新潟大堰…4
(『新潟大堰…3』のつづき)
●新潟大堰と閘門を楽しんだ後は、関屋分水資料館へ。関屋出張所に併設された展示室で、関屋分水の構想から開鑿に至るまでの歴史はもとより、流域の治水や川に棲む生き物に至るまで、小規模ではありますが充実した展示内容です。
節電の折柄ゆるくではありますが、室内は冷房がかかっており、お手洗いや冷水器も完備しているので、炎天下を輪行してきた身には、実にありがたい小休止となりました。

●パネル展示が主ですが、床の真ん中にスペースを割いて、実物同様の材料で組まれた粗朶沈床の4分の1模型が置いてあるあたり、さすが治水をつかさどるお役所といったところ。先ほど通ったやすらぎ堤や大河津分水、海岸にも使われているとのことでした。
●玄関正面にある、分流点一帯を含めた関屋分水の情景模型も面白く拝見。縮尺は1:2500ですが、垂直方向は1:1250として、高さを強調して造られているとのこと。
今は亡き、新潟交通の線路も表現されているのが見えます。興味深かったのは、小さな樋管や排水機場にも、ちゃんとプレートで名前が入っていたこと。出張所管内の施設は、小なりといえどきちんと明記するあたり、お役所らしい几帳面さが感じられました。
●同じく玄関脇にあった水槽には、このあたりの河中に棲む魚などが飼育されている…はずなのですが、陰に隠れているのか、それとも老眼のせいか、姿が見えませんでした。
それより、水槽に沈んでいるコレ! テトラポッドのミニチュアに目線が吸い寄せられました。その筋の皆さんなら、単体でも欲しがりそうです。

●見学しながら涼ませてもらい、リフレッシュしたところでふたたび前進。新潟大堰橋を渡って、関屋分水に別れを告げ、県庁前船着場に戻ります。
(23年8月9日撮影)
(『みなとぴあの復元堀』につづく)

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節電の折柄ゆるくではありますが、室内は冷房がかかっており、お手洗いや冷水器も完備しているので、炎天下を輪行してきた身には、実にありがたい小休止となりました。

●パネル展示が主ですが、床の真ん中にスペースを割いて、実物同様の材料で組まれた粗朶沈床の4分の1模型が置いてあるあたり、さすが治水をつかさどるお役所といったところ。先ほど通ったやすらぎ堤や大河津分水、海岸にも使われているとのことでした。

今は亡き、新潟交通の線路も表現されているのが見えます。興味深かったのは、小さな樋管や排水機場にも、ちゃんとプレートで名前が入っていたこと。出張所管内の施設は、小なりといえどきちんと明記するあたり、お役所らしい几帳面さが感じられました。

それより、水槽に沈んでいるコレ! テトラポッドのミニチュアに目線が吸い寄せられました。その筋の皆さんなら、単体でも欲しがりそうです。

●見学しながら涼ませてもらい、リフレッシュしたところでふたたび前進。新潟大堰橋を渡って、関屋分水に別れを告げ、県庁前船着場に戻ります。
(23年8月9日撮影)
(『みなとぴあの復元堀』につづく)

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新潟大堰…3
(『新潟大堰…2』のつづき)
●新潟大堰橋の橋詰から東を見たところ。左に見える巨大な記念碑様のものが、前回触れた閘門下流側ゲートの堰柱の片われ。堰の竣工を記念した石板がはめ込まれているとともに、橋の親柱的な役割も果たしているといえそうです。
近寄ってみると(下写真)、何ていうんでしょう、表面に敷き詰められた、波打った表面のタイルも渋く、巨大な石の銘板とよくなじんで、まさに記念碑のような雰囲気。はしごや手すりがなければ、普通の人は堰柱と気づかないでしょう。堰柱のこういった利用のしかたは初めて見たので、感心させられました。

●橋詰の西側は、関屋出張所の敷地なのですが、海側の一角は資材置き場と倉庫があり、興味を惹かれるものがいろいろと置かれていました。
これは…扉体の一部のようですね。一瞬、ラジアルゲートやセクターゲートのようにも思えたのですが、スキンプレートらしい部分が平面なので、シェル式ローラーゲートの組み立て前の状態かもしれません。
手前には、航路標識のブイがいくつかごろりと転がされ、シートで覆われた資材もあったりして、雑然とした雰囲気です。

