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通運丸就航当初の料金表から

内国通運が明治10年に発行した汽船航路の料金表、「郵便御用 川蒸氣通運丸賃金改正表」をご覧に入れましょう。明治10年といえば、川蒸気船・通運丸が大川筋に初お目見えした年、関東における川蒸気の勃興が始まった、記念すべき年! そんな時代の息吹が感じられる史料を、手にできたときの喜びは例えようがないものでした。

公式の開業日は5月1日で、当初は小名木川の深川扇橋から、思川の生井に至る航路でしたが、早くも8月21日には、表にも記載されている生良・乙女まで延長されています。

タイトルに「改正表」とあるのは、この表が航路延長にともなって、従来の内容を改定したものであることを示しているのでしょう。「明治十年 月」と、発行月が空欄になっているのも、開業がまだ決まっていない延長に先立って、作成・配布されたものと考えれば納得がいきますね。

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郵便御用 川蒸氣通運丸賃金改正表
寸法275㎜×404㎜、明治10年発行。


川汽船航路の料金の特徴は、鉄道と違い上りと下りが同額でなく、結構な差がついていることがまず挙げられます。東京~古川間でくらべてみると、下りが50銭なのに、上りが35銭と3割引きの額になっています。区間によって割引額は異なりますが、東京へ向かう便は総じて安く設定されているのがわかりますね。

何とはなしに「上り、下り」と書いてしまいましたが、川の流れからすれば全く逆で、東京を離れる便は江戸川・利根川の流れに抗して遡上し、東京に向かう便は流れに乗って下航するわけで、当然消費される燃料にも、大きく差がつくための料金設定と思って間違いありません。なお「乗船人御心得」にも載っているように、子供は4歳まで無料、12歳以下は半額で、上等船室は料金表にある額の5割増しでした。

ちなみに5月1日、開業当初の通運丸は第1号・第2号の2隻で、6月1日よりさらに1隻が追加されたとのこと。明治10年中には第6号までの通運丸が就航していますから、生良・乙女延長時点で、少なくとも3隻以上の通運丸が活躍していたことになります。

開業当初は隔日1往復だった便数も、生良・乙女延長時には隻数の増加により、起終点を同時出港する毎日1往復に増便され、この表にはありませんが、明治10年中には荒川の戸田、利根川の木下と、他の河川にも次々に航路を伸ばしてゆきます。浚渫による航路整備など、入念な準備を経たこともあるでしょうが、まさに満を持した登場といっても、いい過ぎではない勢いが感じられたものです。

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古河渡舩塲(油治商店發行)
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


「賃金改正表」が発行された、時代や寄港地がしのべるような絵葉書を、手持ちの中から2点選んでみました。1枚目は最初期からの寄港地である、渡良瀬川は古河を写したもの。以前講演させていただいた折にスライド上映したり、他所のプレゼン資料にお貸ししたこともあるので、ご覧になった方もおられるかと思います。

外輪カバーの号数が判読できないのが惜しいですが、文字数が4文字――例えば「第三十二」のような――に見えるので、とすれば第二十一号通運丸の就航後、明治16年以降の撮影と思われます。岸は近いものの桟橋は見当たらず、艀を横付けしての荷役中。汽船が横付けできる規模の桟橋を備えた寄港地は少なく、艀を用いて荷客を扱うのが普通でした。

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キャプションなし(裏面に『宮戸川通船之景』の書き込みあり)
寸法58×90㎜。密着焼写真を台紙に貼ったもの。明治時代、撮影年不詳。


これは絵葉書でなく写真ですが、体裁から見ても手持ちの中では最古級と思われます。何より嬉しかったのが、ブレていはいても号数が判読できたこと! 第七号通運丸! 初代が明治11年7月、2代目が明治13年8月に就航。2代目の諸元は全長74尺(22.4m)、幅10尺(3.03m)、公称16馬力、速力約3kt。写真からどちらかは判別しかねますが、もし短命に終わった初代だったら、極めて貴重な写真になるでしょう。

宮戸川(みやどがわ)は落語のお題でも知られるように、浅草・駒形附近の隅田川を指す名前。背景に写り込んだ家並を見ても、なるほど街場らしい商家がぎっしりと甍を連ね、水際に詰まれた石垣も密で、いかにも浅草といった雰囲気です。通運丸に目を移せば、船首の旗竿にはためく内国通運の旗、白く砕ける船首波や、水しぶきを盛大に散らせる外輪と、勇壮な航走ぶりを見事にとらえているのが魅力的ですね。撮影地が浅草あたりとすれば、戸田通いの荒川航路でしょうか。

