して、頑丈そうに小屋組みをしているところを見ると、すでに降雨時から準備されて、内水排除を続けていたのかもしれません。人々やムシロの影に隠れて、機械が見えないのがちょっと残念ですが、煙突の長さからボイラーは横型のようです。プーリーやベルトがちらっと見えることから、ポンプ自体は小屋の右手にあるようですね。
「土浦再訪…1」でも説明板にあったとおり、ポンプが常設されたのは水門竣工よりだいぶ下って、昭和13年とのことでしたから、それ以前はこのように豪雨や出水のあるたび、ポンプを仮設して対処していたのでしょう。

●小屋を貫通して設けられた木樋は左手、葉書「其二」の石垣護岸まで導かれ、水面近くまで伸ばした先から水を勢いよく吐き出しています。水流に手を突っ込んでいる子供がいたりして、何とも微笑ましいですね。
いや、それにとどまらず、水門やポンプの周囲が多くの見物人で賑わうさま、まるで縁日のようで楽しくなってきます。おそらく台風一過でホッとしたところで、晴れ渡って泥んこの道も乾いてきたことだしと、珍しいポンプ見物に繰り出したといったところでしょう。明治末の風俗の記録にもなっていて、一人一人の仕草や服装を拾ってゆくのも楽しいものです。
●なお、二枚とも裏面には宛名・通信欄の仕切り線がなく、そのまま解釈すれば推定発行年代は明治33年~明治40年3月となりますが、印刷ミスであることも考えられ、この点は保留にしておきたいと思います。土浦市の水害や水防活動の記録をたどれれば、あるいは撮影年が判明するかもしれませんが。

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土浦の川口川閘門‥‥すでに「土浦のマイタゲートと川口港」で竣工当時のものと思われる絵葉書を、また「土浦再訪…1」では保存されている扉体と排水ポンプに触れた、明治39年竣工のマイタゲート水門です。過去の記事の繰り返しになりますが、閘門を名乗ってはいるものの、実態は一対の扉体で構成された逆水防止水門で、閘門機能はありません。

●土浦閘門排水の景其一・其二
宛名・通信欄の仕切り線なし、裏面に「土浦知久製」の銘あり。
●ご覧のとおり、二枚組で絵柄を連続させた撮り方をしており、「疑似パノラマ写真」になっているのがまず目を引きます。しかし、何より珍しく思えるのは、水門が実際に増水を防ぎ、堤内地を今まさに守っているさま‥‥いわば稼働中の水門を、記録している写真だということ!
ある意味、少なくない費用を投じて建造した水防施設が、こんなにも役に立つ、ということを人々に知らしめる効果を狙った感もなくはないものの、趣味的に見て興味深いシーンを記録してくれた当時の人には、感謝のほかありません。例によってディテールを堪能してみましょう。

●まずは扉体から。閉鎖された状態を見るのはもちろん初めてで、側壁に見える石材の積み方のパターンや、扉体の軸の形状などが観察できますが、目を引くのは扉体を開閉するラックでしょう。
弧状で細い割に長さがあり、自重でヘニョッといってしまわないか心配になるほどですね。扉体についた湛水線は、水がすでに引きつつあることを示しています。

●この仮設された排水ポンプと思しきものにも、大いに興味をそそられますね。棒材やトタン板、ムシロまで動員して、頑丈そうに小屋組みをしているところを見ると、すでに降雨時から準備されて、内水排除を続けていたのかもしれません。人々やムシロの影に隠れて、機械が見えないのがちょっと残念ですが、煙突の長さからボイラーは横型のようです。プーリーやベルトがちらっと見えることから、ポンプ自体は小屋の右手にあるようですね。
「土浦再訪…1」でも説明板にあったとおり、ポンプが常設されたのは水門竣工よりだいぶ下って、昭和13年とのことでしたから、それ以前はこのように豪雨や出水のあるたび、ポンプを仮設して対処していたのでしょう。

●小屋を貫通して設けられた木樋は左手、葉書「其二」の石垣護岸まで導かれ、水面近くまで伸ばした先から水を勢いよく吐き出しています。水流に手を突っ込んでいる子供がいたりして、何とも微笑ましいですね。
いや、それにとどまらず、水門やポンプの周囲が多くの見物人で賑わうさま、まるで縁日のようで楽しくなってきます。おそらく台風一過でホッとしたところで、晴れ渡って泥んこの道も乾いてきたことだしと、珍しいポンプ見物に繰り出したといったところでしょう。明治末の風俗の記録にもなっていて、一人一人の仕草や服装を拾ってゆくのも楽しいものです。
●なお、二枚とも裏面には宛名・通信欄の仕切り線がなく、そのまま解釈すれば推定発行年代は明治33年~明治40年3月となりますが、印刷ミスであることも考えられ、この点は保留にしておきたいと思います。土浦市の水害や水防活動の記録をたどれれば、あるいは撮影年が判明するかもしれませんが。

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