●こちらはローラー…ローラーゲートについている、あのローラーですよね? 生地が露出したトレッドの部分はきれいに錆びていますが、輪心の塗装はそう古くなく、管理されつつ保管していることがうかがえます。
●これも扉体の一部でしょうか、先ほどのものと違って、構造部分が未装着のようです。
まあ、詳しいことはわからないので、何ともいえないのですが、こんなに多くの資材や部品が、露天保管されているのを見たのももちろん初めてなので、これまた興味深く拝見しました。
(23年8月9日撮影)
(『新潟大堰…4』につづく)

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近寄ってみると(下写真)、何ていうんでしょう、表面に敷き詰められた、波打った表面のタイルも渋く、巨大な石の銘板とよくなじんで、まさに記念碑のような雰囲気。はしごや手すりがなければ、普通の人は堰柱と気づかないでしょう。堰柱のこういった利用のしかたは初めて見たので、感心させられました。


これは…扉体の一部のようですね。一瞬、ラジアルゲートやセクターゲートのようにも思えたのですが、スキンプレートらしい部分が平面なので、シェル式ローラーゲートの組み立て前の状態かもしれません。
手前には、航路標識のブイがいくつかごろりと転がされ、シートで覆われた資材もあったりして、雑然とした雰囲気です。

●こちらはローラー…ローラーゲートについている、あのローラーですよね? 生地が露出したトレッドの部分はきれいに錆びていますが、輪心の塗装はそう古くなく、管理されつつ保管していることがうかがえます。

まあ、詳しいことはわからないので、何ともいえないのですが、こんなに多くの資材や部品が、露天保管されているのを見たのももちろん初めてなので、これまた興味深く拝見しました。
(23年8月9日撮影)
(『新潟大堰…4』につづく)

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新潟大堰…2
(『新潟大堰…1』のつづき)
●閘室両側には、そろそろ懐かしくなってきた形の街灯が各一本あり、夜間の通航も考えていたことがわかります。さらに面白く思ったのが、右側に見える桟橋様のもの。支柱と鋼線で吊って、90度回転できるような構造になっているのです。
よく見ると、対岸(?)の背割堤の上には、桟橋の重量を受ける支承のような出っ張りも見られますね。簡素な可動橋といってもいいでしょう。メンテナンスか、または通航船のもやいを取るために、背割堤に行き来できるようにした、いわば交通用として備えられたのでしょうね。
●新潟大堰橋の上から閘室を見て。出口が絞られているとあって、流速はかなり早く、ザーザーと水音が聞こえてくるほどです。
閘室の側面はフラットで、フェンダーやアイのたぐいは一切見られません。ビットも岸側に2ヶ所と極端に少なく、つるりとしたとっかかりのなさには、通航ぜずともちょっと不安にさせられます。恐らく、洪水時には閘門を含めて全開放させ、水をスムーズに流下させることを第一として、設計されたためでしょう。
●橋の上にちょっと顔をのぞかせる、下流側扉体。信濃川水門の閘門同様、上流側の面のみ赤く塗装されています。この塗り方、信濃川下流事務所管内で決められた方式なのでしょうか。
左の堰柱がずいぶん凝った感じですが、これは堰の親柱的な性格を持たせてあるためです。後でご覧に入れましょう。

●下流側…堰としてはこちらが表になるのですね、閘門の周りで騒いでいたので、後回しになってしました。光線が今一つながら、夏空の下で凛々しい姿を一枚。
●同じ場所から振り向けば、沖に本船もゆきかう日本海の雄大な風景。川から流れ出た濁水が、沖合にくっきりとした線を作る、印象的な光景でした。
水の染まり方からして、関屋分水からだけではないように思えました。沿岸流の方向がわからないので、正確なところは不明ですが、信濃川河口や、大河津分水からの水も含まれているのでしょうね。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月9日撮影)
(『新潟大堰…3』につづく)

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よく見ると、対岸(?)の背割堤の上には、桟橋の重量を受ける支承のような出っ張りも見られますね。簡素な可動橋といってもいいでしょう。メンテナンスか、または通航船のもやいを取るために、背割堤に行き来できるようにした、いわば交通用として備えられたのでしょうね。