珍しく思ったのは、甲板レベルに下端を揃えた窓の配置です。窓がこの高さにあるということは、船室の床面は入口よりだいぶ低く取ってあるとみてよいでしょう。外輪の通運丸でこのタイプを見たのは初めてです。この点と、外輪カバーの書体やレイアウトから、絵葉書でよく見てきた他の川蒸気にはない古様(?)を感じたのでした。初代だといいなあ。

明治一桁から利根川丸ほか、小船社による川蒸気船はすでに登場していたものの、舟航隻数と航路規模から見れば、関東の川蒸気時代を現出したのは通運丸船隊に他なりません。その黎明ともいえる時期の「賃金表」を前に、和紙の感触や木版らしい刷りの雰囲気を愛でながら、ひととき想いを馳せたことではありました。

参考文献
図説・川の上の近代 ―通運丸と関東の川蒸気船交通史― 川蒸気合同展実行委員会 編
【図説】江戸・東京の川と水辺の事典 鈴木理生 編著 柏書房

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タグ : 川蒸気船 通運丸 隅田川 渡良瀬川 絵葉書・古写真

通運丸の複製錦絵から始まる興味深いあれこれ

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上に掲げた絵については、ご存知の方も多いでしょう。川蒸気船・通運丸を題材にした錦絵としては代表的なもので、タイトルは「東京兩國通運會社川蒸氣往復盛栄真景之圖」、明治10年代に野澤定吉という人が描いた多色刷り版画です。

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川蒸気の屋根の上

215041.jpg現役時代の川蒸気船の姿を見たい一心で、絵葉書など古写真に求め始めてもうだいぶたちましたが、高所から俯瞰したもの‥‥すなわち最上甲板、屋根のディテールをしっかりとらえた写真は、現物が少ないのか、ごくわずかしか出会えていません。

今回はその中でも、出色(他にももっと素晴らしいものがあるのでしょうが、私的にね)のもの2点をご紹介し、あれこれ妄想を垂れ流してみたいと思います。
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走る通運丸、二題

通運丸の航行するシーンをとらえた絵葉書を、2枚選んでみました。いずれも遠景で、船単体のディテールを観察するには少し難がありますが、川蒸気が生き生きと躍動していたころの雰囲気を味わうには、十分過ぎる情報量が写し込まれています。

再現性の高いコロタイプならではの特徴を生かして、要所を拡大しディテールを愛でてみましょう。なお、煙突の白線が1本であることから、3隻とも通運丸船隊のどれかと判断しました。

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水郷趣味 大船小舟の往來
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


おそらく常陸利根川北岸から、ポプラが点在する十六島を望んだ、フネブネのゆきかう川景色。帆船は見たかぎり9反帆で、微風を受けて右手、霞ヶ浦方へ上航していますが、船体が黒くつぶれており船種はわかりません。

絵柄の中心に据えられた通運丸は、外輪後端から派手に水しぶきを上げ、すでに結構な速度に達しているようです。撮影地が潮来だとすれば、桟橋を離れて間もない瞬間を撮ったのでしょう。これから鹿島の大船津へ向かうのでしょうか。拡大してみましょう。

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外輪カバーに書かれた船名の上にあるはずの、番号が判読できず個体を特定できないのがもどかしいところですが、威風堂々の航進ぶりがよい角度でとらえられていて、心躍るものが。船首尾から船体中心に向かって、凹んだ形にゆるく反った甲板のラインもよくわかります。

屋根上には3人の人影が見え、船首寄りの一人は長大な竿を持っているようです。離岸直後の撮影であれば、解䌫後にこの竿で桟橋を突いて、船首を沖へ向ける作業をしたことでしょう。煙突からの煙が全く出ていませんが、修正されたのか、それとも燃焼状態が極めてよいからでしょうか。

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潮來の風趣 北利根川より稻荷山公園を望む(敬文館發行)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


潮来の写真というと、水際に接して建つ大きな旅館を写したものが思い出されますが、これは背後の稲荷山(だとすれば、ですよ)の位置からして、それより西を撮ったものでしょうか。桟橋と水駅らしい建物を挟んで、外輪と暗車、2隻のタイプが異なる通運丸が写っているという、珍しいものです。

桟橋状には多くの人影が見られ、その左、軒下には俵らしい荷が山積みされて、人荷ともに集散が盛んなことが見て取れ、航路の賑わいが感じられてよいものですね。何しろ、左の外輪船ときたら‥‥。

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屋根の上に人があふれかえっている!