閘室の側面はフラットで、フェンダーやアイのたぐいは一切見られません。ビットも岸側に2ヶ所と極端に少なく、つるりとしたとっかかりのなさには、通航ぜずともちょっと不安にさせられます。恐らく、洪水時には閘門を含めて全開放させ、水をスムーズに流下させることを第一として、設計されたためでしょう。

左の堰柱がずいぶん凝った感じですが、これは堰の親柱的な性格を持たせてあるためです。後でご覧に入れましょう。

●下流側…堰としてはこちらが表になるのですね、閘門の周りで騒いでいたので、後回しになってしました。光線が今一つながら、夏空の下で凛々しい姿を一枚。

水の染まり方からして、関屋分水からだけではないように思えました。沿岸流の方向がわからないので、正確なところは不明ですが、信濃川河口や、大河津分水からの水も含まれているのでしょうね。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月9日撮影)
(『新潟大堰…3』につづく)

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新潟大堰…1
(『関屋分水を走る』のつづき)
●新潟大堰を上流側から眺めて。シェル式ローラーゲート(で、いんですよね?)5径間に閘門1基の威容、自転車を漕いで遠路はるばる(でもなんでもない)来ただけあって、感動もひとしお。扉体一枚向こうは、もう日本海の水なのですね。
管理橋をかねた橋、新潟大堰橋の中央径間(下写真)は足場で覆われていて、何か工事中のようです。横断幕には「安全・快適に渡れるよう橋を補修しています。」とありました。


●閘門を見て、う~んとうなってしまいました。ご覧のとおり、上流側の扉体が取り外されているのですが、これ、佐藤老師が13年前に撮られた写真(Floodgates『Floodgates List 8』参照)の状態と、まったく変わっていないんですよ。
たまたま13年前と、今回の訪問が点検時だった、というパターンも考えられますが、そんな頻繁に扉体を外す必要があるとも思えません。やはり、実質的に長期休止状態なのでしょうか。
残念、こうして正面から拝めるテラスもあるだけに、運転されていたら、絶好の鑑賞スポットになったと思うのですが。
●上の写真でもおわかりのように、閘門の径間のみ扉体が開放されていて、水はさざ波を立てて日本海に流れ出ています。通航禁止のロープはだいぶ上ですから、PWCなどで突破する猛者もいるんだろうなあ。
この閘門、上流側のゲートは堰柱をまたいだ巻上機室のあるタイプで、下流側は堰に合わせた堰柱独立タイプと、ちょっとした変わり型でもあります。
●閘門のすぐ上流側に、ポンドがあったので一枚。突き出した部分の護岸が蔦におおわれて、あまり使われていないような雰囲気ですが、階段の幅も広く取られ、決して安っぽい感じではありません。
やはり、信濃川下流河川事務所・関屋出張所がある関係で、船着場もそれなりのものが整備されたのでしょうね。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月9日撮影)
(『新潟大堰…2』につづく)

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管理橋をかねた橋、新潟大堰橋の中央径間(下写真)は足場で覆われていて、何か工事中のようです。横断幕には「安全・快適に渡れるよう橋を補修しています。」とありました。


●閘門を見て、う~んとうなってしまいました。ご覧のとおり、上流側の扉体が取り外されているのですが、これ、佐藤老師が13年前に撮られた写真(Floodgates『Floodgates List 8』参照)の状態と、まったく変わっていないんですよ。
たまたま13年前と、今回の訪問が点検時だった、というパターンも考えられますが、そんな頻繁に扉体を外す必要があるとも思えません。やはり、実質的に長期休止状態なのでしょうか。
残念、こうして正面から拝めるテラスもあるだけに、運転されていたら、絶好の鑑賞スポットになったと思うのですが。

この閘門、上流側のゲートは堰柱をまたいだ巻上機室のあるタイプで、下流側は堰に合わせた堰柱独立タイプと、ちょっとした変わり型でもあります。

やはり、信濃川下流河川事務所・関屋出張所がある関係で、船着場もそれなりのものが整備されたのでしょうね。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月9日撮影)
(『新潟大堰…2』につづく)

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関屋分水を走る
(『信濃川水門…4』のつづき)

●信濃川水門を離れて、関屋分水の東岸を北上、目指すは新潟大堰(と、もちろん併設の閘門)。およそ1.7㎞の道のりです。
さっそく行き当たった「関屋分水路」の看板。う~ん、「分水」と「分水路」、どちらがより親しまれているんだろう? 現地で集めた資料やサイトを拝見していると、どうも「分水」のほうに分がありそうなので、そちらでいかせていただきます。
●県道16号線、関屋大橋をくぐる下り坂で気持ちよくスタート。後で考えてみると、この橋、廃止された新潟交通の線路が渡っていた橋だったんですよね。西岸には築堤も残っているとのこと、惜しいことをしました。
関屋分水は、信濃川最下流部一帯の洪水被害を軽減するために開鑿された放水路で、昭和47年に竣工しました。構想は江戸時代からあり、明治43年には地域の排水のため、すでに関屋分水と一部ルートが重なる掘割が造られていたというのも興味深いですね。
「関屋堀割町」「堀割町」という地名や、東岸の街割りに掘割のあったことをしのぶことができます。「会津と越後を結ぶ、水の街道 関屋分水路」(おいでなされまし)に堀割のルートや経緯が詳しく書かれています、ぜひご覧ください。
●JR越後線の鉄道橋と、有明大橋が見えてきました。東岸橋詰のあたり、橋の名前をそのままとった「有明大橋町」があるのですね。
地元の方ならではの貴重な写真が盛りだくさんのサイト、「関屋分水のできる前」(新潟街角今昔)によると、東岸の文京町や信濃町一帯は、かつて関屋競馬場(新潟競馬場)があり、関屋分水の開鑿区域にかかる住宅などの代替地として、昭和39年に廃止、現在の新潟市北区に移転したとのこと。
かつての関屋駅前一帯は「競馬町」という地名だったようですから、「有明大橋町」は分水開鑿後、新たに付けられた地名なのでしょう。
●堀割橋を遠くに望むあたりで、早くも新潟大堰の堰柱が見えてきました。
ここから河口近くを眺めると、砂丘がつくった地形でしょうか、西岸に緑の丘がもこりと出っ張っており、なかなかの景勝地です。

●堀割橋から北を眺めたところ。新潟大堰を間近に眺めるなら、一本下流の浜浦橋を渡ればよかったのですが、そこはそれ。
堰の向こうは、久しぶりの日本海。すじ雲が堰を中心に放射状に広がって、どこか爽快な眺めでした。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月9日撮影)
(『新潟大堰…1』につづく)

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●信濃川水門を離れて、関屋分水の東岸を北上、目指すは新潟大堰(と、もちろん併設の閘門)。およそ1.7㎞の道のりです。
さっそく行き当たった「関屋分水路」の看板。う~ん、「分水」と「分水路」、どちらがより親しまれているんだろう? 現地で集めた資料やサイトを拝見していると、どうも「分水」のほうに分がありそうなので、そちらでいかせていただきます。

関屋分水は、信濃川最下流部一帯の洪水被害を軽減するために開鑿された放水路で、昭和47年に竣工しました。構想は江戸時代からあり、明治43年には地域の排水のため、すでに関屋分水と一部ルートが重なる掘割が造られていたというのも興味深いですね。
「関屋堀割町」「堀割町」という地名や、東岸の街割りに掘割のあったことをしのぶことができます。「会津と越後を結ぶ、水の街道 関屋分水路」(おいでなされまし)に堀割のルートや経緯が詳しく書かれています、ぜひご覧ください。

地元の方ならではの貴重な写真が盛りだくさんのサイト、「関屋分水のできる前」(新潟街角今昔)によると、東岸の文京町や信濃町一帯は、かつて関屋競馬場(新潟競馬場)があり、関屋分水の開鑿区域にかかる住宅などの代替地として、昭和39年に廃止、現在の新潟市北区に移転したとのこと。
かつての関屋駅前一帯は「競馬町」という地名だったようですから、「有明大橋町」は分水開鑿後、新たに付けられた地名なのでしょう。

ここから河口近くを眺めると、砂丘がつくった地形でしょうか、西岸に緑の丘がもこりと出っ張っており、なかなかの景勝地です。

●堀割橋から北を眺めたところ。新潟大堰を間近に眺めるなら、一本下流の浜浦橋を渡ればよかったのですが、そこはそれ。
堰の向こうは、久しぶりの日本海。すじ雲が堰を中心に放射状に広がって、どこか爽快な眺めでした。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月9日撮影)
(『新潟大堰…1』につづく)

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