座っているのはまだましで、立っている人も結構いますね。船室横と後ろの回廊にも、大荷物をはみ出させているのが見え、中も恐らくぎゅう詰めなのが想像できます。和装でカンカン帽をかむった人が多いのも、時代を感じさせますね。

面白いのは、外輪より後ろに人が集中しているせいでしょう、船首の喫水がすっかり上がって、アップトリムになっていること。そういえば、船体も心なしか人の重みで、船尾が逆に反っているようにも見えます。お祭りでもあった後なのか、日常の光景だったのかはわかりませんが、川蒸気ファンとしては思わず目尻が下がるような、ほほえましい写真ではないですか。

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右の通運丸はもやった状態で、罐の火も落としているようですね。暗車だけに舷側がフラットなことから、外輪より幾分スマートな印象を受けます。船体が手前側に傾いており、屋根の上には解いた荷らしきものや人影が見えることから、荷役中なのかもしれません。

前後の船室とも、いくつかの窓が開いている様子から、落とし込み式の窓であることが見て取れます。機械室側面の開口部から、しゃがんで中をのぞき込んでいる人物は上半身裸に見えますが、火夫でしょうか。

人声に満ちた河港の賑わいと、外輪が水をかく音が聞こえてくるような写真。日時や船体の詳細は分からなくとも、この時代の雰囲気を無心に楽しめる佳さがあるように思えます。川蒸気が元気だったころの、水運時代の素敵な川景色! これからも出会えるといいなあ。

【2月14日追記】
書棚の整理がついて、本が引っ張り出せるようになったので追記させていただきます。
2枚目の絵葉書「潮來の風趣‥‥」ですが、月刊「世界の艦船」の読者なら、「あっ、これ見たことあるぞ!」とお気づきになったことと思います。同誌第629集(2004年8月号)の51ページに、「珍しいツーショット発掘、潮来河岸の外輪船とスクリュー船」(所蔵:迫口充久氏)と題して、同じ原版から起こしたと思しき絵葉書が掲載されていたからです。以下、興味深い部分を抜き書きしてみましょう。

同記事のキャプションによれば、外輪船を「第七号通運丸」と断定しているのがまず印象的でした。ディテールの分析など、特に理由に触れていないということは、写真で判読できたということに他なりません。私の手持ちの絵葉書と違い、印刷が鮮明だったのでしょう。

また、北利根川(常陸利根川)が拡幅前であること、服装や河岸の様子から、撮影が明治末から大正初期と推定されることにきちんと言及しているあたり、さすが「世界の艦船」。文末ではさらなる分析を読者に向けて呼びかけていましたが、早くも第635集(2004年12月号)の読者交歓室欄で、長崎県の西口公章氏から投稿があったのです。

西口氏は「水郷汽船史」や各年代の「船名録」、「石川島重工108年史」、「船舶史稿 第17巻」を参考資料に、右にもやう暗車船を「第二十五号通運丸」か、「第二十六号通運丸」と推定され、また両船が内国通運より東京湾汽船に移籍した年代などから、写真の撮影年を、明治20年から22年の約3年の間であろうと絞り込まれていました(『川の上の近代』によれば、両船の移籍は明治24年より)。

西口氏の分析が正しいとすれば、裏面から推定される絵葉書の発行年代と、少なくとも30年近い隔たりがあることになります。同じ版を使った絵葉書が、信じられないほどのロングセラーとして重版をかけつつ販売されていたのか、それとも何かのきっかけで、昔の風景に商品価値が出てリバイバルされたのかはわかりませんが、この時代の絵葉書が決して近い過去ばかりを写した存在ではないことに、注意をしておく必要はあるかもしれません。

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タグ : 川蒸気船 通運丸 常陸利根川 絵葉書・古写真 水郷

横利根閘門の外輪川蒸気二題

横利根閘門の絵葉書六題」でも紹介したように、横利根閘門は水郷の名所として、絵葉書の題材にもよく取り上げられ、ために通航シーンも数多く残されています。今回はその中から、外輪川蒸気船の姿をとらえた絵葉書2枚を眺めてみましょう。

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潮來名所 利根川水門口
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


利根川方から、閘室に進入しつつある川蒸気。水線付近、かすかに見える船首波は低く、減速している様子が見てとれます。煙突の白線は1本なので、通運丸船隊の1隻ですね。

左上、法面上の植木は支え木こそ見えないものの、枝も伸びていないことから、横利根閘門が大正10年に竣工して、まださほど時を経ていないころでしょう。

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川蒸気ファンとしては、シャッターを下ろすのがいかにも早すぎたなあ、あと10秒でも遅ければ‥‥といいたくなるもどかしい一枚ではあります。拡大して眺めてみましょう。

ううん、ピント自体が甘い上、印刷の加減か絵柄もツブレ気味なので、拡大しても読み取れるディテールは限られますね。操舵室正面の窓3つと、出入口の扉は開放されていること、煙突の周りには若干の積荷らしいものと、2名ほど人影が見えること、くらいでしょうか。

あと、外輪カバーがトップから大きく盛り上がり、幅もずいぶん広く、はみ出したようなあたりも目を引きますね。「続・川蒸気のイメージを求めて」で紹介した、「銚子名所 利根川の桟橋」に写っている船体によく似ています。ディテールから特定ができればよいのですが。

ちなみに通運丸を名乗った外輪船で、最末期まで残ったものは以下のとおりでした。

第二号、第五号、第六号、第八号、第二十九号、第三十三号、第三十五号の7隻。これらは東京通運の所有で、昭和11年末まで船名録に記載されていたのこと(『川の上の近代』より)。トン数は49~83tと比較的大型で、明治25年から36年と、利根川航路がまだ意気盛んだったころに建造されたもの。写真の船はさて、このうちの何号だったのでしょう?

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(佐原名所) 佐原沖の關門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


2枚目のこれは、1枚目のもどかしさを忘れさせるような、鮮明かつほどよい距離から撮影されたもの。川蒸気を主な題材とした写真の中でも、出色の一枚といって、いい過ぎでないものではないでしょうか!

船尾から伸ばされた竿(ボートフック?)、船首付近を歩く船員の姿、そこかしこに積み上げられた各種の積荷と、看取できるディテール一つ一つが生き生きとした情景を演出していて、川汽船の現役時代を濃厚に髣髴させてくれます。ちなみに方向は1枚目とは反対の、横利根川から利根川に向かう便を写したもので、煙突の白線は3本、銚子丸船隊ですね。

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これも拡大して堪能してみましょう。まずは船首付近から。操舵室周り、出入りも難しくなりそうなくらい、所狭しと積まれているのは、醤油か酒の樽みたいですね。霞ケ浦各所や潮来からの便だとすれば、中身が入ったものでなく、佐原などの醸造所に還送する空き樽でしょうか。

しかし、船首周りや手すりの構造、屋根外縁のガンネル(?)の段差、客室からぐっと絞った操舵室の幅など、細部が鮮明に写っていて嬉しくなります。よく見ると、右端の窓から身を乗り出している人がいますね。

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煙突から外輪にかけて。煙突の三本の白線が巻かれた部分、少し太くなっているように見えます。塗装でなく、帯材など別パーツを巻いて表現したのかもしれません。白線の上あたりから3~4本のリギンが甲板に張られていて、煙突を支えているのがわかります。

ツブレ気味で分かりにくいですが、煙突の前に2人座っているのと、外輪カバー手前には腹ばいに寝そべっている人も! その後ろにはたくさんの竿と、外輪カバー上の1本は丁字形の金具らしきものが先端にあることから、ボートフックと思われます。いや~、ここまで生々しく判別できるなんて、実に楽しい写真じゃないですか! これを撮った写真師に、お礼をいいたくなるほどです。

煙突の後ろには、これまたうず高く荷物が積まれています。手前は四角く結束したもの、後ろは円筒形の俵積みにしたもの。あまり重いものは高所に上げないでしょうから、かさ高で軽い荷物でしょう。

昭和に入っても、河川物流は運賃の低廉さから高瀬舟が活躍しており、船賃が高くスペースも限られる川蒸気で運ぶものは、荷がさの少ない小荷物レベルのものか、足の速い生鮮食品など、急ぎのものがせいぜいだったことは容易に想像できます。ちなみに銚子丸船隊、昭和14年の船名録では第一~第七の7隻が確認でき、71tから84tの外輪船だったとのこと(『水郷汽船史』より)。

さて、横利根閘門がレンガ造りということもあり、大時代な外輪川蒸気といかにもしっくりくるものがありますが、よく考えてみると、閘門が竣工した大正10年って、川蒸気の世界から見ればすでに往時の勢いを失った、晩年といってもいいころ。活躍の時期は重なっていても、決して全盛期を共有した「同時代人」というわけではないのです。

してみれば、川蒸気が輝いていたころの川景色とは、一見江戸時代とさして変わらないような、近代構造物の乏しい、浅瀬や急流がところどころに残された、河相も厳しい情景だったと思って間違いないのでしょう。関東の川にも閘門が続々と現れ、安全な通航が担保されつつあった大正末~昭和初期、同時に水運のたそがれが始まったとは、何とも皮肉としかいいようがありません。

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タグ : 通運丸 銚子丸 川蒸気船 横利根川 横利根閘門 閘門 絵葉書・古写真